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婚約者の母に塩をまかれた派遣社員の私は、その家の会社の筆頭株主でした。  作者: ぽんちょ。


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12/15

指輪

金曜の午後5時30分、物流会社の3週間は、終わった。事務所の入口で、課長が、社員証の返却を受け取ってくれた。


「お疲れさま。助かったよ」


「こちらこそ、お世話になりました」


頭を下げると、隣の席のサエコさんが、小さな紙袋を差し出した。


「これ、大したものじゃないけど」


中を覗くと、缶のコーヒーと、チョコレートが入っていた。袋の端に、付箋が貼ってある。


〈また、どこかで。次の仕事、見つかりますように〉


たった3週間だった。それでも、私の名前の字を、覚えていてくれた人がいた。


「ありがとうございます」


声が、少しだけ、震えた。


倉庫街の駅のホームで、夕焼けを背にして、電車を待った。潮の匂いが、風に混じって、鼻の奥に残った。今日から、また、行く場所がなくなった。


財布の中身を、頭の中で計算した。この3週間の給料が振り込まれるのは、来月の末だと聞いている。それまでは、手元の貯金、およそ40万円で暮らす。家賃は払える。その次は、分からない。


電車に乗り込んだとき、弁護士から電話が入った。


「今、お話しできますか」


声が、いつもより硬かった。


「はい」


「会社から、書面が届きました。社長名義で、顧問の弁護士を通じて。今日の午後です」


窓の外で、街の灯りが、後ろへ流れ始めた。


「内容は」


「事務所で、直接お見せしたほうがいいと思います。今夜、来られますか」


「向かいます」


通話を切ってから、電車の揺れに合わせて、手すりを強く握った。


夜の7時過ぎ、弁護士の事務所の会議室で、私は、1枚の書面を読んでいた。会社の社名と、社長のタダシさんの名前。その下に、顧問の弁護士の名前が添えられている。丁寧な、けれど冷たい文章だった。


〈貴殿が提出された名義書換請求に係る相続関係書類につき、不備の疑いが認められるため、追加の書類の提出を求める。提出がない場合、臨時株主総会における貴殿の議決権の行使資格につき、会社は慎重に判断する場合がある。回答期限は、月曜日の正午とする〉


慎重に判断する場合がある。その言葉が、何を意味するのかは、私にも分かった。総会は、土曜日。その前の月曜に、期限を切る。回答が間に合わなければ、議決権を認めない、と言えるように。


「これは」


声が、掠れた。


「私を、総会から締め出すということですか」


「そうなる可能性を、残した書面です」


弁護士は、静かに言った。


「ただ、書面の中身をよく読んでください。不備の疑いがある、とは書いていますが、何がどう不備なのかは、書いていません」


「はい」


「そして、もうひとつ。会社は、すでにあなたの名義書換を受理して、名簿に記載して、招集通知をあなたに送っています。これらは、会社自身が、あなたを株主として扱ってきた事実です」


弁護士は、机の上の書類を、順に指で示した。


「受理通知書。株主名簿記載事項の証明書。そして、先週届いた招集通知。いずれも、会社が出したものです」


「でも、会社が、それを覆すと言い出したら」


「それができるかどうかは、会社の側が、不備の中身を示さなければ、判断できません。示せなければ、この書面は、ただの圧力です」


圧力。4億円の買取を保留してから、3週間。取締役の席を断ってから、4週間。タダシさんは、「また連絡する」と言った。その連絡が、これだったのか。


「誰が、出したんでしょう」


私は、聞いた。


「社長の名前になっています。でも、社長が、自分でこれを」


「分かりません」


弁護士は、首を振った。


「書面の名義は社長です。顧問の弁護士が実務を担当しているでしょう。誰の指示かは、書面からは読めません。今は、そこを推測しないほうがいいと思います」


私は、深く息を吸った。ミチヨさんの電話のときと同じように、今も、断定はしない。


「どう、対応しますか」


「回答書を出します。事実と書類で」


弁護士は、ペンを取った。


「あなたが祖母の唯一の相続人であることは、戸籍で示せます。他に相続人がいないのであれば、追加の同意書は、通常、必要ありません」


「いません。母は亡くなっていて、私が」


「その戸籍の写しと、受理通知書、証明書、招集通知の写しを添えます。会社に対して、不備と考える具体的な点を、書面で示すよう求めます。回答期限は、会社が先に切ったのですから、こちらも、月曜の正午の前に出します」


弁護士は、書き始めながら、付け加えた。


「あなたには、もうひとつ、お願いがあります」


「はい」


「明日、戸籍の原本を、手元で確認してください。写しを作るときに、記載に間違いがないか、一緒に見たい。私も立ち会います」


「分かりました」


私は、鞄を持ち直した。


事務所のビルを出ると、夜の風が頬を刺した。街灯の下で、息が、白く見えた。もう、秋ではなかった。


土曜の午前中、アパートの小さな机の上に、戸籍の書類を広げた。祖母の除籍謄本。母の戸籍。私の戸籍。何枚もの紙を、弁護士が示す順に並べていく。


紙の上の、細かい文字を、ひとつずつ、目で追った。祖母の名前。フミ。生年月日。亡くなった日付と、この春の季節が、淡い印字で記されていた。


その、ひとつ上の段に、母の名前。


母の死亡の日付は、私が小学校に上がる前の冬だった。顔は、写真でしか知らない。その写真も、台所の棚の奥の、小さな額に入っているだけだ。


戸籍の上では、母は「長女」と書かれている。祖母の、たった1人の子ども。祖母の夫は、母が幼いころに亡くなっている。そのことも、紙の上では、短い記載ひとつで済まされていた。


サチさんの言葉を思い出した。


『お母さんが小さかった頃にね、旦那さんが亡くなって。フミさんは、1人で、育てた』


紙の上の記載は、短い。けれど、その行間に、どれだけの朝があったのか。4時半に工場へ入って、娘を育てて、1円ずつ貯めて、火事の翌月に全部出した。


私は、戸籍の写しを、そっと撫でた。祖母の相続人は、ただ1人。私だけだ。


机の脇に、弁護士が午後に来る時間を書いたメモを貼った。それから、鞄の中から、茶封筒を取り出した。手帳が入っている。ゴムバンドの、すり切れた手触り。開かないまま、また鞄に戻した。


午後に、弁護士が来て、2人で書類を確認した。誤りは、なかった。回答書は、夕方までに仕上がり、配達記録付きで、会社と、顧問の弁護士の両方に送られた。


弁護士が帰ったあと、携帯が鳴った。登録していない番号だった。


「カナさんですか。カワ商店の者です」


嗄れた、年配の男の人の声だった。


「先日、弁護士の先生を通じて、お手紙をいただきました」


胸が、どきりとした。


「何度も読みました。……最初に聞いた話と、まるで違うので、驚いて。正直、どちらを信じていいか、迷いました」


「はい」


「それで、昨日、うちの古い従業員にも聞いてみたんです。昔、東和さんに出入りしていた人間に。フミさんの話を。そうしたら、皆、同じことを言いました。あの人は、会社が火事になったとき、全財産を出した人だ、と」


声が、少し震えていた。


「私は、人の言うことを、聞きすぎたかもしれません。反省しています」


「いいえ」


私は、首を振った。電話の向こうには見えないのに。


「お手紙を、読んでくださって、ありがとうございます」


「総会は、自分の目で見て、決めます。どちらの味方でもなく」


「それで、十分です」


「失礼しました」


通話が切れた。窓の外で、鳥が鳴いた。ひとつ、誤解が解けた。


日曜の午前9時、弁護士から短いメッセージが届いた。


〈会社の顧問弁護士から連絡がありました。総務の記録により、名義書換の受理が確認できたため、先日の書面の趣旨は、追加書類の確認依頼にとどまる、との回答です。議決権の行使資格を留保する意図はない、と〉


読み終えて、携帯を持ったまま、しばらく動けなかった。守られた、のではなかった。記録が、あったのだ。


コウジさんが、受理の日に、月次の報告に載せた。会社の公式な文書として、残していた。弁護士の問い合わせも、受理通知書の発行も、すべて、手続通りに記録していた。


紙が、残っていた。残した人がいた。


携帯を置いて、洗面所へ行き、顔を洗った。鏡に映った私の顔は、少し痩せていた。目の下に、薄い影があった。その顔で、今日、ヨウスケに会う。


昨日の夜、ヨウスケから連絡があった。


〈明日、会いたい。話したいことがある。答えを出した〉


短い言葉だった。私は、午後3時に、駅前の喫茶店を指定した。最初に、彼と向かい合って座った場所。あの雨の夜以来の、同じ店だった。


ドアの鈴が鳴る。奥の席に、ヨウスケが座っていた。紺色のコートの代わりに、薄いグレーのジャケットを着ていた。髪が短くなっていた。頬が、少しこけたように見えた。


「来てくれて、ありがとう」


立ち上がろうとした彼を、手で制した。


「座ってて」


向かいに座る。ウェイトレスが来て、私は紅茶を頼んだ。ヨウスケは、コーヒー。あの夜と、同じ。違うのは、外が、雨ではなく、薄い晴れだということだけ。


「先に、報告させて」


ヨウスケが、膝の上で手を組んだ。


「実家を、出た。先週の日曜に。会社の近くに、小さい部屋を借りた」


「そう」


「父さんに、言った。俺は、もう母さんの言うことを聞くだけの人間じゃない、って。父さんは、何も言わなかった。ただ、『好きにしろ』って」


彼は、少し笑った。力のない笑いだった。


「それと、もうひとつ。総会の件で、父さんに言った。もし、誰かに聞かれたら、俺は知っていることを、事実のまま話す、って。……カナのために、じゃない。俺が、嘘をつきたくないから」


私は、黙って聞いていた。


「俺は、変わろうとしてる。まだ、全然、変われてない。でも、方向は、決めた」


そこで、彼は、顔を上げた。


「それで、カナに、言わせてほしい。もう一度、一緒に」


「待って」


私は、遮った。声が、思ったより小さかった。それでも、彼は口を閉じた。


「先に、私に言わせて」


鞄の中から、小さな箱を取り出した。


紺色のビロードの、指輪の箱。去年の冬、彼がくれたもの。この数週間、私は、これを机の引き出しの奥にしまっていた。つけていなかった。それでも、捨てられなかった。


テーブルの上に、そっと置いた。ヨウスケの視線が、箱に落ちた。顔から、血の気が引くのが分かった。


「ヨウスケ。私、この婚約を、解消したい」


言った。はっきりと。逃げなかった。


店のBGMが、遠くで流れていた。カップの触れ合う音。隣の席の誰かの笑い声。


ヨウスケは、動かなかった。目が、箱に向いたまま、しばらく瞬きもしなかった。それから、ゆっくりと、息を吐いた。


「……うん」


それだけ、言った。


「理由を、話してもいい?」


「聞きたい」


彼の声が、掠れた。


「ヨウスケが、変わろうとしていることは、本当だと思う。実家を出たことも、父さんに言ったことも」


「うん」


「でも、それは、私のために、じゃない。ヨウスケ自身のために、でしょう」


「……うん」


私は、紅茶のカップを、両手で包んだ。紅茶の表面が、小さく揺れていた。


「私はね、傷ついてるの」


声が、思ったより低く出た。


「玄関で、10まで数えた。ヨウスケが何か言ってくれるかもしれないって。その夜の電話で、余計にこじれたと思う、って言われた。そのときは、まだ、仕方ないと思おうとした」


ヨウスケは、顔を上げた。


「でも、金曜の夜の喫茶店で、水曜にビルの名前を話したって聞いたとき。あのとき、何かが、切れた。お母さんに泣かれたから、って。私のことなのに、私に断らずに」


「……うん」


「それが原因で、私は仕事を失った。あなたが悪意でやったんじゃないことは、分かってる。分かってるのに、私の情報を、私に無断で渡されて、その結果、仕事を失ったことを、私は、まだ、飲み込めてない」


ヨウスケの唇が、震えた。


「この3週間、あなたが変わろうとしてるのは、見えた。でも、私の中の信頼は、ビルの名前を聞いたあの金曜の夜に、減ったまま、戻ってないの。戻らないものを無理に戻したまま、結婚の準備をするのは、私には、できない」


カップを両手で包み直した。


「それと、これは私の都合の話。仕事を失って、貯金も減って、来月からの生活を、自分で立て直さなきゃいけない。誰かの家族になる前に、私は私の足で、立っていたい」


ヨウスケは、何も言い返さなかった。ただ、目を閉じて、一度、深く頷いた。窓の外を、自転車が通り過ぎていく。


「だから、解消したい。ヨウスケのためじゃなくて、私のために」


「うん」


彼の声が、小さく割れた。


「それと」


私は、顔を上げた。


「好きだった」


小さな声で、言った。


「それは、本当。去年の冬に、指輪をもらったとき、嬉しかった。今でも、嘘じゃない」


ヨウスケの目から、涙が、静かに落ちた。彼は、拭わなかった。そのまま、涙を流しながら、頷いた。


「……ありがとう」


唇が、震えていた。


「俺、引き止める資格が、ない」


「うん」


「でも、カナが言ってくれたこと、全部、分かる。分かるから、余計に、辛い」


「うん」


「ごめん。ごめんな」


何度も、彼は言った。


私は、手を伸ばして、箱を彼の方へ、そっと押した。


「これは、お返しします」


「……受け取る」


ヨウスケは、箱に手を伸ばした。指が、触れたとき、少し震えた。彼は、箱を両手で包んで、それから、胸のポケットに入れた。


「ひとつだけ、聞いてもいい?」


「うん」


「あの日、玄関で。俺が花瓶を見てたとき、カナは、何を考えてた?」


不意に、そう聞かれた。私は、少し考えた。


「10まで、数えてた」


「10まで」


「10まで数えたら、ヨウスケが何か言うかもしれない、って。そう思って。1、2、3、って」


「……10は、来たのに」


「うん。来たのに」


私は、微笑んだ。泣きそうな顔で、微笑んだ。


「でも、今日、ヨウスケは、自分で言いに来た。あの日の10の続きを、ようやく」


ヨウスケは、手の甲で、目を押さえた。肩が、小さく揺れた。窓の外で、風に吹かれた枯れ葉が、舗道を転がっていた。


店を出るとき、会計を、私が先に済ませた。


「ここは、私が」


「いや、俺が」


「最後だから」


言ったあとで、その言葉の重さに、自分で驚いた。最後。


ヨウスケは、何も言わなかった。ただ、深く頭を下げた。外に出ると、午後の陽が、傾き始めていた。


「じゃあ」


「うん。元気で」


「カナも」


それだけだった。


駅の方へ歩き出す。数歩進んで、一度だけ、振り返った。


ヨウスケは、店の前に立ったまま、こちらを見ていた。右手が、胸のポケットを押さえている。私は、手を上げた。彼も、上げた。


追ってはこなかった。あの日の玄関と違って、今度は、私も、追ってほしいとは、思わなかった。


電車に乗って、窓際に座った。左手を、膝の上に置いた。薬指に、跡は、なかった。ずっと、つけていなかったから。


それなのに、そこだけが、妙に軽かった。軽すぎて、少しだけ、泣いた。


窓の外に、夕焼けが広がっていた。空の端が、薄い紫に染まっている。総会まで、あと6日。


電車の床を、靴の先で、とん、と一度だけ叩いた。


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