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第10話:水色のおさると、遡る時間


「ねえユキ姉、テレビおかしいってば!」

小学6年生の弟、チョウジがリモコンを連打しながら叫んでいる。台所では母さんが、小気味よい音を立ててお弁当の隙間を埋めていた。


「ほら、写んないんだよ。ザーザー言っててさ……」

追い打ちをかけるように、4歳の妹コハナがギャン泣きを始める。彼女は朝、この世の終わりみたいに機嫌が悪いのがデフォルトだ。



朝の我が家、静寂とは無縁の「いつもの戦場」


(……夢だったんだ。全部、長くて奇妙な夢)


キッチンの入り口からは、いつものように母さんの背中が見える。淡い花柄のエプロンを締め、手際よく朝食とお弁当の準備をしている。あのアヒルボートも、空飛ぶサンマも、シゲジイのおならも、すべては私の想像力が生み出した幻影に過ぎなかったのだ。


私は食べかけのトーストを口に押し込み、食器をシンクへ放り投げた。母さんから差し出されたお弁当をひったくるように受け取り、戦場からの離脱を図る。


「いってらっしゃい、気をつけてね」

母さんののんびりした声が背中に届く。



振り返ったのは、母さんではなかった。


そこにいたのは、ランドセルを背負い、おかっぱ頭を揺らす、十歳ほどの少女だった。

大きな瞳、少し尖った鼻先。小学生の頃の母さん――カナエちゃんそのものだった。


長年の使用で角が擦り切れ、少し色が褪せた古い牛革のランドセル。

そのサイドの金具には、見覚えのある 「水色のおさるのキーホルダー」 が揺れている。

それは、コハナがあのマルコモールで出会った猿にそっくりだった。


「あ……え?」



声が出ない。

カナエちゃんは、無邪気な笑顔で私を見上げると、手際よくお弁当箱に卵焼きを詰めている。だが、そのお弁当箱は、私の知っているプラスチック製のものではなく、古臭いアルミの質素なものだった。


「お姉ちゃん、なんだか体が、ふわふわするの」


背後から、コハナの掠れた声が聞こえた。

振り返った私は、悲鳴を上げそうになった。

リビングのソファに座っていたチョージとコハナの体が、まるで古いテレビの受信障害のように、激しく点滅しているのだ。


腕が透き通り、足元から光の粒子になって霧散していく。

チョージは持っている携帯ゲーム機さえ掴めず、手からポロリと床に透過していった。


(……ドリームダイバーの法則だ)


シゲジイの言葉が、冷たい水のように脳裏をかすめる。

母さんの記憶が深まり、世界の中心が「母さんの過去」に固定された瞬間、母さんがまだ知らないはずの存在――つまり未来の子供たちは、この世界から「異物」として排除されようとしているのだ。


◇ 異質な家、漁師町の匂い

その時、家の輪郭が音を立てて崩れ始めた。

壁の壁紙がパラパラと剥がれ落ち、その下から潮風に晒されて黒ずんだ古い木材が姿を現す。


フローリングの床は、隙間だらけの荒い板間に変わり、部屋の隅には山積みにされた魚網と、使い込まれた浮球(ビン玉)が転がっていた。


住宅街の静かな朝の音は消え、代わりに聞こえてきたのは、すぐ足元で石を洗うような、荒々しい波の音だ。


「ここ、どこなの……?」


窓の外に広がるのは、いつもの通学路ではなかった。

そこには、傾いた電柱と、錆びついたトタン屋根の家々が肩を寄せ合う、見たこともない古い漁村の風景があった。


カモメが不吉な声で鳴きながら、低く空を旋回している。

かつて母さんが愛し、そして「あの日」にすべてを奪われた街。


私たちは、家ごと母さんの封印された記憶の奥底へと、まるごと引きずり込まれてしまったのだ。


◇ シゲジイの警告

「おい、サユキ! ぼやぼやしてんじゃねえ! さっさとそこを離れろ!」


窓の外から、聞き慣れた怒鳴り声が響いた。

見ると、玄関先の防波堤の上で、シゲジイが狂ったように手首を振って手招きをしている。



「早く外へ出ろ! 飲み込まれるぞ! そこはもう、お前たちの居場所じゃねえ!」


「でも、チョージとコハナが……!」


私が叫ぶ間にも、二人の姿はさらに薄くなり、もはや向こう側の景色が透けて見えるほどになっていた。

小学生の母さんは、相変わらず楽しそうに鼻歌を歌いながら、存在しない家族のためにお弁当を作り続けている。


私は、消えかかっているコハナの小さな手を掴もうとした。

だが、私の指はむなしく空を切り、そこには冷たい潮風の感触だけが残った。


母さんの夢は、もはや「やさしい揺りかご」ではなかった。

それは、私たちを過去の暗い淵へと引きずり込む、巨大な渦に変わっていた。


挿絵(By みてみん)


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