遺産目当て
月曜の朝8時25分、私は、知らない駅のホームに立っていた。海に近い、倉庫が並ぶ町だった。駅前の通りには、大型トラックが何台も行き交っている。潮と排気ガスの匂いが混じった風が吹いて、スカートの裾が揺れた。
3週間の短期案件。物流会社の事務。時給1,650円。
初日の挨拶は、簡単だった。事務所の奥の席に案内されて、50代の課長に、「伝票の入力と、電話の取り次ぎをお願いします」と言われた。隣の席の女性は、30代で、サエコさんという名前だった。笑顔が自然で、聞かなくても色々と教えてくれた。
「トイレはあそこ。お昼は、各自。ここ、結構忙しいけど、慣れたら楽だから」
「ありがとうございます」
「前のところ、辞めたんですか」
聞かれて、少しだけ迷った。
「契約が、満了で」
「そっか。次が決まってよかったですね」
サエコさんの言葉は、深い意味のない、普通の言葉だった。それが、ありがたかった。
伝票の山と向き合う。数字を入力する。電話を取る。お昼になって、コンビニのおにぎりを食べた。ここには、私が誰の孫であるかを知っている人は、1人もいない。筆頭株主、という言葉が、午後の眠気の中で、遠く思えた。
通勤は、乗り換えが2回。往復で2時間かかる。帰りの電車の中で、膝の上の鞄を抱えて、ぼんやりと窓の外を見た。日が落ちるのが、日に日に早くなっている。
10日間の空白は、財布の中身を、4,800円から、さらに薄くした。朝食をおにぎり1個にして、昼を弁当にして、夜は豆腐と味噌汁にした。体重が少し落ちたのが、ズボンのウエストで分かった。
今日から、また収入がある。それなのに、気持ちは、楽にならなかった。3週間後には、また空白が来る。その先は、まだ何も決まっていない。
火曜の夜、アパートに着いたところで、弁護士から電話が入った。
「今、お話しして大丈夫ですか」
「はい」
「今日の午後、カワ商店の社長から、私に電話がありました」
カワ商店。株主の1人で、3%を持つ取引先の卸売業者。ハマ運輸と並ぶ、社長に委任を預けてきた側の株主だ。
「社長に、直接、確認したかったそうです。『筆頭株主というのは、本当に派遣上がりの若い女性で、先代の愛人めいた工員の孫が、遺産目当てで会社を食い物にしているという話は、本当か』と」
受話器を持つ手から、血の気が引いた。愛人めいた。遺産目当て。食い物にしている。
「誰が、そんなことを」
「カワ商店の社長は、名前を挙げませんでした。ただ、先週の金曜に、会社の役員の方が、あいさつを兼ねて、来られたと」
役員。テツ専務。ノブさんの畑に行って、契約の見直しと、祖母の悪い噂を、一緒に語った人。
「ハマ運輸にも、同じ時期に、同じ話が回ったようです」
「ミチヨさんでは、ないんですね」
「その可能性は低いと見ています。ヨウスケさんの連絡では、ミチヨさんが電話をしたのは、あなたの派遣先に2回です。取引先には、触れていませんでした」
先週の金曜に、ヨウスケが送ってくれた経緯。そこには、取引先の名前は、一つもなかった。なら、これは、別の人の手だ。テツ専務は、タダシさんの弟だ。売却を、強く推し進めたい人。
「私は、どうしたらいいですか」
声が、掠れた。
「まず、事実を整理しましょう。カワ商店の社長は、誤解を解く機会があれば、話を聞くとおっしゃっています。誠実な方のようです」
「会いに行きます」
「その前に、書面を作りませんか。口頭で訂正を求めるより、事実を並べて渡すほうが、後に残ります。誰かの名前を挙げて責めるのではなく、事実だけで」
「はい」
「明日、仕事の後で、事務所に来られますか」
「行きます」
通話を切ったあと、冷蔵庫を開けた。リクさんにもらった規格外の浅漬けは、もう食べ終わっていた。空の容器だけが、棚に残っている。蓋を閉めて、深呼吸した。
水曜の午後7時、弁護士の事務所の会議室で、書面の下書きを前に、向かい合っていた。
「ポイントは、3つです」
弁護士は、ホワイトボードに書いた。
ひとつ、遺産目当て、という指摘について。私が祖母から相続した持株は、祖母自身の出資と、増資の引受けと、先代からの生前の贈与契約に由来する。それぞれ、記録がある。
ふたつ、愛人、という指摘について。これは、祖母の名誉に関わる。具体的な反論は書かず、事実無根であることだけを明記する。
みっつ、会社を食い物にしている、という指摘について。私は、取締役の就任も、株の買取の申し出も、保留または辞退している。経営への関与を求めて、断っているわけではない。現時点で、私が望んでいるのは、売却の理由に関する資料の開示と、工場の人たちの声を聞くことであり、それ以上の主張は、まだしていない。
「取締役の話と、買取の話は、会社の内部の話です。書面には出しません」
「それで。3つ目は、資料の開示と、工場の声を聞くことだけ、と書きます」
下書きを読み直しながら、一語ずつ、言葉を直していった。強すぎる言葉は、削る。弱すぎる言葉は、数字と日付で補う。書面は、翌日の木曜に、カワ商店とハマ運輸に、弁護士を通じて発送された。
金曜の午後6時。物流会社の仕事を終えて、電車に乗り、本社の最寄りの駅に降りた。駅から歩いて7分。見上げると、築30年の4階建てのビルが、夕暮れの空に黒く立っていた。
東和フーズの本社。応接室には通されたことがあるけれど、社長室に呼ばれるのは、初めてだった。
1階の受付で名前を告げると、総務部長のコウジさんが、エレベーターの前で待っていてくれた。
「社長が、お待ちです」
「ありがとうございます」
エレベーターの中では、お互い、何も話さなかった。4階で降りて、廊下の突き当たりの、重い木の扉の前で、コウジさんが立ち止まった。
「カナさん」
小さな声で、彼は言った。
「私は、同席しません。社長のご指示です」
「はい」
「何かあれば、すぐに」
コウジさんは、扉をノックして、開けてくれた。
社長室は、思ったより、質素だった。大きな机と、本棚と、応接用のソファセット。窓の外には、夕闇に沈む第1工場の屋根が見える。
タダシさんは、机の向こうに立っていた。背広の上着を脱いで、シャツの袖を折り、窓の方を向いていた。振り返って、私を見た。
「来てくれて、ありがとう」
これまで聞いたどの声とも、違っていた。疲れていて、素朴だった。
「座ってくれ」
ソファに腰を下ろした。タダシさんは、向かいに座らず、本棚の前へ歩いて、1枚の額縁を外した。それから、ゆっくり戻ってきて、私の前のテーブルに置いた。
古い白黒の集合写真だった。工場の前に、人が並んでいる。10人ほどの男性と、その隣に、白い前掛けをつけた女性たち。中央に、背広姿の、40代くらいの男性が座っていた。
「真ん中が、父だ。マサオ。創業の頃の写真だと、聞いている」
先代。写真の端の方、前掛けの女性たちの、いちばん右。小柄な、若い女性が、大きな木の樽を抱えて立っていた。顔は、小さくしか写っていない。けれど、わかった。
目元が、似ていた。
「フミさんだ」
タダシさんが、静かに言った。
「私が子どもの頃、工場に連れていかれると、この人が、いつも、ぼっちゃん、と呼んで、漬物を持たせてくれた」
祖母が、ぼっちゃん、と呼んでいる声。
「父は、よく言っていた。フミさんには、頭が上がらん、と。会社が危なかった時期に、あの人が、助けてくれたと」
タダシさんの手が、額縁の縁を撫でた。
「その話は、母が、嫌っていた。母は、フミさんを、好いていなかった。贈与の話も、母は、最後まで、認めなかった。『あれは、取り入られたのよ』と」
先代の奥様。ミチヨさんが、嫁の作法を厳しく直されたという、あの人。同じ家に、同じ冷たい言葉が、2世代にわたって流れていたのかもしれない。
「私は、母の言葉を、信じてきた。いや、信じたかったのかもしれない。会社の持ち分が、一工員に渡っていたとは、思いたくなかった」
タダシさんは、顔を上げて、私を見た。
「でも、委任状は、毎年、届いた。細い字で。一度も、反対されたことはなかった。その人に、私は、ずっと、救われていたのだと、先日の名簿を見て、思い出した」
彼の声が、少し震えた。
「フミさんが守りたかった会社が、いま、潰れかけている。借入も、設備の老朽化も、本物だ。売却は、フミさんへの裏切りではない。会社を残すための手段だと、私は信じている。……あの人なら、分かってくれたはずだ」
分かってくれた。この人は、嘘を言っていない。写真を飾っていたのも、本当だろう。
私は、鞄の中から、茶封筒を取り出した。
「社長さん」
「ああ」
「見ていただきたいものが、あります」
封筒の中から、数枚のコピーを出した。祖母の手帳の、最初の数ページ。出資の記録。
〈出資 200万円 領収〉
先代の署名と、赤い判。その隣に、もうひとつの日付。増資の引受け。贈与契約の控え。弁護士が、相続の資料の中から探し出して、手帳の記述と、照らし合わせてくれたものだ。
タダシさんは、紙を手に取った。じっと、見つめた。しばらく、何も言わなかった。時計の針の音が、部屋に響いた。
「……親父の字だ」
低く、彼は言った。
「この判も。間違いない」
「祖母は、先代さんに頼まれて、出資したのだと思います。取り入ったのではなく。その手帳に、全部、書いてありました」
「そうか」
タダシさんは、目を閉じた。
「母に、聞かされたことは、違ったのか」
「私には、分かりません。ただ、記録は、ここにあります」
長い、沈黙だった。やがて、タダシさんは、紙を、そっとテーブルに戻した。
「私は、フミさんに、感謝している。それは、本当だ」
目を開けて、彼は言った。
「だが、私が会社を預かる責任は、感謝ではなく、数字で負う。借入の返済は、感謝では済まない。従業員220人の給料も、感謝では払えない」
正論だった。
「それなら」
私は、ゆっくりと言った。
「それなら、なおさら、その数字を、見せていただきたいです。祖母が守りたかった会社が、本当に、ここまで悪いのか。私にも、分かるように」
「次の取締役会で、諮る」
「はい。待ちます」
私は、コピーを茶封筒に戻した。
「祖母は、先代さんに『会社を守ってほしい』と預けられた、と話していました。その『守る』が、どういう意味か、私はまだ、分かりません。数字を守ることなのか、工場の人たちを守ることなのか。それを、勝手に決めたくないんです。工場の人たちに聞いて、数字を見て、決めたい」
「聞いた結果、潰れたら、どうする」
「それも、聞いたうえで、考えます」
タダシさんは、苦笑した。
「頑固だな」
「祖母に似たのだと思います」
「そうだろうな」
彼は、立ち上がって、写真を取り上げた。
「この写真は、持って帰るか」
「いいえ」
私は、首を振った。
「ここに、飾っておいてください。次の取締役会のときも、総会のときも」
タダシさんは、一瞬、目を見張った。それから、ゆっくりと、写真を本棚に戻した。
社長室を出ると、廊下で、コウジさんが待っていた。何も聞かれなかった。ただ、エレベーターのボタンを押して、静かに「お疲れさまでした」と言った。
夜の街へ出ると、風が冷たかった。ただ、あの写真の中の、小さな祖母の姿が、目に焼きついていた。
土曜の午前、サチさんの家を訪ねた。古い団地の2階で、玄関の脇に、小さな鉢植えが並んでいた。リクさんが、先に来て、ドアの前で待っていた。
「僕は、ここで待ってます」
彼はそう言って、階段の踊り場に座り込んだ。
「お1人で、話してください」
サチさんは、部屋の座布団に私を座らせて、お茶を淹れてくれた。小さな炬燵があって、その上に、籠に入ったみかんが置いてある。
「フミさんの話が聞きたいんだろう」
彼女は、お茶を勧めながら言った。
「何でも話すよ。私の知ってる限り」
「ありがとうございます。あの、祖母は、どんな人でしたか」
サチさんは、湯呑みを両手で包んで、遠くを見た。
「若い頃のフミさんはね、無口だった。人の悪口は言わない、自分の自慢もしない。ただ、手が早かった。誰よりも」
彼女は、少し笑った。
「私とフミさんは、同じ年に入った。25歳のときだ。最初の年、2人で、朝の4時半に来て、競争した。どっちが早く樽を洗い終わるか、って」
「祖母も、競争を」
「負けず嫌いなんだよ、あの人は。顔に出さないだけで」
サチさんは、湯呑みを置いた。
「それで、ある年。工場が、火事になった」
「火事」
「夜中に、乾燥室から火が出てね。半分、焼けた。浅漬けの樽も、冷蔵庫も、全部。先代さんは、真っ青だった。会社は、借金だらけで、再建できるかも、分からなかった」
彼女の声が、少し低くなった。
「その翌月の、給料日の夜。フミさんが、先代さんの部屋に、封筒を置いて帰った。……200万円だった」
息が止まった。200万円。手帳の最初のページ。出資、200万円。領収。先代さんの署名と、赤い判。
「どこから、そんなお金が」
「フミさんが、ずっと貯めていたお金だよ。娘さんを育てながら、ずっと、1円ずつ。……あんたのお母さんだ」
サチさんは、私を見た。
「お母さんが小さかった頃にね、旦那さんが亡くなって。フミさんは、1人で、育てた。そのために貯めたお金を、全部、出した」
私の母。早くに亡くなった、私の母。顔は、写真でしか知らない。
「先代さんは、受け取れないと言った。フミさんは、『冷蔵庫を買い直してください』って、それだけ言って、帰ったんだ」
冷蔵庫。リクさんが言っていた。夏に壊れかけた、あの古い冷蔵庫。
「あの冷蔵庫が、そうなんですか」
「ああ。火事のあとに、新しく入れた。フミさんのお金で。今のあれは、その後、何回も修理を重ねたけど、もとは、あの時のものさ」
築52年の工場。その中で、38年、動き続けてきた冷蔵庫。祖母のお金で買われた、古い冷蔵庫。
「フミさんは、誰にも、言わなかった。私にも、言わなかった。何年も経ってから、先代さんが、ぽろっと、教えてくれたんだよ」
サチさんは、袖で目を拭った。
「あの人はね、お金に執着する人じゃなかった。ただ、ここを守りたかったんだ。工場を。みんなを」
みかんを1つ取って、私の手に持たせてくれた。
「あんたは、フミさんに、よく似てる。食べなさい」
みかんの皮が、手のひらに冷たかった。
「サチさん。祖母は、私のことを、何か言っていましたか」
サチさんは、少し考えた。
「孫が生まれたら、塩の手を教えるんだ、って、よく言ってた」
「塩の手」
「手で決める、って、あれさ。娘さんには、教えそびれたから、って。だから、孫には、ちゃんと教える、って」
祖母は、母に教えそびれた。母は、若くして死んだ。そして、私に教えた。台所で、毎日。計量スプーンを出すと、「それは手じゃない」と笑って。20年かけて、私の手に、染み込ませた。
私は、みかんを握りしめた。涙が、ぽたぽたと、膝の上に落ちた。サチさんは、何も言わずに、背中をさすってくれた。
玄関の外では、リクさんが、静かに待っていた。
夜、アパートに戻って、机の上の手帳を取り出した。ゴムバンドを外して、最初のページを開く。200万円の出資。領収。先代の赤い判。
その隣の余白に、鉛筆で、小さな字が書いてあった。
〈冷蔵庫〉
たった3文字。見落としていた。昨日までは。
後ろのページをめくる。中ほどまで、数字と日付が続き、最後の数ページは、白かった。最後の1枚だけが、ほかのページと少し違って、端が折れていた。
開こうとして、指が止まった。今夜も、だめだった。
手帳を閉じて、ゴムバンドを留めた。
電気を消す前に、自分の部屋の小さな冷蔵庫の扉を開けて、中を覗いた。豆腐と、卵と、少しの野菜。その奥に、空の容器がひとつ。
工場の古い冷蔵庫のことを、思った。祖母のお金で買われたものが、今も、あの工場の中で、動いている。そう思って、扉を閉めた。
閉まる音が、いつもより、重かった。




