第8話:銀の鱗と、静かなる覚醒の予感
タコの王子さまは、早々に退散していった。
真っ白なハンカチで口元を拭うと、ひょいと空飛ぶタコの背中に飛び乗る。
「またどこかの海で。素敵な航海を」
くるくると回転しながら、彼は夕闇の空へと溶けていった。
パスタの皿は空になり、残されたのはにんにくの香りと、白ワインの空き瓶だけだ。
おいらはキッチンから、透明な ジン を取り出した。ショットグラスで一気に喉に流し込む。だが、アルコールの熱をもってしても、背筋を駆け抜けた凍りつくような予感は消えなかった。
「……サユキ。お前、今なんて言った?」
空のグラスを握りしめたまま、隣に座る孫娘を凝視する。
サユキは、鼻をほじっているあの「ちょび髭」を指して、事も無げに言ったのだ。
「 ヤスオおじさんにそっくりだね」
それは、ドリームダイバーの世界において、絶対に鳴ってはならない警報だった。
「え? お正月に縁側で寝ちゃう時の顔にそっくりだなって」
サユキは不思議そうにしている。
だが、おいらは確信した。
夢の「主」 であれば、住人を「現実の誰か」と比較することはない。
夢の住人は、その世界における「唯一の真実」だからだ。
(……サユキ、お前。まさか、おいらと同じ側なのか?)
おいらの背中に、冷たい汗が流れた。
サユキに自覚はない。だが彼女の意識は、既にこの世界の「皮膜」を一枚剥ぎ取ってしまっている。
◇ 扇風機の咆哮、箱舟の始動
「じいちゃん! いつまで飲んでるんだ、完成したぞ!」
チョージの叫び声で我に返った。
家の軒先には、マルコモールの板材で作った「舳先」と、あの 東芝製の古い扇風機 が鎮座している。
「よし、野郎ども! 離脱の準備だ!」
ケルナグル(ヤスオ)が、現実のヤスオなら見せない機敏な動きでロープを解く。
サユキが持ってきたジュエリーボックスの中では、光る砂が鋭い「矢印」を描き、海の深淵を指し示していた。
「スイッチ……オン!」
チョージがボタンを押し込む。
「ヴ、ヴ、ヴ……」
古いモーターが悲鳴を上げ、プロペラが回転を始める。
「ズズズ……」という巨大な振動。扇風機が海水を力強く掻き回す。
「動いた! マジで動き出したぞ!」
アスファルトの土台から切り離された我が家は、今や一隻の 「箱舟」 として航海を始めた。
◇ 推理と、銀の銀河
家が速度を上げると、景色がブレ始めた。
おいらはサユキの隣に並び、低く囁く。
「サユキ、いいか。これから現実の誰かの名前を出すのは二度とやめろ。あいつは『ケルナグル』だ。いいな?」
「……え、どうして? じいちゃん怖いよ」
「いいから聞け。正体を暴こうとすれば、世界が怒り出す」
サユキは小さく頷いた。
おいらはジンを舐めながら、この夢の 「本当の主」 について考えた。
(サユキがダイバーなら、誰がこの世界を維持している?)
その時、窓の外が急に明るくなった。
夕闇を切り裂き、数億という銀の火花が近づいてくる。 「渡りサンマ」 だ。
(……あのサンマだ)
夕食に焼いたあのサンマ。あの脂の乗り、わたの苦味。
あれは、四半世紀以上前、日本中の海が力強かった頃でしか味わえなかった本物の味だ。
(こいつを知っているのは……誰だ?)
おいらの視線は、デッキに立つ カナエ(母) の後ろ姿で止まった。
彼女は、漁師町で育った。
(……そうか。そうだったのか、カナエさん)
のほほんとして、誰も傷つかないこの優しい海。
それは、あの日すべてを奪った「黒い海」を、静かな場所に書き換えたいという彼女の 「鎮魂の願い」 そのものじゃないか。
(……なあ、カナエさん。そりゃあ、あんまりにも悲しすぎやしないかい)
空を埋め尽くすサンマの銀河。
扇風機が奏でる不協和音。
砂が指し示す、誰も知らない場所への航路。
ジンの冷たい熱を喉に転がし、おいらは暗い海を見つめた。
物語は本格的な「母の深層」へ。窓の外では、銀色のサンマの群れが、いつまでも空を流れ続けていた。
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