第9話:写真のない仏壇
我が家の仏壇には、写真が一枚もない。
それでも母さんは毎朝、欠かさず炊き立てのご飯とお茶を供え、「チーン」と鈴を鳴らして静かに手を合わせる。
「……おはよう」
昨夜、シゲジイから聞いた衝撃的な話を思い出す。
おいらは 「ドリームダイバー」 だということ。そして、この果てしない海の世界は、 母さんの夢 なのだということ。
昨日まで、私はこの世界を自分の空想力が作り出した「ご褒美の夏休み」だと思い込んでいた。でも、違った。この深い群青の海も、穏やかな風も、すべては母さんが心の奥底で守り続けてきた祈りの形だったのだ。
◇ 鏡のような海と、母の沈黙
家の軒先では、チョージが取り付けた「東芝製の扇風機」が、ヴーという低い唸りを上げながら海水を掻き回している。
アスファルトの土台から切り離された我が家は、今や一隻の「箱舟」だ。
母さんは、子供の頃にすべてを失った。
家族も、友達も、思い出の詰まったアルバムも。あの日、真っ黒な巨大な波が、彼女の「昨日までの世界」を丸ごと飲み込んでしまった。
なんとなくは知っていた。でも、母さんは語りたがらなかった。
写真のない仏壇は、母さんの中にぽっかりと空いた「出口のないドア」のようだった。
「サユキ、これ見て」
母さんの声に呼ばれて縁側へ出ると、水平線の向こうから信じられないものが流れてきた。
◇ 屋上の集団
それは、半分ほど沈んだ古い雑居ビルの屋上だった。
コンクリートの塊が、まるで氷山のようにゆっくりと家(船)の横を通り過ぎていく。
その屋上には、大勢の人々がいた。
スーツ姿のサラリーマン、エプロン姿の女性、ランドセルを背負った子供。
みんな、晴れやかな笑顔で、こちらに向かって大きく手を振っている。
あの日、テレビのニュース映像で見た「屋上の人々」は、もっと絶望的で、助けを求める悲鳴に満ちていたはずだ。
けれど、母さんの夢の中では違う。
「……みんな、あそこにいたんだね」
母さんは、眩しそうに目を細めて手を振り返した。
そこにあるのは、母さんがずっと願っていた「もしもの続き」の世界だ。
あの日流されてしまった人々が、ここではみんな、笑顔でどこかへ向かっている。
地獄のような記憶が、母さんの手によって「やさしい世界」へと書き換えられていた。
◇ 漂流物のプレゼント
「ワン! ワンワン!」
ビルの後を追うように、ひっくり返った木箱に飛び乗った一匹の犬が流れてきた。
毛並みのいい、小さな柴犬だ。
「じいちゃん、助けてあげよう!」
チョージが網を伸ばし、ケルナグル(ヤスオ)が「おっと」と器用に抱き上げた。
その犬は、濡れた体をブルブルと震わせると、嬉しそうにコハナの足元に駆け寄り、尻尾をちぎれんばかりに振った。
濡れた鼻先が、コハナの頬に触れる。
「あ、この子……知ってる」
母さんが、そっと犬の背中に触れた。
かつて母さんの近所にいた犬だろうか。それとも、母さんが救いたかった命の一つだろうか。
現実では失われてしまった温もりが、ここでは確かに、私たちの手のひらに伝わってくる。
「……さあ、矢印の方へ進もう」
シゲジイがジンのショットグラスを置き、扇風機の向きを微調整した。
家の仏壇には、今も写真はない。
けれど、私たちの前を通り過ぎていく「やさしい景色」の中に、母さんの愛した人たちが確かに息づいているのを感じた。
箱舟は、銀色のサンマの群れを追い越して、母さんの記憶のさらに深い場所へと滑り出していく。
★面白そう、頑張ってるねと思っていただいた奇特なアナタ!
そうアナタのことです。ブクマや期待を込めて☆☆☆☆☆を
押して頂けると執筆の励みになります。宜しくお願い




