夜の試作
月曜の午後2時、私は、物流会社の課長の机の前に立っていた。
「半日、お休みをいただけませんか。午後だけで、結構です」
課長は、書類から顔を上げて、眉を寄せた。
「急だね。理由は」
「どうしても外せない用事があって。その分のお給料は、結構です」
時給1,650円の、4時間分。6,600円。今の私には、小さくない金額だった。それでも、言った。課長は、しばらく私の顔を見ていたが、やがて頷いた。
「サエコさんに引き継いでいってね。なるべく、早く戻って」
「ありがとうございます」
隣の席のサエコさんが、何も聞かずに、親指を立ててくれた。
電車を乗り継いで、市の中心部に出た。銀行の支店は、駅前の大通りに面した、灰色のビルの2階にあった。港南銀行。東和フーズが、長く取引してきた銀行だと、コウジさんの資料で知っていた。
受付で名前を告げると、弁護士が先に来ていて、ロビーのソファから立ち上がった。
「お仕事の途中なのに、すみません」
「いいえ。私の方こそ」
応接ブースに通されると、すぐに、融資課のアキさんが現れた。40代の、無駄のない動きをする人だった。名刺を交換して、向かい合って座る。
「先にお断りしておきます」
アキさんは、穏やかな声で言った。
「東和フーズ様は、当行のお取引先です。お取引先の内部の情報を、株主様とはいえ、お話しすることはできません。本日は、一般的なお話と、株主様のご意向を伺う場として、お時間をいただいています」
「はい。承知しています」
「では、何をお聞きになりたいですか」
私は、膝の上で手を組んだ。
「教えていただきたいのは、一般論です。もし、ある会社が、古い設備の更新に3億円ほどかかるとして、その会社が事業の一部を売らずに、更新をしたいと考えたとき、銀行は、何を見ますか」
アキさんは、少しだけ口の端を上げた。
「融資は、会社からのお申込みを受けて、審査をします。株主様のご意見は、参考にはなりますが、決める材料にはなりません」
「はい」
「審査で見るのは、おもに4つです。返済できるか。その計画は現実的か。会社の経営体制は、安定しているか。そして、事業の見通し」
彼女は、指を折った。
「返済できるか、というのは、毎年の利益と、現金の流れを見ます。今ある借入の返済に加えて、新しい借入の返済が上乗せされても、回るのか」
「はい」
「そのうえで、資産の売却などで、借入そのものを減らす案が出ていれば、評価の材料になります。返済の負担が軽くなりますから」
空き地。私は、弁護士と目を合わせた。弁護士は、小さく頷いた。
「体制は、どうでしょう。社長が代わる、ということは」
「経営体制の変更は、審査にとって、大きな要素です。誰が、どういう計画で、返済に責任を持つのか。社長が代わること自体が悪いことではありません。ただ、新しい体制の計画が、具体的で、実行可能かを見ます」
実行可能か。その言葉を、ノートに書いた。
「時間は、どのくらい見ればいいですか」
「お申込みを受けてから、少なくとも1か月から2か月。資料の追加を求めることもあります。補助金や公的な支援制度を併用する場合は、さらに時間がかかります」
1か月から2か月。
「それと」
アキさんは、声を少し落とした。
「付け加えておきます。東和フーズ様の取締役のお一人は、当行の出身です。そのため、当行では、この件の取り扱いを、普段以上に慎重にしています。お取引先の意思決定に、当行が影響を与えたとは、思われたくないので」
ケンさんのことだ。
「ですから、本日のお話は、株主様のお考えを伺った、という記録にとどめます」
「はい。否決したあとに何が要るのか、知らないまま反対するのは、無責任だと思って来ました」
アキさんは、私を見つめた。それから、ほんの少しだけ、表情が和らいだ。
「東和さんの浅漬けは、私の実家の食卓にもありました」
唐突に、彼女は言った。
「大根のもの。塩加減がちょうどよくて、白いご飯が止まらなくて」
不意を突かれて、言葉が出なかった。
「看板商品だと、承知しています。それがなくなるのは、地元にとっても、寂しいことです。……でも、銀行は、寂しさでは貸せません。数字と、計画と、人です」
「はい」
「もし、総会の後に、新しい体制と、具体的な経営計画が整って、会社から正式にお申込みがあれば、当行は、きちんと審査をします」
応接ブースを出るとき、弁護士が小声で言った。
「4項目を、再建案の骨子に当てはめて、表にします。空き地の評価額が、最初の空欄です」
「はい」
銀行の外に出ると、午後の陽が傾き始めていた。ビルの影が、歩道に長く伸びている。融資は、自動では、決まらない。
火曜の午後7時半、私は、工場の門の前に立っていた。夜の工場は、昼とは別の顔をしていた。搬入口の大きな扉が下りて、横の小さな通用口にだけ、灯りがついている。通用口の脇に、白い帽子の人が立っていた。
「お待たせしました」
リクさんが、手を上げた。
「工場長の許可は、もらってあります。試作室を、1時間だけ」
「ありがとうございます。でも、私が入ってしまって、大丈夫ですか」
「見学者として、記録しました。名前は、カナさんです」
彼は、ちょっと照れたように笑った。
「株主、とは書いてません」
その気遣いに、胸が温かくなった。
通用口をくぐると、消毒の匂いと、冷たい空気が迎えた。白い廊下を歩いて、一番奥の小さな部屋に入る。ステンレスの作業台と、洗い場と、小型の漬け台が並んでいた。
「ここが、試作室です。新しい商品を考えるときに、使う部屋で」
作業台の上に、野菜が並べてあった。大根、きゅうり、にんじん、キャベツ。どれも、少し小さかったり、形が曲がっていたりする。
「規格外です。今日、仕込みで出たものを、取っておきました」
「これを、使うんですか」
「はい」
リクさんは、手を洗いながら言った。
「あの日、カナさんに規格外の浅漬けを渡したとき、思ったんです。味は同じなのに、毎日、これを捨てている。1日に、コンテナ3つ分くらい。1年では、すごい量になります」
「はい」
「売れないかな、と、ずっと思ってました。小さな袋に詰めて、工場の前の直売で、安く。そうすれば、廃棄が減って、少しでも、お金になる。でも、誰にも言い出せなくて」
彼は、私を見た。
「これは、カナさんのためにやるんじゃありません。僕が、ずっとやりたかったことです」
「手伝わせてください」
私も手を洗って、作業台の前に立った。野菜を洗い、薄く切る。包丁の音が、小さな部屋に、規則正しく響いた。リクさんは、手際よく切っていく。私は、少しだけ遅れて、同じ幅を目指した。
「塩を、量ってみましょうか」
リクさんが、小さな秤を出した。
「今の工場のやり方は、野菜の重さに対して、塩の割合を決めて、機械で量ります。それを、ここで再現して、カナさんの手と、比べてみたいんです」
「分かりました」
野菜を2つの容器に分けた。片方に、秤で量った塩を入れる。もう片方に、私が手でつまんだ塩を、振り入れる。手のひらで、野菜を揉む。塩が溶けて、水が出てくる。
野菜の水気を絞って、酢と昆布の入った液に漬ける。ふたをして、冷蔵庫で30分。待つ間、リクさんが、お茶を淹れてくれた。紙コップの熱が、掌に伝わる。
「僕、思うんです」
椅子に座って、彼は言った。
「機械で量ると、毎回、同じになる。それは、いいことです。でも、野菜は、毎日違う。今日の大根は水分が多くて、昨日のは固かった。同じ塩を入れても、同じ味にはならない」
「はい」
「フミさんのレシピ帳に、『朝、気温3度。塩、ひとつまみ減』ってありますよね。読んではいたんですけど、量を合わせるだけじゃ、あの味にならなくて。……今日は、手で振ってみたかったんです」
私は、頷いた。
30分後、冷蔵庫から容器を出した。割りばしで、それぞれの野菜をつまんで、口に入れる。
秤で量った方は、安定した、まっすぐな味。悪くない。誰が食べても、おいしいと思う味だった。手で振った方は、少し丸かった。塩が角を立てず、野菜の甘みの方へ、そっと寄り添っている。
「……こっちですね」
リクさんが、先に言った。
「うん。私も」
顔を見合わせて、笑った。小さな部屋の中で、2人の笑い声が、低く響いた。
「でも、これを工場全体でやるのは、難しいです」
リクさんは、すぐに現実に戻った。
「手で決められるのは、経験のある人だけです。人が足りない。だから、機械が入ったんです。……全部を手に戻すことは、できない」
「はい」
「でも、規格外の小さな袋なら、手で塩を決める人を、数人だけ決めて、少量ずつ、作れるかもしれない」
彼の目が、ゆっくりと輝いていった。
「ベテランの人たちに、役割ができる。新しい人にも、教えられる」
「それは、素敵ですね」
再建案の中の、小さな一枚の絵が、頭の中に浮かんだ。大きな数字の隣に、ほんの小さな、けれど確かな、手で決める人の居場所。
試作の後片付けを終えたとき、リクさんが言った。
「ちょっと、来てもらえますか。見せたいものがあります」
通用口を出て、敷地の奥にある倉庫へ向かった。懐中電灯の光が、暗い床を照らした。古い台車、積み上げたコンテナ、使われなくなった樽の山。その奥の壁際に、シートがかけられた細長いものが、立てかけてあった。
「この前から、探してたんです」
リクさんが、シートの端を持ち上げた。
「昨日の仕事の後に、やっと見つけました」
懐中電灯の光が、木の板を照らした。幅1メートルほど。厚い、黒光りする木の板に、白い文字で、名前が並んでいた。縦書きの、墨のような筆の字。その横に、年数が添えてある。
〈勤続30年 トク〉
〈勤続33年 サチ〉
そして、いちばん下の段の端に。
〈勤続38年 フミ〉
金色の塗料が、ところどころ剥げていた。それでも、その字は、はっきりと読めた。
息が、止まった。
事務所の入口の脇の、四角く白い壁。あそこに掛かっていた板だ。祖母の名前が、そこにあった。ずっと、あった。
私は、指を伸ばした。板の表面は、ひんやりとして、ざらついていた。
「フミ」
声に出して、読んだ。
リクさんは、何も言わなかった。懐中電灯を、私の手元に向けたまま、じっと立っていた。
「ありがとう、ございます」
声が、掠れた。
「見つけて、くれて」
「いえ」
「これを、掛け直せたら」
「それは」
彼は、少し言いよどんだ。
「僕らが決めることじゃないかもしれません。工場の人たちや、経営の人たちが、決めることで」
「はい」
「でも、掛けたいです。僕は」
彼の声が、静かに倉庫に響いた。しばらく、2人で、板を見ていた。
やがて、リクさんが、シートを元に戻した。丁寧に、端を揃えた。
「カナさん。一度、言っておきたいことがあります」
「はい」
「僕は、カナさんを、食事に誘いたいと、思ってます」
心臓が、どくんと鳴った。懐中電灯の光が、ゆらりと床を揺らした。
「でも、今は、誘えません」
彼は、続けた。
「うまく言えないんですけど。僕は従業員で、カナさんは筆頭株主です。総会の前に2人で食事をしたら、どう見られても、文句は言えない。カナさんがやってきたことに、僕のせいで傷をつけたくないです」
彼は、軍手の指先を、ぎゅっと握っていた。
「総会が終わって、落ち着いたら、改めて誘わせてください。断られても、ベンチは、変わりませんから」
私は、何を言えばいいのか、分からなかった。胸の奥が、熱かった。
「分かりました」
「総会が終わったら。そのときに、聞かせてください」
「はい」
リクさんは、頷いた。
帰り際、彼は、試作した浅漬けを、小さな容器に詰めて、渡してくれた。手で塩を振った方だった。
「今日の、カナさんの味です」
冷たい容器が、両手に、重かった。
木曜の午後6時30分、私は、本社の応接室にいた。コウジさんが、手元の封筒から、新しい紙を数枚、取り出した。
「先日のお話の続きです。取締役会で、ゴロー常務が提案されました。開示の範囲に、買い手の条件書の追加項目を含めてはどうか、と。株主の判断に必要だから、と」
「ゴローさんが」
「はい。正式な手続を経て、承認されました。社長も、反対されませんでした」
コウジさんは、紙を私の前に滑らせた。
「閲覧のみです。写真やコピーは、前回と同じく、できません」
ペンを持って、読み始めた。
項目は、2つだった。
ひとつ目。従業員の承継について。譲渡の日から1年間は、現在の従業員の雇用を、買い手が引き継ぐ。1年経過後の雇用については、買い手の判断による。
1年。ペンを持つ手が、止まった。
64人。その人たちの雇用が、守られるのは、1年だけ。その後は、買い手の判断。
「原則として、というのは、このことですね」
「はい」
コウジさんは、短く答えた。
ふたつ目。仲介報酬について。仲介会社に支払う報酬は、譲渡価額の3%。9億円の3%。
2,700万円。9億円から、この分が引かれる。借入の返済に回せる額は、その分だけ小さくなる。
「仲介会社の選定は、どなたが」
聞くと、コウジさんは、少し間を置いた。
「テツ専務の担当でした」
「選定の経緯と報酬の条件は、総会で質問が出れば、会社が説明する事項です」
「はい」
私は、紙を読み返した。何度も。1年という数字が、目に焼きついて離れなかった。
「コウジさん」
「はい」
「これは、守秘の対象ですね。私が、他の人に話してはいけない」
「そうです。誓約書に、含まれます」
「分かりました」
紙を返した。これを、トクさんに話したい。サチさんに、リクさんに。64人の人たちに、今すぐ、伝えたい。でも、誓約書に署名したのは、私だ。
「総会の場で、質問することは、できますね」
「できます。株主の権利です。会社は、答える義務があります。答えられない部分は、その理由を述べます」
「はい」
私は、立ち上がった。
「ありがとうございます。今日は、これで」
応接室を出る前に、コウジさんが言った。
「ゴロー常務は、あなたに会ったことがありません。ただ、フミさんの孫だと知って、ずっと気にされていました」
「ゴローさんが」
「工場の出身で、フミさんに、仕事を教わったことがあるそうです。若いころに」
また、祖母の名前が、思いがけない場所から出てきた。
夜のベンチに、リクさんが座っていた。金属の冷たさが、スカート越しに伝わってきた。隣に座ると、彼は、何も聞かなかった。
少しの沈黙のあと、私の方から言った。
「言えないことが、増えました」
「はい」
「今日、会社で見たものがあります。守秘の約束があって、リクさんにも、トクさんにも、話せません」
彼は、少し黙っていた。
「それは、僕に関わることですか」
私は、答えなかった。答えられなかった。リクさんは、ゆっくりと頷いた。
「分かりました。聞きません」
「いいんですか」
「僕に言えないことは、今、僕が知らなくていいことです」
そう言って、彼は、ポケットから缶のお茶を出した。まだ温かい。不器用に、私の手に押しつけてくる。
「……さっき、自販機で2本買っちゃって」
冬の気配のする風が、ベンチの横を通り過ぎた。総会まで、あと9日。
ポケットの中の手帳に、小さく、数字を書いた。




