第17章 現世 黄金 王の帰還
北海ドーム
CCロッカーズ最終戦
赤いランプが灯る
暗がりの一点で
RECの文字が脈を打っていた
九回裏
スコア
0―0
観客のざわめきが
低い波みたいに
スタンドを巡る
巨大なドーム全体が
ゆっくり呼吸していた
だが――
今夜は違う
どこか張りつめている
誰も口にしない
けれど
全員が待っていた
“黄金”を
私は
フィールドじゃなく
ベンチを抜いていた
レンズの先にいるのは
金城ヴィオ
怪我から戻ったばかり
それでも
今夜は代打で待っている
けれど
“待機”って言葉だけが
この場では軽すぎた
ファインダー越しに見ると
ベンチの空気が
彼を中心に歪んでいる
イヤモニ越しに
制作の声が落ちる
「夕羅
ベンチ寄りでヴィオ抜ける?」
返事はしない
カメラだけ動かす
ズーム
ベンチ
誰も騒がない
笑い声もない
ただ
呼吸だけが浅い
その背後――
ベンチ裏
ヴィオが
静かにバットを握っていた
素振り
ブン……ッ
音は小さい
それでも
耳じゃない場所が反応する
空気の密度が変わる
一振りごとに
胸の奥の黄金が
コツン……と鳴った気がした
ヴィオの右手が
わずかに握り直される
白いテーピングが軋む
戻ったばかりの指
まだ完全じゃない
それでも――
握る力だけは
迷っていなかった
唾を飲む音だけが
妙に大きい
このドームには
ときどき揺れが走る
私はその張りつめた空気を
レンズ越しに拾っていた
✦ ✦ ✦
アナウンスが響く
「代打――
金城ヴィオ」
同時に――
ドンッ!!
スピーカーが鳴る
♪ 天使の魔法 wMAGIC
私たちの曲
イントロが広がった瞬間
客席の光が一斉に跳ね上がる
スマホの光が
星みたいに瞬き
ドーム全体が
淡い海へ変わった
私は反射で
ベンチ裏へカメラを振る
ヴィオが
バットを握り直す
ブン……ッ
風圧が
画面の奥を裂いた
その瞬間――
ドームが
ピタリ……と沈黙する
次の瞬間
ドォォォ……!!
歓声じゃない
圧だ
胸の奥を
内側から押し潰すみたいな波
ゴゴ……
空気そのものが唸り
視界が微かに震える
瞬きできない
ヴィオが歩いてくる
バットを肩へ預け
呼吸を整え
右打席へ入った
構えは静か
だが――
抑え込まれた黄金が
今にも噴き上がりそうだった
相手投手の手が
目に見えて震えている
勝負できない
ボールは
ストライクゾーンを
避けるみたいに外れた
「フォアボールォォォッ!!」
誰も拍手を忘れていた
一拍遅れて
ドォォォォッ!!
歓声が
一気に押し寄せる
球場が
大きく息を吐く
ヴィオが一塁へ立つ
右足が沈む
芝が鳴る
ズ……ン……
初球
投手のモーションが
視界へ入る前に――
走るッ!!
ズパァァァン!!
その瞬間
胸の奥の黄金が
ギン……ッ
と走った
フレームが追いつかない
映像が一瞬飛ぶ
ヴィオの姿が
コマを抜けて
二塁へ跳んでいた
時が止まる
ゴゴゴゴ……
観客席のざわめきが
一拍遅れて追いつく
二球目
ヴィオは迷わず三塁へ走る
モワァァァ!!
砂煙がレンズを覆う
画面がざらつく
その奥で
ヴィオの手が
三塁を掴んでいた
審判の腕が横へ開く
「セェーフ!!」
黄金が
三塁へ刻まれた
三球目
相手バッテリーは
スクイズを警戒して外した
普通なら止まる
普通なら見る
だが――
ヴィオは止まらない
捕手が投手へ返球する
ほんの一瞬
白球が
捕手の指を離れる
その一拍だけ
世界の音が消えた
私は直感でカメラを振る
遅い
カメラが遅い
視線が追いつくより先に
黄金は――
もう跳んでいたッ!!
三塁から本塁へ
距離なんて
なかった
ただ
黄金の影が
白線の上を裂いていく
砂が遅れて跳ねる
歓声が遅れて膨らむ
捕手の目が
遅れて開く
そのすべてを置き去りにして
ヴィオの右手が
地面を叩いた
ズザァァァッ!!
白いプレートが迫る
ドンッ!!
「ホームだァァッ!!」
時間が
一拍遅れて崩れた
ゴゴゴゴゴ……
次の瞬間――
「セェェェ――――フッ!!」
北海ドームが揺れる
スタンドが波打つ
ゴオオオ……!!
私はカメラのブレを止めない
止めたら嘘になる
仲間たちが雪崩れ込む
その中心で
黄金が燃えていた
私はズームで
その中心を固定する
勝利の輪郭が
画面へ焼きついていく
REC
まだ切らない
✦ ✦ ✦
ロッカールーム
私は
カメラを肩から下ろさなかった
汗の匂い
スパイクの土
ロッカーの金属音
勝利直後の熱が
まだ壁に残っている
ヴィオは静かに
ユニフォームを脱いでいた
歓声の中心にいた
それでも
顔は静かだった
戻りきっていない身体を
自分で確かめるみたいな目
脱ぎかけた右肩へ
うっすら湿布の跡が残っている
誰にも見せないように
すぐシャツを被る
その動きだけ
ほんの少し遅かった
その前へ
レオン監督が立つ
空気が変わる
レオンは短く言った
「……無茶をしたな」
ヴィオが不敵に笑う
「これくらい
走らなきゃ退屈ですよ」
レオンが鼻で笑う
「わかってる」
一拍
「合格だ」
その一言だけで
場の空気が変わった
レオンの鋭い瞳が
ヴィオの胸の奥で燻る“黄金”を
まっすぐに見据える
さらに続く
「来年は――」
間
「ギンギラギンに輝け」
響きは軽口のようだった
だが
その色を見抜く王の視線が
ヴィオの芯へ深く刺さる
ヴィオは
一瞬だけ言葉を失う
それから
少し照れくさそうに
だけど確かな笑みを浮かべた
「……はい」
その返事だけ
少し掠れていた
その瞬間――
ピシッ
液晶へ
金色のノイズが走る
一瞬だけ
フレームの端で
金色だけが
まだ
揺れていた
✦ ✦ ✦
10月下旬
シーズン終了
球団公式が流れる
<結婚>
<金城ヴィオ♡蒼茉莉奈>
会見場の光が弾ける
パシャッ
パシャッ……
鈴が一礼する
笑顔は崩れない
「おめでとうございます」
声は明るい
だが
明るいだけじゃない
「気づいたら――
いつもお二人は一緒でした」
私はその笑顔を抜く
泣いていない
なのに
何かだけが残っていた
頬の角度だけが
少し合っていなかった
茉莉奈は笑っている
だけど
指先だけが
白くなるほど端で絡み合っている
嬉しいはずの光の海を
彼女は
すべて内側に引き受けようとしていた
逃げない覚悟だけが
そこにあった
私は少し遅れて
RECを落とす
赤い文字が消える
片付けのざわめきが戻る
ケーブル
足音
スタッフの声
その中で――
茉莉奈がこちらへ近づいてきた
小さく頭を下げる
「お疲れ様です
ありがとうございました」
その時――
……ピシッ
空気の膜が割れるような音
消えたはずの液晶へ
別の映像が数秒だけ差し込まれる
蒼い衣
膝をつく少女
寄った画角
指先は震えない
両手が胸へ重なっている
呼吸は浅い
だが
静かだった
唇だけが
祈りを結ぶ
『蒼よ……
魂の糸を……結んで……』
それを見たのは
私と茉莉奈だけだった
私は息が詰まる
レンズを持つ手だけが
動かなかった
指先が震える
カメラはもう切れている
なのに――
像だけが
こちらを見ていた
蒼い祈りが
画面じゃなく
空間へ直接差し込まれたみたいだった
ジジ……
切れたはずのイヤモニから
ノイズが漏れる
照明が
一瞬だけ暗くなる
スタッフが顔を上げる
誰も理由を理解していない
なのに
空気だけが薄い
茉莉奈は
その蒼を見つめたまま
瞬きもしない
そして
確信するみたいに呟く
「……マリア」
その名が落ちた瞬間
ブツッ……
会見場のマイクが
一斉に途切れた
私の背筋を
冷たいものが走る
違う
これは
私だけの異常じゃない
初めて共有された
初めて
同じものを見た
世界の膜が
まだどこかで軋んでいる
ピシィ……
私は
液晶の消えた黒へ目を落とす
そこにはもう
何も映らない
それなのに
黄金と蒼だけが
まだ
消えていなかった




