第15章 現世 翠 見えない足場
九月
シーズン終盤
落ちていく感覚だけが
急に身体を掴んだ
ズン……
視界が
下へ吸い込まれる
胃が浮く
心臓が追いつかない
(やめろ……!)
足場がない
掴むものがない
ただ
落ちていく
底のない場所に
――ハッ
目が覚めた
天井
寮の薄い蛍光灯
自分の息
汗が
首筋を
じわりと伝っている
夢だった
だが
胸の奥に残った重さだけは
夢じゃない
俺
翠川翔の二年目は
ずっと二軍だった
上がれない
上がれない
九月になっても
景色は変わらない
数字も
序列も
名前の呼ばれ方も
全部
一軍の外側に置かれたまま
起き上がると
身体が少しだけ怠い
それでも
腹は減る
そういうところだけは
生きている
モーニングのために
俺は食堂へ向かった
✦ ✦ ✦
二軍寮の食堂は
朝がいちばん静かだ
食器の音
湯気
誰かの咳
箸が
トン……と当たる
小さな音
その静けさを破るのは
壁のテレビだけだった
春から
毎週日曜の朝に始まった番組
wMAGICの
ヴィオ復帰までの密着取材
画面に映るのは
ヴィオと鈴
最初は
恋人扱いだった
だが今は
世間の目が変わっている
恋人視線から
親友視線へ
その方が
逆に厄介だ
軽くならない
嘘にできない
名前を変えただけで
熱は残る
最初は――
鈴を
ヴィオの敵だと思ってた
派手で
距離が近くて
平気で踏み込んでくる
気に入らなかった
ヴィオの周りを
勝手に騒がしくする
厄介な女だと思ってた
だけど
画面の中のあいつは
ずっと一途だった
ふざけた顔して
笑って
空気を軽くして
それでも
目だけは真っ直ぐで
逃げてなかった
叩かれても
誤解されても
立つ位置を変えなかった
……気づけば
俺の方が
目で追っていた
気に入らない
そう思っていたはずなのに
あいつが立っているかどうかを
先に探している
――叩かれても
逃げない目だった
二軍で燻ってる自分が
少しだけ
情けなく見えた
胸の奥が
じりじりと熱い
ポケットの
煙草の箱を強く握りしめた
画面からは
目を逸らせなかった
✦ ✦ ✦
先月の遠征帰り
テレビ局の裏口
街灯の下で
ヒールを脱いだ背中があった
画面の中とは違う
汗と疲労の色
鈴だった
縁石に座り
足をさすっている
足元に置かれたスマホが
震えた
画面に流れる文字
《また売名?》
《選手を利用するな》
《泣き芸いらない》
光る文字は
短いのに
刺さる
鈴は
一瞬だけ目を伏せた
たったそれだけだった
泣かない
怒鳴らない
投げない
隣の女が
無言でスマホを伏せる
白い指先が
静かに画面を覆う
「……私
間違ってないよね」
鈴の声が
初めて揺れた
か細い
だが
折れてはいない
夕羅は
視線を逸らさず言う
「今――ここで離れたら
全部ただの演出になる」
断言だった
感情ではなく
編集点を決める声
鈴は
何も言わない
ただ
ヒールを履き直した
震える手で
それでも
立つ準備をやめない
「嫌われてもいい」
小さく
けれど
はっきり
「一番近くで
一番悪役をやる」
その言葉が
闇の中で
やけに重く残った
俺は
物陰で拳を握った
爪が食い込む
(悪役……?)
違う
それは
表で叩かれる役だ
光のそばに立って
自分が燃える役だ
ヴィオを守ってるのは
俺じゃない
鈴だった
胸の奥が
ズン……と重くなる
(……落ちてる場合かよ)
そんな言葉が
内側から返ってくる
✦ ✦ ✦
午前
二軍の練習
汗の匂いと
土の匂いと
気合いの匂い
全部が混ざる
俺はバットを握り
ケージへ入った
来た球を打つ
それだけで
やってきた
高校も
大学も
それで通ってきた
来た球に反応する
身体をぶつける
力で押し切る
だが――
プロの壁は
思っていたよりも分厚く
そして冷たかった
扇風機
陰でそう呼ばれているのは知っている
当たらない
芯を捉えられない
力だけで押し切れるほど
この世界は甘くはなかった
それが
一番
きつかった
その時
グラウンドの空気が
一段だけ沈んだ
ゴゴ……
視線が集まる
背筋が伸びる
レオン監督が来ていた
皮膚が
勝手に正される
騒がない
怒鳴らない
ただ
そこに立つだけで
場の温度が変わる
レオン監督は
俺のスイングを見た
無駄のない視線が
一度だけ
俺の身体を貫く
「力はある」
「ただ
芯を捉えていない」
その響きには
圧倒的な現実と
嘘のない重みがあった
「読め」
「――配球を」
配球
その二文字が
頭の中で引っかかった
今までは
それでよかった
来たものに反応して
勝てる場所にいた
だが――
プロは
全部知ってる
弱点も
間も
癖も
だから
振らされる
こっちが振ってるようで
振らされている
自分のスイングが
闇を切り裂く音だけが
虚しく残る
レオン監督は
俺の焦燥を見透かすように
目を細めた
「言葉はいらん」
「来い」
踵を返した大きな背中が
無言で
答えを示していた
✦ ✦ ✦
クラブハウスのテレビ
二人で椅子に座った
試合の音が流れる
実状況
観客
ミットの乾いた音
レオン監督が
画面を指す
「オーガ・クリムゾンだ」
一拍
「目を逸らすな」
ベンチに座る男は
静かだった
「3番手の捕手」
「年はお前と同じだ」
同い年
――ドクン……
心臓が
強く鳴った
レオン監督が小さく言う
「あいつは
振らされない」
呼吸が落ちる
「待てる」
一拍
「――読んでる」
オーガは
ベンチで静かに座っていた
捕手として
投手の呼吸を見ている
打者として
捕手のサインを見ている
ひとつの視点じゃない
何層も
同時に読んでいる
次の回
代打でオーガが立つ
球場の空気が
少しだけ変わった
初球
捕手は
真っ直ぐを要求する
オーガは動かない
投手が投げる
――パシィン
乾いた音
オーガのバットが
軽く合わせられる
打球は
一二塁間を抜けた
ライト前ヒット
派手じゃない
だが
迷いがない
レオン監督が低く言う
「見えてる」
一拍
「初球の真っ直ぐを
最初から読んでいる」
俺は
画面を見つめたまま固まる
レオン監督が言う
「こいつは
――見えている」
喉が静かに鳴る
「お前にも
見えてるはずだ」
沈黙
「――人の色が」
俺は
一瞬
息が止まった
俺は
昔から
先に感じてしまう
いや……
人の色を感じる
怒りは濁る
怯えは
薄く消えそうで
迷いは
ゆら……と揺れる
嘘だけは
妙に冷たい
気のせいだと思ってた
みんな
わかるもんだと思ってた
でも
違ったのか
あの日
ヴィオを殴った時もそうだった
衝動じゃない
あいつに
冷たい墨が
じわり……と染みる感覚があった
人として
ダメになる
その瞬間
手が先に動いた
止めるために
レオン監督は
俺を見た
「――読め」
その視線は
見抜いていた
「お前はなれる」
一拍
「間に合う男に」
その言葉が
胸の奥へ落ちた
――コツン
何かが
組み替わる
落ちていた感覚が
止まる
その代わりに
足元に
見えない床ができる
読む
それが
足場になる
落ちないための
上がるための
初めての足場だ
レオン監督が最後に言う
「来季に向けて
オーガと話をしている」
喉が鳴る
「チームを強くするために」
俺は
テレビを見たまま
拳を握った
力を入れるのは
最後でいい
でも
今日は――
握ってもいい気がした
胸の奥で
翠が
静かに鳴る
守るだけじゃない
読む
その先に
間に合う
(俺は変わる)
静かに
だが確かに
落ちるためじゃない
上がるために




