大失敗
それから三カ月が経った。今日は、悠里の病院実習、初日だ。
かなえは珍しく緊張感のある声で言う。
「悠里、病院の人に迷惑をかけるんじゃないわよ。分かんないことは勝手に判断しないで、ちゃんと聞くこと、いいわね」
「うん、分かってるよ。じゃあ、行ってきまーす」
不安を押し殺して家を出る。病院に着くと、同じ病院に配属された悠里と同じ看護専門学校の生徒が、すでに来ていた。今回美咲とは、実習先が分かれてしまった。
ナースステーションに入り、詳しい説明を受ける。悠里を指導してくれるのは、岩崎という二十代後半の男性だった。
――うわっ、なんかカッコイイかも。
悠里が思ったのも束の間、岩崎はてきぱきと説明する。
「杉浦さんに担当してもらうのは、慢性心不全で入院している田代さん、五十六歳、男性です。投薬と水の制限、尿量チェックを行っています。経過を見て退院時期を決めます」
悠里は慌ててメモを取る。岩崎の説明は続く。
「学校からも言われていると思いますが、この患者さんに対して看護計画を立てて、私に見せてください」
「はい。分かりました」
悠里は元気よく返事をした。
「じゃあ、さっそく田代さんに会ってみましょう」
病室に入ると、田代は目を閉じて眠っていた。悠里が想像していた通り、中年の小太りの男性だ。胸の中心から少し左に寄ったところが、濃い紫色に染まっているように悠里には思えた。かなりの重症のようだ。岩崎がそっと声をかける。
「田代さん、お休み中のところ、すみません」
田代は目を開けた。
「ああ、君か」
「どうですか、調子は」
「相変わらず、足がむくんで困るよ。喉も渇くし。一日に飲む水の量をもう少し増やしてはいけんかね」
岩崎は事務的に言う。
「尿量が増えて、むくみがとれてくれば、水分量も増やしていいと思うのですが、現状ではまだ無理ですね。もう少し我慢してください」
「そうかい」
田代は明らかに不満そうだった。岩崎は続ける。
「今日から研修で入った杉浦さんを紹介しますね。杉浦さん、こちら田代さんです」
悠里は田代に向かって、ぺこりと頭を下げた。
「杉浦です。どうぞよろしくお願いします」
「ほおう、学生さんかい。看護師になるのか、感心だねえ」
実習生に対して、非協力的な患者もいて、実習にきた学生を途方に暮れさせる場合もあると聞いていたが、田代は総じて、悠里の実習に協力的で、悠里は胸をなで下ろしていた。この患者さんならなんとかやっていけそう、と悠里は思う。
実習の日々は多忙で、あっと言う間に過ぎた。
ある日の朝、悠里は病室で、田代の検温とサチュレーションによる血中の酸素量と脈を測っていた。数値は、日々改善してきている。このままいけば、退院も近いかもしれない、と思い、悠里は嬉しかった。
「経過良好ですね」
悠里が計測を終えて、笑顔で言うと、田代は手招きをし、小声で言った。
「喉が渇いてどうにもならん。水を飲ませてくれんか。そしてそれを表には付けんでおいてくれ。頼む」
田代は、悠里に向かって両手を合わせ、目をつぶっている。田代の必死さが伝わり、悠里は辛かった。経過が良いといっても、田代の心臓はまだ完全には回復しておらず、今ここで水を飲みすぎたら、心臓に負担がかかることは目に見えていた。田代の水分摂取量は、一日五百ミリリットルと決まっている。毎回飲んだ水の量を測って、表に付けていた。
悠里は首を横に振る。
「それなら口をゆすいでみましょう。少しは渇きが収まるかもしません」
田代は不満そうに言う。
「それなら岩崎さんにも言われて試してみたが、全く効果なしだった。あんなもの子供だましみたいなもんだ」
悠里は、考え込んだ。数値も改善してきている。それに初日に比べたら、胸の紫色も少し薄まってきているように見える。百ミリくらいならこっそり飲んでも、それほど影響は出ないのではないか、と罪悪感に駆られながらも思う。脳裏に岩崎の顔が浮かんだ。岩崎に相談してからの方がいいのではないか。しかし、目の前には田代の苦しそうな顔がある。迷いに迷った末、悠里は言った。
「じゃあ、百ミリだけですよ」
悠里は冷蔵庫からリンゴジュースを百ミリリットル慎重に測り、田代に渡した。
「お、いいのか。ありがとう、恩に着るよ。これで具合が悪くなっても、あんたのせいにはしないから安心してよ」
田代は、そう言ってコップを傾け、ゴクゴクと飲み干した。
「ああ、うまい、最高だね」
田代の笑顔を見ながら、悠里は不安になったが、その後の忙しさで、そのことをすっかりと忘れていた。
翌日、悠里が病院に行ってみると、田代の容体は急変していた。
岩崎が悠里の姿を認めて駆け寄ってくる。
「田代さんが、急性心不全を起こしたよ。今はICUにいる。急変について思い当たることはないかい?」
悠里は、自分の顔がどんどん蒼白になっていくのが分かった。膝がガクガク震えてくる。急性心不全とは、心臓のポンプの働きが急激に低下して、全身の血液の流れが滞る状態を指す。呼吸困難にもなり命に関わる。
その様子に気付いた岩崎は、悠里を個室へと連れて行った。
「どうした? 怒らないから正直に話して」
悠里は震える声で言った。
「昨日、田代さんにお水をもっと飲みたいと言われて、百ミリほど飲ませました。そしてそれは、表につけないでほしいと。すみません。本当に。」
岩崎の表情が変わった。
「君は、自分のしたことが分かっているのか」
岩崎の厳しい口調に、悠里は泣きそうになりながら言う。
「田代さんがあまりに苦しそうだったのでつい……本当に、申し訳ありませんでした」
岩崎は、自分の激情を整理するように、数回深呼吸をしてから、悠里に向き合い言った。
「看護の基本は、患者への愛情、やさしさ、思いやりだと俺も思っているよ。でも本当のやさしさってそういうことじゃないだろう。時には、患者さんの意向に沿えないことだってあるし、本当に相手にとってためになることを常に見極めていかなければならない。看護師とはそういう仕事だよ」
悠里は、岩崎の理性的な態度に感動していた。自分が岩崎の立場だったらどうだろう。絶対に実習生を怒鳴りつけてしまう自信がある。悠里は、岩崎を心から尊敬する一方で、強く惹かれた。今は強く反省するべきときで、惹かれるなんてとんでもないと一方では分かっていた。悠里は岩崎に、ひたすら頭を下げ謝るしかなかった。
岩崎は、悠里を連れて婦長に事情を話した。そして、一緒に婦長に謝ってくれた。悠里は、どうしようもなく情けない気持ちでいっぱいになった。
それを聞いた婦長は言う。
「杉浦さんに、悪気がないのは分かったわ。田代さん本人にも確認するけど。でも許可なく単独行動はもうしないこと、分かったわね」
悠里は「はい」としか言えなかった。




