第一章 鳳凰の衣、偽りの輿入れ
うららかな春の陽光が降り注ぎ、咲き誇る桃の花びらが美しく舞い散る中、朱塗りの大門が重々しい音を立てて開く。即位から一年が経ち、28歳となった若き新王・黎央の待つ王宮へと進む極彩色の輿の中で、18歳の瑞月は溢れそうになる吐息を必死に飲み込んでいた。
身にまとっているのは、目が眩むほど見事な刺繍が施された、最高級の鳳凰の婚礼衣装。だが、その下に隠された身体は、しなやかな筋肉を引き締めた、歴とした青年のものであった。
事の始まりは一ヶ月前、本来の輿入れの直前だった。双子の妹である美蘭が愛する男と出奔し、後宮に娘を送り出すあらゆる家々の中で最も高貴な血統を誇る実家・水家は窮余の策として、朝廷へ「美蘭様が突然の重病に倒れた」と虚偽の報告を入れ、輿入れを丸一ヶ月延期させた。右丞相や兵部尚書ら並み居る高官たちも、妃の実家の中で最高峰の身分に君臨する水家の決定には、一切の異を唱えることはできなかった。
さらに水家は、後宮という魔窟へ送り出す王妃の身を案じたという体裁を取り、朝廷へもう一つの“公式な書状”を届け出ていた。――「病床の合間、王宮の不穏な噂から身を守るため、実家のお抱えである辣腕護衛・水より、直々に護身術を叩き込まされている」と。
この命がけの「空白の一ヶ月」こそが、瓜二つの容姿を持つ兄・瑞月を、完璧な「王妃」へと仕立て上げるための地獄の特訓期間であった。瑞月は名門水家の嫡男として最高峰の英才教育を受け、本来なら文官として朝廷の頂点に立つべき身であったが、実は幼少期より密かに一級の武芸をも修めた文武両道の天才だった。男児にしては非常に華奢で線が細く、美蘭と体格の差がほとんどなかったことが唯一の救いだった。
実家から同行した、事情をすべて知る3人の信頼厚き侍女――いずれも瑞月より少し年上である、筆頭格の静華、機転の利く布由、噂に聡い蘭の徹底的な指導により、瑞月の一挙手一投足は完璧な美女のものへと叩き直された。少し年上の彼女たちは、まるで弟を慈しみ育てるかのように、しかし妥協なく瑞月の所作を磨き上げた。
刻一刻と王宮の中心へと近づく輿の暗がりのなか、静華が手際よく瑞月の衣装の胸元を整えながら、低い声で囁いた。
「瑞月様、この一ヶ月で叩き込んだ歩法と発声、お忘れなきよう。水家からは『護衛から護身術を学んだ』と朝廷に伝えられておりますが、あまりに鋭く動けば男だと露見します。お気を確かに」
「分かっている、静華。この過酷な準備期間は、今日この時のためにあったのだ。我が水家の、ひいては国の存亡がかかっている。若輩とて、やるからにはすべての人を欺き通してみせる」
瑞月が決意を秘めた声で応じると、静華はさらに声を潜め、後宮の冷酷な現実を告げた。
「それから瑞月様、現在の後宮の勢力図についても今一度頭にお入れください。水家は妃の中で最高の家柄ですが、後宮には朝廷の有力派閥を後ろ盾に持つ側妃が、朝廷の縮図のごとく総勢十名おります。身分ごとに細かく分かれており、水家の権勢を妬む名門の娘たちばかりです」
静華は瑞月の耳元で、十名の内訳を淀みなく説明した。
【後宮の側妃勢力図】
後宮における各妃の序列と、その背後にある権力構造を記す。
最高位:『貴妃』(一名)
・華貴妃
朝廷の次席・右丞相派を後ろ盾に持つ、側妃の筆頭格。
瑞月と同世代ながら、水家に次ぐ絶大な権勢を誇る。
第二位:『妃』(三名)
・麗妃
軍権を握る兵部尚書の一族。
華貴妃に次ぐ強大な権力を有する。
・徳妃
・賢妃
侍女たちと同世代の上級側妃たち。
第三位:『中級側妃』(昭儀・修華など/三名)
実家の格や財力では水家や右丞相家に劣る。
しかし、宮廷内の立ち回りに長けた油断ならぬ実力派が揃う。
第四位:『下級側妃』(婕妤・美人など/三名)
地方の有力者や新興勢力を後ろ盾に持つ娘たち。
王の寵愛による一発逆転を虎視眈々と狙っている。
「……これら十名が、王の寵愛と実家の権勢を巡り、激しい火花を散らしております。最高名門の娘として、彼女たちを統べる王妃の威厳をお示しにならねばなりませぬ」
「総勢十名、右丞相から兵部尚書まで、朝廷の派閥がそのまま縮図として詰め込まれているというわけか。我が水家の地位を脅かそうとする者も多かろう……魔窟と呼ぶにふさわしいな。ますます油断はできん」
厳かな太鼓の音が響き渡り、輿が止まる。瑞月は静華に手を引かれ、大殿へと一歩を踏み出し、冷徹な新王・黎央との対面を果たした。こうして、美しくも残酷な宮廷を舞台に、瑞月の命を懸けた二重生活の幕が上がった。




