古い冷蔵庫
月曜の午後6時40分、物流会社の事務所を出た直後に、コウジさんから電話が来た。倉庫の裏手の、トラックの待機場所の脇で、私は携帯を耳に当てた。排気ガスの匂いと、フォークリフトの電子音が、背後を行き交っている。
「取締役会の結果を、お伝えします」
コウジさんの声は、いつもより少し急いでいた。
「まず、臨時株主総会の招集が決まりました。日時は、19日後の土曜日、午前10時。場所は、本社の3階の大会議室です」
19日後の土曜日。頭の中で、日数を数えた。
「議案は、第2工場の漬物製造事業の譲渡について、承認を求める件です。譲渡先はサンキョウ食品、譲渡価額は9億円。取締役会としては、これを総会に提案します」
「提案、ですか」
「はい。売却の方針そのものへの賛否は、役員の中でも分かれました。テツ専務は、強く推進。ゴロー常務とケン取締役は、総会で株主の判断を仰ぐことには同意しましたが、方針への賛否は、総会の場で、それぞれの考えを述べる形になります」
つまり、取締役会は、結論を出さなかった。株主に、委ねたのだ。
「それと、買い手のサンキョウ食品には、交渉期限の延長を申し入れ、承諾を得ました。新しい期限は、総会の12日後です。ただ、条件の見直しがあるかもしれないという留保が付いています」
「分かりました」
「最後に、あなたからの資料請求について。取締役会で、開示に同意しました」
手のひらに、汗が滲んだ。
「条件が、あります。守秘の誓約書への署名。閲覧は、本社の応接室で、私の立会いのもと。資料の持ち出しと、写真やコピーは、不可。メモは取れます。開示する範囲は、売却の理由に関する要約資料、財務の概要、買い手の条件書の概要です」
条件書の概要。細部は、見られない。
「閲覧は、いつ可能ですか」
「あなたの都合に合わせます。明日の夜でも」
「明日の、午後6時30分でお願いします。仕事が終わってから、向かいます」
「承知しました。応接室を、確保しておきます」
通話が切れた。トラックが、1台、目の前を通り過ぎた。巻き上げた風が、髪を揺らした。
資料を、見られる。嬉しい、というより、怖かった。それでも、見る、と決めていた。
火曜の午後6時30分。応接室は、コウジさんと初めて会った日と同じ、2階の奥だった。窓の外は、すっかり暗くなっていた。第1工場の屋根の向こうに、街灯の光が点々と並んでいる。
コウジさんが、書類を机に置いて、誓約書を差し出した。
「こちらに、ご署名を」
A4が1枚。守秘の対象、期間、違反時の取り扱い。弁護士に事前に目を通してもらっていた。署名をして、日付を入れた。
「ありがとうございます」
コウジさんは、それを受け取って、クリアファイルにしまった。
「では、始めましょう。資料は12ページです。ゆっくり、ご覧ください」
最初の1枚は、会社の概要だった。従業員220人。年商48億円。第2工場が、そのうちの約3割。
次のページは、借入の状況だった。銀行からの借入、12億円。返済額、年に1億2,000万円。残りの返済期間、10年。数字が、ぎっしり並んでいた。見るのも、怖かった。
その次のページ。第2工場の収支。営業利益の欄に、小さな数字が書いてあった。年に1,000万円に満たない。それも、直近2年は、ほとんどゼロに近い。
「第2工場は、売上は大きいが、利益が出にくい構造です」
コウジさんが、静かに説明した。
「設備が古く、修繕費が毎年かさみます。人手も多い。浅漬けの需要は、安定していますが、原価と人件費が上がり続けている」
「はい」
次のページは、設備の状況だった。冷蔵設備。排水設備。
写真が、何枚か貼ってあった。冷蔵庫の扉の、錆びた蝶番。内側に張った霜。配管に巻かれた、古い保温材。写真の下に、キャプションがあった。
〈夏季、冷蔵設備の故障により3日間停止。原料・仕掛品の廃棄:約1,800万円〉
3日間。リクさんが、夏に壊れかけたと言っていた、あのことだ。かけた、ではなかった。実際に、止まったのだ。
「これは」
「この夏です。8月の暑い時期に、冷蔵庫の圧縮機が止まりました。修理に3日かかり、その間に、仕込んだ分の野菜が、ほとんど駄目になりました」
コウジさんの声が、低くなった。
「あの朝、私は応援で第2工場に駆けつけました。着いたら、工場長が青い顔で立っていて。従業員が、みんなで、野菜を廃棄するところを、見ていました」
私は、黙って写真を見た。
次のページに、改修の見積書の要約があった。冷蔵設備の更新、1億8,000万円。排水設備の更新、1億2,000万円。合計で3億円。
「3億円を、自力で出す余裕は、会社にはありません」
コウジさんは、事実を並べた。
「銀行に追加融資を申し込めば、審査が入ります。現在の借入と収益の状況では、簡単には通りません。売却によって、借入を大きく減らし、残る事業を安定させる。それが、社長とテツ専務の考えです」
嘘では、なかった。誇張でもなかった。数字は、正直に、ひどかった。
「次が、買い手の条件の概要です」
コウジさんが、ページをめくった。譲渡価額、9億円。対象は、第2工場の設備、ブランド、および従業員。従業員の承継は、原則として行う。ただし、条件の詳細は、別途協議。
原則として。その言葉が、目に留まった。
「この、原則というのは」
「買い手の考え方では、全員の継続雇用を約束するものではない、という含みです。具体的な条件は、まだ私どもにも、開示されていません」
私は、メモを取った。ペンが、少し震えていた。全員を守る、という約束はない。64人が、売られた先で、どうなるのか。分からない。
最後のページは、会社の浅漬けの売上の推移だった。右肩上がりの棒グラフ。10年で、約1.4倍。
「浅漬けは、伸びているんです」
コウジさんが、初めて、少し笑った。
「悪い数字ばかりではありません。ブランドは強い。看板商品です。それを、手放したくない人間も、社内には多い」
「社長は」
「手放したくないはずです」
コウジさんは、断言した。
「社長は、嘘をつく人ではありません。方法を間違えることはあっても。あの人は、会社を残したくて、売ろうとしている。矛盾して聞こえるでしょうが、本当です」
私は、ペンを置いた。
「ひとつ、伺ってもいいですか」
「どうぞ」
「この窓から見える、第1工場の向こうの空き地は、会社のものですか」
コウジさんは、窓の外を見た。
「はい。先代が、将来の拡張のために買った土地です。1,800坪ほど。使われないまま、数十年経ちました」
「売却の検討は」
「一度、社内で上がりました。借入の返済に充てる案として。ただ、先代の記念の土地という意見が強く、見送られた経緯があります」
資料には載っていなかった。コウジさんも、それを承知で、教えてくれたのだ。
「資料の外のことです。私の知っている、会社の事実として」
「ありがとうございます」
私は頭を下げた。空き地が、売れるかもしれない。売れたら、借入を減らせるかもしれない。まだ、何の確証もない。それでも、私の中で、小さな灯りが点った。
「代案を、考えます」
「売却を止めるだけでは、足りません。冷蔵庫と、排水と、借入に、答えが要る」
「空き地の登記と、直近の評価の有無なら、総務で確認できます。請求の書面に、1行足してください」
私は、メモを閉じた。
「祖母なら、誰かが何とかしてくれるのを、待たなかったと思います」
コウジさんは、しばらく黙っていた。それから、立ち上がって、書類を片付け始めた。
「今日の閲覧は、これで結構です。また必要でしたら、おっしゃってください」
応接室を出る前、彼は付け足した。
「私は、フミさんの委任状を、毎年、社長に届ける係でした」
振り返ると、コウジさんは、扉の前に立っていた。
「あの封筒を開けるとき、いつも、背筋が伸びました。……お孫さんが、同じ背筋をしていることが、嬉しいです」
返事が、うまくできなかった。
本社の外に出ると、夜気が冷たかった。見上げると、空に、雲が低く垂れていた。
水曜の夜、弁護士の事務所で、作戦会議を開いた。ホワイトボードに、弁護士が書いた。
1 売却案への対応
2 代案の骨子
3 総会までの準備
「再建案は、総会の議案になりません。あなた自身の発言として示します。実行するのは、取締役会です」
「それで、十分です」
弁護士は、ホワイトボードに3つの柱を書いた。
設備更新の資金。借入の圧縮。体制。
「設備更新は、銀行の融資と、国や県の支援制度の併用を調べます。要件は、私のほうで確認します。借入の圧縮は、空き地の売却。ここまでは、取締役会が判断する話です」
「体制は」
「ゴロー常務が工場の出身です。ただ、指名はできません」
私は、ノートに書き写した。字が、少し乱れていた。
「通る保証はありません。否決しても、銀行が渋れば、会社は別の形で追い込まれます。それでも」
「やります」
弁護士は、白紙を1枚、机の中央に置いた。
「最初の一歩を、今夜、踏みましょう。取締役会宛ての、検討要望書です。あなたが総会で述べる前に、書面で、先に出しておく。口頭の約束は、あとから消えますが、受付の印のある書面は、残ります」
2人で、1行ずつ、文面を詰めた。
ひとつ、空き地の売却その他の資産活用による借入圧縮の可否を、検討してほしい。ふたつ、設備更新の資金について、銀行への相談と、公的な支援制度の利用可能性を、調べてほしい。みっつ、規格外の原料の活用と、少量製造の可否を、工場の意見を聞いて、試してほしい。
末尾に、一文を足した。
〈株主として、これらの実行を求めるものではなく、取締役会の責任で検討されることを求めます〉
読み返すたびに、字を削った。強い言葉は、柔らかく。弱い言葉は、具体的に。仕上がったのは、1枚だけの書面だった。署名欄に、フルネームを書いた。ペンを持つ手が、静かに震えた。
翌朝は、物流会社へ行く前に、30分早く家を出た。午前7時50分、本社の受付で、コウジさんに書面を渡した。
「取締役会宛ての、要望書です。受付の印を、いただけますか」
コウジさんは、封筒の中身に目を通した。それから、机の引き出しから、日付入りの受付印を取り出した。
「確かに、お預かりしました」
紙の右上に、赤い印が押された。日付が、くっきりと、浮かんだ。
「取締役会の資料に、載せます。ゴロー常務にも、写しを回します」
「ありがとうございます」
「いいえ」
コウジさんは、紙を両手で揃えながら、小さく言った。
「これが、あなたの最初の提案ですね」
提案、と言われて、少し驚いた。お願いを書いただけのつもりだった。バスの中で、窓に映る自分の顔を見た。緊張で、少し青かった。
木曜の夕方、工場のベンチに、リクさんが座っていた。私が来るのを、見ていたのだろう。顔を上げて、軽く頭を下げた。
隣に座った。人ひとり分の隙間は、もう、ほとんどなかった。
「今日の午後、持株会の会員に、トクさんから手紙が回りました」
リクさんが、静かに言った。
「総会が、再来週の土曜日に開かれる。会員の意向を、聞きたい、と。カナさんの名前は、書いてありませんでした」
「ありがとうございます。トクさんに、お礼を言わないと」
「はい」
私は、膝の上で、手を組んだ。
「リクさん。聞いてほしいことが、あります」
彼が、こちらを見た。
「先週の土曜に、サチさんから、聞いたんです。工場の冷蔵庫が、祖母のお金で、買われたものだと」
リクさんの目が、大きく見開かれた。
「火事のあとで、祖母は、貯めていたお金を全部出して、先代さんに渡したそうです。『冷蔵庫を買い直してください』と、それだけ言って」
「……あの、冷蔵庫が」
「はい。あの古い、何度も修理した、あの冷蔵庫が」
リクさんは、しばらく、言葉を失っていた。
搬入口の方から、機械の低い唸りが聞こえた。冷蔵庫の、コンプレッサーの音。毎日、聞いている音。
「今日も、唸ってます」
彼が、ぽつりと言った。
「夏は、あの音が止まるのが、一番怖かった。止まったら、全部、終わりだから」
声が、震えていた。
「僕、あの冷蔵庫に、毎朝、おはようって言ってるんです。変ですよね」
「変じゃないです」
私は、首を振った。
「祖母も、きっと、言ってたと思います」
リクさんは、帽子のつばを、少し下げた。表情が、見えなくなった。しばらく、2人とも、黙っていた。冷蔵庫の音が、低く、一定に、鳴り続けていた。
「カナさん」
やがて、彼が言った。
「僕には、経営のことは、分かりません。でも、あの冷蔵庫が、フミさんのお金で、今日まで動いてきたのなら」
言葉を切って、彼は顔を上げた。
「あれを、止めたくないです」
彼は、帽子のつばを握り直した。
「カナさんの代わりに、言ってるんじゃなくて。僕が、止めたくないです」
胸の奥が、あたたかくなった。
「ありがとう、ございます」
私は、言った。声が、少しだけ、震えていた。
金曜の夜。アパートに帰ると、ポストに、白い封筒が入っていた。厚みのある、角形の封筒。差出人の欄に、東和フーズ株式会社、と印刷されている。
部屋の電気をつけて、コートを脱がないまま、机の前に座った。封を切る。
中から、薄い冊子と、2枚の紙が出てきた。1枚は、議決権行使書。もう1枚は、委任状の用紙。
冊子の表紙に、黒い文字があった。
〈臨時株主総会招集ご通知〉
日時、土曜日、午前10時。場所、本社3階大会議室。
会議の目的事項。第1号議案、事業譲渡契約承認の件。
譲渡の対象、第2工場の漬物製造事業。譲渡先、サンキョウ食品。譲渡価額、9億円。
取締役会の意見として、売却に賛成する旨が、控えめな文章で記されていた。紙の上の、事務的な活字。
9億円という数字の下に、64人の名前は、ひとつもなかった。サチさんも、トクさんも、リクさんも。毎朝、冷蔵庫におはようと言う人の名前も。
冊子を、閉じた。開いた手のひらに、紙の端が、薄く食い込んでいた。
ふと、台所の冷蔵庫の音に、気づいた。
私のアパートの、古い小さな冷蔵庫。ジー、と低く鳴って、時々、思い出したように、ガタンと揺れる。大家さんから、前の住人が置いていったものを、そのまま使わせてもらっている。もう、10年近く動いている。
今夜だけ、その音が、耳の奥まで入ってきた。祖母のお金で買われた、工場の冷蔵庫も、そうだった。
携帯が鳴った。派遣元のショウさんからのメッセージだった。
〈短期案件の終了後の次の紹介ですが、今月中は難しそうです。来月からなら、2件あたっています。すみません〉
3週間の期間が終わるのは、総会の8日前。その後、また空白が来る。返信を打った。〈分かりました。お願いします〉
携帯を伏せて、冊子をもう一度開いた。日付の欄に、赤いペンで、丸をつけた。
総会まで、あと15日。冷蔵庫の音が、部屋の中で、低く鳴り続けていた。




