第13章 現世 紫 記録できない光
四月
新番組の打ち合わせ中――
ピシィ……
誰かが
何かを割った音じゃない
空気そのものが
薄く鳴った
その瞬間――
モニターの映像が
一フレームだけ
“違う角度”を映した
打ち合わせ室の誰も
それに反応しない
鈴も
スタッフも
ディレクターも
台本を持つ手すら止めない
私だけが
視線を上げた
「今の
聞こえなかったかしら」
誰も返さない
返さないというより
本当に
何も起きていない顔をしている
喉の奥が
わずかに締まる
(……私だけ?)
暗い違和感だけが
薄く残った
直後
テレビ局のスタッフが
wMAGIC宛ての企画書を差し出した
タイトルだけが
やけに鮮明だった
――プロ野球選手
金城ヴィオ
復帰までの密着取材
スタジオが
ピタ……
と止まる
沈黙というより
全員が同時に
同じ名前を反芻した間
鈴が
スッ……
と目を見開いた
驚き
その次に
抑えきれない動揺
そして――
喜び
それは
想定されていた反応だった
私は
その変化を
半歩だけ距離を取って観測する
メディアが作り上げたい世界
英雄の復活
奇跡のカムバック
去年から続いている
“物語”の延長線
物語は
いつも
わかりやすい
怪我
挫折
沈黙
そして復活
人はそこに
安心する
理解できる形に
整えられたものを
信じたがる
鈴は
一度だけ視線を落とした
小さく息を整える
それから
顔を上げる
「……やります」
声は
わずかに震えていた
「……逃げるつもりはありません」
一拍
「最後まで見届けます」
迷いはない
私は
企画書へ視線を落としたまま言う
「悪くないわ
こういうの
嫌いじゃない」
指先が
滑るように紙をなぞる
「ただし
残す場所は
私が決める」
自分でも驚くほど
揺れがなかった
それが
私の役割だ
騒がず
飲まれず
残す場所を決める
✦ ✦ ✦
五月
球団のリハビリ施設から始まった
白い壁
機械音
数字
秒針のない時間
金城ヴィオ
想像していたより
静かな男だった
声も
動きも
無駄がない
何かを足そうとしない
何かを隠そうともしない
だが
見せたいわけでもない
その平坦さが
かえって目につく
医師の説明は端的だった
「年内は打者として復帰
投手は来季です」
一拍
「ただし
回復速度は……かなり早い」
そこだけ
眉が動いた
本人は
数字とスケジュールだけを
受け取っている
表情は
ピクリとも動かない
(不思議な人)
傷の話をしているのに
傷の匂いがしない
どこかで
見たことがあるような
気のせいね
私は
資料へ視線を落とした
その時だった
コツ……
控えめな足音
小さな影
花束を抱えた女の子が
そっと近づいてくる
空気が
フワ……
と緩む
ヴィオが
すぐに気づいた
「ああ……」
その声だけで
場の温度が変わる
「あの時の子か
無事でよかった」
女の子が
こくりと頷く
ヴィオは
膝を折った
目線を合わせる
その高さへ
ためらいなく降りる
「来てくれてありがとう」
短く
飾らず
「君が笑ってるなら
それで十分だ」
カメラが回る
レンズの赤点が灯る
ヴィオは
ゆっくり立ち上がり
レンズの前へ立った
「ちょっと
休むだけだ」
私は
その声の軽さを測る
きれいな謝罪でもない
悲劇の主人公でもない
乾いた風のような声だった
「一年」
間
「座ってるのは
性に合わない」
誰も動かない
空気だけが
少し深くなる
「でも」
視線はブレない
「必ず戻る」
一呼吸
「――次は
誰も追いつけない速さだ」
そこで
一拍だけ
空白があった
「止まるつもりはない」
その瞬間――
ピシィ……
マイクの音声が
一瞬だけ歪んだ
鈴の表情が
わずかに揺れる
今の宣言
その言葉だけが
一瞬
浮いて聞こえた
まるで
違う場所から
貼り付けられたみたいに
空気へ
馴染んでいない
気づいたのは
私だけ
私は
何も言わない
ただ
記録する
残せるものだけを
✦ ✦ ✦
七月
取材とは別に
wMAGICとヴィオで
会食の場が設けられた
仕事ではない
だからこそ
空気はかえって張っている
カメラはない
マイクもない
だが
撮っていない場ほど
人は本音を落とす
私は
この場では
“当事者”にならないと決めていた
椅子を半歩引き
グラスには触れない
鈴が
先に口を開く
「……あの時のスクープ
本当にごめんなさい」
声は小さい
だが
逃げない
「私……
正直に言います」
一拍
「もしかしたらって
本気で思ってました……」
小さく笑う
その笑いは
自分への苦笑だった
「期待もしてました」
指先が
グラスの脚を軽くなぞる
「ヴィオさんを
独り占めできるかもって」
場が静まる
誰も
助け舟を出さない
鈴が続ける
「でも……」
視線が
真っ直ぐになる
「ヴィオさんは」
息を吸う
「作られた物語の中に
――収まらなかった」
一拍
「だから」
そこで
初めて少しだけ揺れる
「それでよかったんです」
声は迷っていない
「私は
――ヴィオさんを推します」
静かに
断言する
「それは誰にも譲りません!」
ヴィオが
わずかに息を吐いた
「……正直
救われるな」
顔を上げて
所在なさそうにフッと笑う
「テレビで
俺を推すって言われるのは」
一拍
「悪くない」
だが
視線は逸らさない
「ただ」
空気が
静かに落ちる
「今は
守りたい奴がいる」
そこで
ほんの一瞬
言葉が止まった
視線が
どこにも向かない
誰かを見たわけでもない
だが
確かに
そこにいる誰かを
思い出していた
「でも……」
静かに続ける
「あいつを
巻き込みたくはない」
一拍
「俺の足が
まだ地についていないからな」
私は
ペンを止めた
鈴の表情が
一瞬だけ
ほどける
私は
書かない
その間を
記録しない
ここで補完すれば
それは“嘘”になる
私は
その編集点に
ひとりで立っていた
✦ ✦ ✦
九月
シーズンは終盤
復帰戦まで
カウントダウンが刻まれている
カチ……
カチ……
見えない針が進む
取材テープは増え
素材は揃い
編集室には
“復活劇”の部品は
もう揃っていた
ヴィオの顔つきは
明らかに変わっていた
作られた英雄じゃない
戻る準備を終えた人間の顔
削ぎ落ちたものが多いほど
顔は本物に近づく
あの会食以来
ヴィオと鈴の関係は良好だった
マスコミには
ふたり揃って言う
「友達です」
即答
迷いも
含みもない
私は
カメラを下ろす
一歩引いた位置で
その構図を見る
(私は
まだ
フレームの外にいる)
ピシィ……
また
空気が鳴る
モニターの時間表示が
一瞬だけ
巻き戻る
違う
そのフレームに
“まだ起きていないはずの映像”が
映っていた
――白
花でも
光でもない
誰かが
こちらを見ていた
気がした
こちらが
見ていたはずなのに
触れていないのに
視界の奥へ
焼きついたまま離れない
私は
再生を止め
画面を静止する
だが
その場面は
どこにも記録されていなかった
巻き戻してもない
早送りしてもない
素材にも残っていない
空気が
ほんのわずかに
薄くなる
世界のどこかで
境界が
爪で引っかかれたように歪んでいる
私は
ゆっくり息を吐く
見ていない
これは
まだ見ていいものじゃない
まだ知らなくていい
答えには
まだ触れていない
だが
私だけが
今にいない
編集室の白い光が
急に遠くなる
手元のペンも
モニターの秒数も
全部
少しだけ
本来の位置からズレて見えた
私は
何も言わない
まだ
読んではいけない
だから
切らない
残さない
私は
その編集点に
ひとりで立っていた
ピシィ……
今度は
近すぎた




