前夜
月曜の朝、目が覚めても、行く場所がなかった。目覚まし時計は、習慣で7時に鳴った。止めてから、天井を見た。窓の外の光が、カーテンの隙間から細く入り込んでいる。
総会まで、あと5日。起き上がって、湯を沸かした。紅茶を淹れて、立ったまま飲んだ。昨日、ヨウスケに会ったときの紅茶と、同じ銘柄だった。味が、今日は少しだけ苦かった。
午前10時、派遣元の営業所を訪ねた。ショウさんは、小さな面談ブースで、ファイルを開いて待っていた。
「今月中に始められる案件が、2件あります」
彼は、書類を2枚、私の前に並べた。
「1件目は、区の外郭団体の事務。時給1,750円で、期間は半年。2件目は、食品の卸会社の経理補助。時給1,800円で、期間は3か月。どちらも、面談は来週です」
「どちらも、条件が少し、上がっていますね」
「はい。前の派遣先の件が、うちの中で整理されたので」
ショウさんは、少し言いにくそうに続けた。
「あの苦情の件、記録と、書面が揃っていたので、社内の判断も、あなたの勤務に問題はなかった、ということで固まりました。次の紹介で、不利に扱われることはありません」
「ありがとうございます」
「それと、今週だけ、単発のお仕事があります。倉庫の仕分けで、1日7,000円。火曜と木曜なら入れます」
「やります」
迷わなかった。7,000円。昼にはお弁当を持っていけば、そのままほとんど残る。総会の週に、立ちっぱなしの仕事をするのは、体には良くないだろう。それでも、収入のない日を、1日でも減らしたかった。
「面談の日程は、あとでメールします。履歴書は、前回のものでいけます」
営業所を出て、バス停まで歩いた。冷たい風が、コートの裾を揺らす。
火曜の午後、単発の仕事を終えて、トクさんの家を訪ねた。柿の木の実は、もう半分、落ちていた。庭の隅に、熟した橙色が、いくつか土の上に転がっている。
玄関を開けてくれたトクさんは、前に会ったときより、少し痩せて見えた。それでも、目は、鋭かった。
「入りなさい」
仏壇のある和室で、向かい合って座った。線香の匂いが、薄く漂っている。
「持株会の、意向調査の結果が出た」
トクさんは、膝の上に置いた紙を、一度、見下ろした。
「会員は、64人。回答は、58人」
「はい」
「売却案に反対、39人。賛成、8人。判断を、理事長のわしに任せる、というのが、11人」
39人。8人。11人。紙の上の数字が、顔を持っている気がした。サチさんの顔。リクさんの顔。名前も知らない、湯気の向こうの人たち。
「したがって、持株会は、総会で、反対に投票する」
トクさんは、はっきりと言った。
「わしは、あんたに頼まれて動いたのではない。会員に聞いて、その結果に従った。そこは、誤解しないでくれ」
「はい。もちろんです」
「それと」
彼は、少し間を置いた。
「ゴロー常務が、昨日の夜、持株会の会員向けに、説明の場を設けた。会社の側から、条件の説明があった」
私は、息を止めた。
「何を、とは言わん。あんたは、言えないことがあるのだろう」
「……はい」
「わしも、聞いた。会員も、聞いた。会社が、自分の口で話した。それが、よかったと思う」
ゴローさんが、動いたのだ。
「ゴローさんは、何と」
「それは、わしからは言えん。ただ、泣いてる者もおった」
トクさんは、湯呑みを取って、一口だけ飲んだ。
「言いたかっただろう。わしにも」
「言いたかったです。何度も」
トクさんは、静かに、頷いた。
「フミさんも、言わないことで、人を守る人だった」
帰り際、玄関の外で、トクさんは、ぽつりと言った。
「ノブが、さっき電話をよこした」
「ノブさんが」
「書面は書かんが、総会では、反対に入れる、と。契約が見直されようが、仕方ない、とな」
「ありがとうございます」
「礼は、ノブに言いなさい。総会の後でいい」
トクさんは、背中を向けて、家の中へ戻っていった。
水曜の午後6時。私は、いつものように、工場のベンチに座っていた。リクさんは、この日、遅番だった。搬入口の向こうから、洗浄の水の音が聞こえてくる。
日が、すっかり短くなっていた。6時を過ぎると、辺りはもう、群青色に沈み始める。
足音が、した。土を踏む、重い革靴の音。
顔を上げると、門の前に、背広の上にコートを羽織った男の人が、立っていた。タダシさんだった。1人だった。秘書も、顧問の弁護士も、連れていない。
「ここにいると、聞いた」
彼は、低い声で言った。
「少し、座ってもいいか」
私は、ベンチの端に寄った。タダシさんは、ゆっくりと、反対の端に腰を下ろした。錆びた鉄のベンチが、軋んだ。間に、人ひとり分の隙間。
この場所で、ミチヨさんは、32年前に泣いた。この場所で、私は、塩を洗い流した。しばらく、2人とも、何も言わなかった。搬入口の湯気が、夕闇の中で、白くのぼっていく。
「この工場には、子どものころ、よく来た」
ようやく、彼は言った。
「夏休みに、父に連れてこられて、事務所で宿題をした。漬物の匂いが、体に染みついてな。学校で、くさいと言われた」
微かに笑う声がした。
「それでも、嫌いではなかった」
「はい」
「あなたに、頼みがある」
タダシさんが、こちらを向いた。街灯の光が、彼の顔の半分を照らした。
「取引を、したい」
私は、背筋を伸ばした。
「聞きます」
「総会の議案を、取り下げる」
一瞬、言葉の意味が、頭に入ってこなかった。
「第2工場の事業譲渡の議案を、土曜の総会の前に、私が、取り下げる。買い手には、私が頭を下げる。違約の話は、私が引き受ける。売却は、いったん、白紙に戻す」
心臓が、強く鳴った。取り下げる。私が、望んでいたことだ。売却が、なくなる。64人の人たちが、買い手の手に渡らずに済む。
「その代わり」
タダシさんは、続けた。
「あなたは、総会で、発言しない。再建案も、私への質問も、出さない。私の社長続投にも、異議を唱えない。議決権の委任状を、私に預けてほしい。……フミさんが、そうしてくれたように」
4億円も、取締役の席も、名義の書面も。入口が違うだけで、出口は、同じだった。私を黙らせる。
「総会が荒れるのは、会社の恥になる。取引先も、銀行も、見ている。外に出したくないことが、あまりに多い」
彼は、疲れた声で言った。
「それを、避けたいんだ。あなたも、それが望みのはずだろう。売却がなくなれば、それでいい」
頭の中で、数字が回った。売却がなくなる。64人が、今の場所に、残れる。
でも、その先は。
冷蔵庫は、今夜も唸っている。圧縮機は、いつか、また止まる。借入は、12億円のまま。
私は、ゆっくりと、口を開いた。
「ひとつ、伺ってもいいですか」
「ああ」
「売却を取り下げた後の、資金の当ては、おありですか」
タダシさんの顔が、わずかに強張った。
「……銀行に、頭を下げる」
「銀行は、新しい経営体制と、具体的な返済計画を見る、と聞いています。社長が続投で、計画がまだ白紙のままでは、審査は始まらないのではないでしょうか」
「どこで、それを」
「一般論として、伺いました」
沈黙。彼は、膝の上で、拳を握った。
「やり方は、これから考える」
「それは、正直なお答えだと思います」
私は、言った。
「でも、取り下げた後の計画がない、というなら、これは、問題を一時的に先送りするだけです。次に冷蔵庫が止まったとき、また同じ議論をすることになります」
「だから、時間を稼ぐ」
「時間を稼いで、何をするんですか」
タダシさんは、答えなかった。
「それと」
私は、続けた。
「もし、取り下げるのなら、私に黙っていてほしい、という条件では、お受けできません」
「どうして」
「工場の人たちに、何も知らされないまま、決まるからです」
声が、少しだけ、震えた。
「私は、約束を守って、会社の資料の内容を、誰にも話していません。守秘の誓約を、破りたくないから。でも、だからこそ、会社の側から、皆さんに、説明してほしいんです。何が悪くて、何を直さなければいけないのか。取り下げるなら、その理由を、皆さんの前で」
「恥を、かけと言うのか」
「恥だと思います」
私は、はっきり言った。
「でも、隠しておく方が、もっと大きな恥になると思います。一度ついた噂は、簡単には消えません。祖母の名前に、何があったか。あなたは、ご存知のはずです」
タダシさんは、目を伏せた。風が、ベンチの足もとを吹き抜けた。枯れ葉が、ひとつ、2人の間の隙間を、転がっていった。
「取り下げは、社長であるあなたの意思で、総会の場で、皆さんの前でしてください」
私は、言った。
「それなら、私は、賛成します。取り下げを、拍手で迎えます。再建案も、その後の話として、取締役会で一緒に考えたい」
「それでは、あなたの発言を、封じることにならない」
「はい。封じません」
「私の続投も、認めないと」
「社長を誰にするかは、取締役会が決めることです。私が、株主として、取引で決める話ではありません」
長い沈黙が、続いた。搬入口の灯りが、2人の影を、地面に長く伸ばしていた。
「……名義の書面のことだが」
タダシさんが、ぽつりと言った。
「あれは、私の名前で出た。顧問の弁護士に任せたのは、私だ。誰の入れ知恵だったかは、言わない。ただ、責任は、私にある」
私は、驚いて彼を見た。
「結果的に、会社の記録が、あなたの資格を証明した。私の書面は、紙屑になった」
彼は、自嘲するように笑った。
「コウジは、私に、何も言わなかった。ただ、受理の記録を、淡々と出した。……私は、あの男に、33年、何を見ていたんだろうな」
「社長さん」
「いや」
彼は、首を振った。立ち上がって、コートの襟を直した。
「分かった。取引は、なしだ」
「はい」
「総会で、決着をつける」
門に向かって歩き出して、一度だけ、振り返った。
「負けても、知らんぞ」
「はい」
私は、微笑んだ。
「勝ちたかったわけでは、ありませんから」
彼は、何か言いかけて、やめた。そのまま、夕闇の中へ、歩いていった。革靴の音が、遠ざかる。
ベンチの上に、1人、残った。膝が、がくがくと震えていた。口の中が、からからに乾いている。
断ってしまった。売却を取り下げる、という申し出を。暗闇の中で、搬入口の向こうから、冷蔵庫の低い唸りが聞こえた。私は、両手で顔を覆った。手のひらの下で、涙が溢れた。
やがて、足音が近づいてきた。顔を上げると、遅番の作業を終えたリクさんが、通用口の前で立ち止まっていた。
何も、言わなかった。彼は、ゆっくりと近づいて、ベンチの端に座った。それから、胸ポケットから、タオルを出した。
笑ってしまった。泣きながら。
「また、タオルですか」
「いつも、入れてます」
彼は、真顔で言った。
「今夜は、聞きません。何があったかは」
「……ありがとう、ございます」
タオルに顔を埋めた。洗剤と、かすかな酢の匂いがした。祖母の作業着の匂いに、似ていた。冷蔵庫の音が、低く、続いていた。
金曜の夜、総会は、翌日に迫っていた。木曜の単発の仕事の疲れが、体のあちこちに残っていた。倉庫の仕分けで、腰が痛い。それでも、頭は冴えていた。
机の上に、発言の原稿を広げていた。弁護士と何度も直した、5分ほどの文章。数字は、会社が総会で公式に出すもの以外、使わない。守秘の約束の範囲を超えないように、言葉を選んだ。
午後7時を回ったころ、ドアの外で、気配がした。インターホンは、鳴らなかった。ただ、廊下の床板が、ぎしりと軋んだ。誰かが、立っている。
のぞき穴から外を見て、息を呑んだ。ミチヨさんだった。
濃紺のコートを着て、両手で風呂敷包みを抱えている。髪が、少し乱れていた。うつむいたまま、動かない。
何分、そこに立っていたのか。私は、少し迷ってから、鍵を開けた。
ドアが開く音に、ミチヨさんが、びくりと肩を揺らした。
「……ごめんなさい。突然」
声が、小さかった。
「住所は、去年の冬、ヨウスケが結納の話をしたときに書いた紙で、前から知っていたの。使うつもりは、なかったのよ。迷惑なのは、分かっているわ」
「どうぞ」
私は、廊下に出て、後ろ手に扉を閉めた。部屋に上げるつもりは、なかった。
ミチヨさんは、風呂敷包みを、胸の前で抱え直した。
「これを、お返ししに来たの」
包みを開くと、中から、あのガラスの瓶が出てきた。洗われて、乾いて、蓋まで磨かれていた。
「カナさんに、お返しする、と決めてから、何度も、言葉を考えたの。でも、どの言葉も、使えなくて」
彼女は、瓶を、両手で差し出した。
「だから、今日は、これだけ」
受け取った。ガラスの冷たさが、掌に伝わった。
「ありがとうございます」
「それと」
ミチヨさんは、顔を上げた。目の下に、深い影があった。眠れていないのだ、と分かった。
「フミさん」
唐突に、彼女は、その名前を呼んだ。私に向かってではなかった。廊下の天井のあたり、どこにもいない誰かに向かって、呟くように。
「フミさんに、お礼が、言えなかったの。32年間」
声が、割れた。
「あの日、ベンチで、泣いていた私に、浅漬けをくれた人に。名前も知らなかったから、探しもしなかった。探そうともしなかった。……お礼を言う前に、その人の孫に、私は」
そこで、言葉が詰まった。唇が、震えていた。
私は、何も言わなかった。しばらくして、ミチヨさんは、深く息を吸って、背筋を伸ばした。
「明日、総会に行くわ。私の分の株は、私の意思で、決める」
「はい」
「あなたに、何かをお願いしに来たのではないの。それだけは、信じて」
彼女は、一礼した。そして、背中を向けて、階段の方へ歩いていった。靴音が、段を降りる音に変わって、やがて、聞こえなくなった。
瓶を抱えたまま、私は、しばらく、廊下に立っていた。謝罪では、なかった。
夜の11時。原稿を片付けて、明日着る服を、ハンガーに掛けた。紺色の上着と、飾りのないスカート。最初の日に着た、あのスカートではなかった。あのスカートは、クリーニングに出したまま、一度もはいていない。
布団を敷いて、枕元に、あの手帳を置いた。ゴムバンドを外す。
ページを、最後から2枚目まで繰った。出資、増資、領収。几帳面な字が続く。
そして、端の折れた、最後の1枚。指が、一度、止まった。
深呼吸をした。開いた。
そこには、数行だけ、鉛筆の字があった。これまでの几帳面さとは違って、少し、震えていた。入院してからの字だ、と分かった。
〈カナが、浅漬けを持ってきてくれた。
ひとくち食べたら、塩が、ちょうどよかった。
もう、教えることは、ない。
手で決められる子に、なった。
株のことは、あの子が決めること。
工場の冷蔵庫の音を、ときどき、夢に見る〉
それだけだった。日付は、なかった。署名も、なかった。
読み終えて、もう一度、読んだ。守れとも、売るなとも、書いていなかった。
最後の行に、涙が落ちた。鉛筆の字が、少しだけ、にじんだ。慌てて拭った。
あの日のことは、覚えている。塩を、小さじ半分、減らした日だった。祖母は、黙って食べて、「うん」と頷いただけだった。それだけで、私は、嬉しくて、帰り道で泣いた。その「うん」の後ろに、これが、あった。
手帳を閉じた。ゴムバンドを留めて、胸に抱いた。
明日は、総会。電気を消した。
暗闇の中で、アパートの小さな冷蔵庫が、ジー、と鳴っていた。眠れないと思っていたのに、気づくと、目を閉じていた。




