シロがいない
それから、三日後のことだった。悠里が学校から帰ってくるとシロがいない。
――いつも私が家に着く前に、シロは先回りして部屋で待ってるのに。
悠里は不思議に思った。まあ、たまにはいいか、とその日は思い、悠里はあまり気に留めなかった。
しかし、それが一週間も続くと、さすがに悠里も心配になってくる。悠里の部屋はおろか、台所の定位置にさえ戻っていないのだ。シロのえさも水もさっぱり減っていない。
悠里は心配になって、洗濯物をとりこんでいるかなえに話しかけた。
「ねえ、お母さん、シロ、野良犬に追いかけられて、迷子になってたらどうしよう」
かなえはのんびりとした様子で言う。
「そうねえ。どうしちゃったのかしらねえ」
悠里は、かなえの危機感のない言い方にいら立った。
「お母さん、心配してるの、してないの、どっち」
「そりゃあ、心配よ。でもねえ、案外恋人でもできて幸せに暮らしているかもしれないわよ。シロちゃんはハンサムだし、きっとモテるのよ」
悠里は、かなえに相談したことがそもそもの間違いだと気付いた。悠里が脱力していると、かなえは思い出したように言う。
「そういえば、自転車でスーパーに買い物に出たとき、シロちゃんらしき猫を見かけたような気もするわねえ」
悠里は身を乗り出した。
「それっていつのこと?」
「ええと、いつも買い物は水曜日と日曜日って決めてるから、先週の水曜日ね」
かなえは、あくまでマイペースにのんびりゆったりとしゃべる。
そんなかなえの様子に悠里はイライラしながら聞いていた。先週の水曜と言えば、もう五日も前だ。どうしてそのとき教えてくれなかったのか、と悠里は不満に思いながらも家を飛び出していた。
――シロは、雪枝さんから預かった大切な猫なのに。これじゃ、雪枝さんに合わせる顔がない。
かなえは、物干し場から声をかける。
「悠里、車には気をつけるのよー」
悠里は、かなえの声を遠くに聞きながら、スーパーまでの道のりを、ひたすら走った。途中、息を切らしながら信号待ちをしていると、向こうから小さな白い動物が歩いてくる。うわ、シロいた、と喜んだのも束の間、それは、首輪をして、リードで繋がれた、真っ白な小型犬だった。
――うー、なんだあ、犬かあ。
結局、スーパーまで行ったが、手掛かりは何もつかめなかった。悠里は、帰り道をとぼとぼ肩を落として歩いた。近所の家の生垣ではもう新芽が出ている。風も少し前よりは、だいぶ暖かく感じられるようになってきた。雪枝は香織と会って和解できたし、美咲も無事に進級できた。香織のおなかには、赤ちゃんがいることまで判明した。
――なにもかもいい方へ向かっているはずなのに、このどうしようもない空しさは何?
悠里にとって、シロはすでに人生に欠かせない存在になっていたのだった。それを改めて感じさせられて、悠里は長いため息をつく。今は春休みだからまだいいが、四月から学校が始まったら、こんな風にシロを探すのにばかり時間をとっていられなくなる。
悠里は焦ったが事態は変わらず、それからさらに一週間が経過した。
悠里は図書館での自習から戻り、自分の部屋の勉強机に向かうと悠里は呟いた。シロがいないとそれだけでそわそわして、勉強もはかどらない。
「シロ、帰ってきてよー」
悠里が机に額をつけたそのとき、机の上にシロがどろんと現れて、悠里は思わず、椅子から転げ落ちそうになる。慌てて体勢を立て直し、シロと向き合った。幻ではないのかと、悠里は思わず自分の目を疑った。
「なんじゃ、頼まれたから帰ってきたのに、その驚きようは」
シロはぽりぽりと後ろ足で、耳の後ろをかく。
「というのは嘘で、実はたった今、帰ってきたところなんじゃが」
悠里は両方の目をぐりぐりとこすり、おそるおそるシロの背中に触ってみた。ふわふわ、すべすべした毛がとても気持ちいい。どうやら本物のようだ。
悠里は口を尖らせて言う。
「もう、どこに行ってたの。心配するじゃない」
「うむ」
シロはうなったきり、目を閉じて考えている。悠里の考え事はシロには分かるのに、シロの思考は悠里には全く読めない。分かるのは、シロが意志を持ってこちらにメッセージを送ってくるときだけなのだ。まったく、不公平だ、と悠里は思う。シロの考えが整うのを忍耐強く待っていると、シロは言った。
「ちょっと昔の仲間に呼ばれての、一日で終わると思ったんじゃが、二週間もかかってしもうた」
「昔の仲間は、シロに何を頼んだの」
「うーん、まあ、縁結び、みたいなものかの」
「縁結び?」
悠里は驚くしかなかった。色恋沙汰という点では、かなえの言うこともまるっきり外れてはいないようだ。
「そうじゃ。そいつの名前を仮に太郎とするかの。猫にもプライバシーはあるからの。これから出てくる名前はすべて仮名じゃ。太郎は、わしの昔の仲間の次郎の孫なんじゃが、一目ぼれした相手がいるときた。そんなもの、自分でなんとかものにするよりほかになかろう、と一度は突き放したんじゃが、どうも相手が悪い。この辺りでも有名な猫番長の娘で、番長にまず話をつけてからでないと、何もしようがないとのことだったんじゃ」
「そんなの、次郎さんが、番長と直接話せばいいじゃないの」
「ところが、そうもいかん」
「どうして」
「わしは、かつて、やつの飯を横取りしたことがあってな。いや故意にやったのではない。目の前にあったから食べたら、次郎の飯と後で分かったんじゃ」
シロは、後ろ足で耳の後ろをかく。
「怪しいな」
悠里が言うとシロはぎくりとした顔になる。さきほど、シロが話しだす前に考え込んでいたのは、この辺りの追求をどうすればうまくかわせるか、考えていたためではないだろうか。それを考えると、悠里はどうにも可笑しかった。
「まあ、とにかく、わしゃ、次郎には借りがある。次郎に頼まれたら、いやとは言えんのじゃ。わしは太郎を連れて、猫番長に会いにいった」
悠里は、なんだか話の続きが気になり始めた。
「それでそれで」
「猫番長は言いおった。太郎の気持ちはよく分かった。だが、本当に太郎がうちの娘にふさわしいか試させてもらおう、とな」
「具体的には何をしたの?」
「まあ、ありていにいえば、力くらべじゃな。魚屋の前に陣取って、どちらが先に、魚屋の主人のおこぼれにあずかれるか競争したり、かけっこをして、どちらが先にゴールするか勝負したり」
「それで、太郎と猫番長では、どちらが勝ったの」
「うむ、それが、魚屋では、その愛嬌のよさから太郎が勝ったんじゃが、かけっこでは、体格差で猫番長が勝ってしもうて。まあ、一勝一敗だったんじゃ」
「猫番長が一勝でもしたら、太郎の負けってことになるの」
「いや、番長もそこまで厳しいお方ではない。では、もう一勝負ということになった。わしゃこの辺で帰ろうかと思ったんじゃが、太郎が返してくれんでの」
「それで次の勝負は何になったの? その勝負に太郎は勝てたの?」
悠里がせき込んで聞くと、シロは自分の舌で腹の辺りを毛づくろいしながら言う。
「まあまあ、そう慌てんでもよかろ。最後の勝負は、国道を横切ることじゃった」
悠里は口を手で押さえた。
「そんな危険なこと」
「わしも確かに危険だとは思ったんじゃが、わしが見ておれば大丈夫だと思ったんじゃがのう」
「思ったんじゃがのうって、じゃあ」
「一瞬のことじゃった。太郎は判断を誤りトラックの前に飛び出した。即死じゃった。猫番長もやりすぎたと反省しておったよ。次郎にも伝えた。次郎を探すのに少し時間を食ってしまっての」
「そうだったの」
だから、シロは話し出す前に躊躇していたのだ、悠里はやっとシロの心境を理解した。
悠里は誰も責める気にならなかった。猫番長は、娘可愛さに太郎を試したかったのであり、殺したかったわけではない。シロも、シロのことだからきっと十分な注意を払うよう太郎に説明しただろう。太郎も好きで、猫番長の娘を好きになったわけではないはずだ。
「次郎さんは、さぞかしがっくり来てしまっただろうねえ」
「そうなんじゃよ。こちらが見ていて辛くなる有様でなあ」
シロは机から飛び下り、クッションの上に丸くなった。そして目を閉じる。二、三回深く息をしたかと思うと、シロはそのまま眠ってしまった。シロにはシロの世界があり、シロなりの悲しみがあるのだと、悠里は思った。




