臨時総会
土曜の朝は、冷えていた。午前8時30分に、本社の前に着いた。白い息が、ビルの玄関の前で、すぐに消えた。空は、薄い雲に覆われていて、風が、道の砂を転がしている。
玄関の向こう側の歩道に、人が立っていた。10人、20人。作業着の上にコートを羽織った人もいれば、普段着の人もいる。皆、黙っていた。誰も旗を持たず、声も上げず、ただ、本社の入口を見上げている。
工場の人たちだった。
一般の従業員が傍聴できる席は、設けられていない。会場に入れるのは、株主と、役員、そして事務局だけだ。それでも、何かを待つために、来たのだ。
その中に、白い帽子はなかった。代わりに、紺色のコートを着た背の高い人が、少し後ろに立っていた。リクさんだった。目が合った。彼は、何も言わず、軽く頭を下げた。私も、頷いた。
玄関を入ると、受付の机の前に、コウジさんが立っていた。
「おはようございます」
いつもと同じ、落ち着いた声だった。
「本人確認を、お願いします」
身分証を見せ、議決権行使書を渡した。コウジさんは、名簿の自分の控えと、一つひとつ照らし合わせて、小さな印を付けた。
「3階の大会議室です。お席は、前から3列目」
「ありがとうございます」
エレベーターで3階に上がる。廊下の突き当たりの扉が開いていて、中から、人のざわめきが聞こえた。
大会議室は、思ったより広かった。長机が、コの字型に並べられ、正面の一段高い場所に、議長席と、取締役席が置かれている。壁際には、古い額縁に入った創業者の写真が掛かっていた。中央に座る、先代のマサオさんの姿。
席に着くと、すぐ隣の席に、トクさんが座った。その向こうに、ヤスさん、ハルさん。その後ろに、ノブさんが、背中を丸めて座っている。目が合うと、ノブさんは、気まずそうに会釈した。私も、深く頭を下げた。
反対側の席には、カワ商店の社長と、ハマ運輸の代表。元専務の遺族の代理人。そして、議長席の斜め前の長机に、ミチヨさんが、1人で座っていた。
ミチヨさんは、黒に近い紺色の服を着て、膝の上で両手を重ねていた。目は、どこにも向いていなかった。
取締役席には、テツ専務。ゴロー常務。ケン取締役。ゴローさんは、初めて見る顔だった。60代の、肩幅の広い人で、日焼けした顔に、白髪が混じっている。目が合うと、ほんの一瞬、眼差しが、深く沈んだ。祖母の孫として、私を見たのだと分かった。
部屋の後ろの壁際に、事務局の席があった。コウジさんが入ってきて、そこに座った。その隣には、ヨウスケが、ネクタイ姿で立っていた。総会の運営の手伝いを、社員が交代でしている。ヨウスケは、今日の当番だった。
私と目が合うと、彼は、一瞬だけ視線を逸らして、また戻した。小さく、頷いた。
午前10時。タダシさんが、議長席に着いた。
「ただ今より、臨時株主総会を開会いたします」
低く、よく通る声だった。
「本日の出席株主は、書面による議決権の行使を含め、議決権のある株主全員です」
ざわめきが、一度に静まった。全員、という言葉が、部屋の空気を重くした。100%。書面で預かった分も含めて、議決権は、全てそろっている。
「議事に入ります。第1号議案、事業譲渡契約承認の件。第2工場の漬物製造事業を、サンキョウ食品に譲渡するものです。取締役会の提案内容について、テツ専務から、ご説明いたします」
テツ専務が、立ち上がった。50代後半の、整った顔の人だった。背広の袖口から、高そうな時計が覗いている。手元の資料を、ほとんど見ずに話し始めた。
「当社の第2工場は、築52年を経過しております。冷蔵設備と排水設備は、更新の時期を、大きく超えています。この夏には、冷蔵設備が3日間停止し、約1,800万円の損失が発生しました」
彼の声は、滑らかで、説得力があった。
「更新には、およそ3億円が必要です。一方、当社の借入は12億円。毎年1億2,000万円の返済があり、第2工場の営業利益は、直近2年、ほぼ横ばいです。追加の借入には、限界があります」
数字が、正確に並んでいく。嘘は、ひとつもなかった。私が閲覧したものと、同じだった。
「譲渡価額は9億円。この資金で、借入を大幅に圧縮し、残る事業の財務を安定させる。それが、取締役会の提案の趣旨です」
彼は、深く一礼して、席に戻った。パラパラと、拍手が起きた。賛成の側から、ごく小さく。
「ご質問は、ございますか」
タダシさんが、見渡した。最初に手を挙げたのは、トクさんだった。
「持株会理事長のトクです」
太い声が、部屋に響いた。
「従業員は、譲渡の後、どうなるのか。それを、会社の口から、聞きたい」
部屋が、静まった。
タダシさんは、一瞬、テツ専務を見た。テツ専務は、目を逸らさずに、小さく首を横に振った。タダシさんは、視線を戻した。
しばらく、沈黙があった。やがて、彼は、ゆっくりと口を開いた。
「譲渡の日から1年間は、現在の従業員の雇用を、買い手が引き継ぐ。条件書には、そう記載されている」
ざわめきが、起きた。
「1年経過後は」
トクさんが、重ねた。
「買い手の判断による」
タダシさんは、はっきりと言った。
「つまり、全員の雇用が、1年を超えて保証されるものではない。これが、条件書の内容だ」
部屋の空気が、変わった。賛成の側の席から、小さな息が漏れた。反対の側からは、低い唸りのような声が上がった。
私は、膝の上で、手を握りしめた。守秘の約束を破らずに、この言葉を聞けた。
トクさんは、深く頷いて、席に着いた。次に、私が手を挙げた。
「株主の、カナです」
部屋の目が、一斉にこちらを向いた。心臓が、強く打った。立ち上がると、脚が、わずかに震えた。それでも、声は、出た。
「2点、質問させてください」
タダシさんが、頷いた。
「1点目。この事業譲渡に、仲介会社が関わっているかどうか。関わっているとすれば、その選定の経緯を、ご説明ください」
テツ専務が、立ち上がった。
「仲介会社は、アークM&Aです。選定は、私が行いました。複数の候補から、実績を基に決定しました」
「報酬は」
「成功報酬として、譲渡価額の3%です」
部屋が、再びざわめいた。2,700万円。会社の口から、公に出された数字だった。
「ありがとうございます」
私は、一礼した。
「2点目。この譲渡を行わなかった場合、設備の更新に必要な資金は、どのように手当てするお考えですか。会社として、検討されたことがあれば、教えてください」
今度は、タダシさんが、答えた。
「必要額は3億円。資金手当ては、借入の増額、資産の売却、補助制度の利用などを、検討した。借入の増額は、現状では難しい。資産の売却については」
彼は、言葉を切った。
「第1工場の向こうの空き地の売却を、検討したことがある。先代の記念の土地という意見が強く、見送った」
「ありがとうございます」
私は、頷いた。
「それでは、発言の時間を、いただけますか」
「どうぞ」
手元の原稿を、一度、見た。それから、顔を上げて、閉じた。最後の一文だけ、覚えていた。
「株主の、カナです。祖母のフミが、この会社の第2工場で、38年働きました。この春に亡くなり、私が、祖母の株を相続しました」
部屋が、静まった。
「私は、派遣で事務をしてきた人間です。経営の経験は、ありません。今日ここに立っているのは、経営者としてではなく、1人の株主として、お願いをするためです」
声が、少しずつ、安定していった。
「まず、申し上げます。会社の借入も、設備の老朽化も、テツ専務がご説明された通りだと、私も受け止めています。この会社は、本当に厳しい状況にあります。売却を提案された方々は、会社を残したくて、考えた。その気持ちを、私は疑いません」
テツ専務が、表情を動かさずに、私を見ていた。
「それでも、この議案には、反対します。理由は、2つあります。ひとつは、64人の従業員の雇用が、1年しか約束されていないからです。もうひとつは、売却以外の道を、まだ、十分に試していないからです」
一呼吸、置いた。
「その、売却以外の道について、お願いがあります。私は経営者ではありませんので、決める立場にはありません。ですが、可能性を3つ、取締役会に検討していただきたい」
「ひとつ。使われていない空き地の売却による、借入の圧縮。これは、取締役会の判断が必要で、すぐにできることではありません。でも、返済の負担が軽くなる分、銀行の審査では、評価されると聞いています」
銀行、という言葉に、ケンさんが、わずかに顔を上げた。
「ふたつ。設備の更新に、融資と、国や県の支援制度を併用できないか。これは、会社が銀行に申し込み、審査を受ける話です。総会で決まれば自動的に通る、ということではありません。時間もかかります。その覚悟で、始めていただきたいです」
「みっつ。工場の中で、すぐに取り組めること。規格外の野菜が、毎日、廃棄されています。味は同じです。それを小さな袋にして、工場の前で売ることはできないか。そして、手で塩を決められる人が、少量ずつ作る場所を、工場に残せないか」
部屋の後ろの方から、誰かが小さく息を呑む音がした。
「これらで、全てが解決するとは、思っていません。冷蔵庫の部品が壊れるのを、止める力は、私にはありません。それでも、売る前に、できることがあると、思うのです」
私は、手元の原稿を握りしめた。
「最後に、私自身のことを、申し上げます。私は、取締役にはなりません。報酬も、受け取りません。持っている株は、売りません。祖母が守った会社の株主として、これからも、そこにいます。それだけです」
部屋に、深い静寂が降りた。
「私は、勝ちたくて、ここにいるのではありません」
言った。
「工場の湯気が、来年の朝も、4時半に、上がっていてほしい。それだけです」
頭を下げた。しばらく、誰も、動かなかった。
やがて、後ろの席から、パチパチ、と手を打つ音がした。1人、2人。それが、少しずつ広がって、部屋の中に、静かな拍手が満ちた。賛成の側の席の人たちも、手を叩いていた。カワ商店の社長が、ゆっくりと手を打つのが見えた。
顔を上げると、涙で視界が滲んでいた。
席に座ると、トクさんが、横で、小さく呟いた。
「よく、言った」
質疑は、続いた。カワ商店の社長が、手を挙げたのは、そのあとだった。
「カワ商店の者です」
嗄れた声が、部屋に響いた。
「ひとつ、お聞きしたい。ここ数週間、私のところに、ある話が回ってきました。筆頭株主は、派遣上がりの若い女で、先代の遺産を目当てに、会社に入り込んだ人間だと。……その話は、事実ですか」
空気が、張りつめた。ミチヨさんの肩が、小さく震えた。テツ専務は、まっすぐ前を向いたまま、動かなかった。
タダシさんが、口を開こうとした。そのとき、後ろの壁際から、声が上がった。
「議長」
ヨウスケだった。彼は、事務局の席の隣で、真っ直ぐに立っていた。顔が、真っ青だった。
「一言、よろしいでしょうか。私は、役員でも、株主でもありません。ただ、事実を知っています」
部屋中の視線が、後ろへ向いた。
タダシさんは、息子の顔を、じっと見た。長い、沈黙だった。
「……許可する」
低く、彼は言った。
ヨウスケは、一歩、前に出た。両手を、体の脇で握りしめている。
「営業部の、ヨウスケです。社長の、息子です」
声が、震えていた。それでも、続けた。
「先ほどの話は、事実ではありません。私が知っていることを、申し上げます」
彼は、息を吸った。
「約2か月前の、土曜日の午前11時。私の実家の玄関で、私の母が、塩を入れた小皿を持って、筆頭株主の方を迎えました。その方は、結婚の挨拶に来た、私の婚約者でした。母は、その方に、塩をまきました」
部屋が、凍りついた。
「私は、何も言いませんでした。靴箱の上の花瓶を、見ていました」
ミチヨさんが、顔を伏せた。膝の上の手が、白くなっていた。
「その後、母が、その方の勤務先に、2回、電話をしました。1回目は名乗らずに。2回目は、家族のふりをして、契約の更新の有無を聞き出しました。それがきっかけで、その方は、派遣の仕事を失いました」
「ヨウスケ」
タダシさんが、静かに呼んだ。
「続けなさい」
「さらに、母は、工場の事務の方に、その方の祖母の名前を尋ね、先代に取り入った人だという話を、広めました。母は、その方の祖母が、この会社の最大の株主だとは、知りませんでした。知らないまま、祖母の名誉を傷つける話を、広めたのです」
彼は、うつむいた。それから、また、顔を上げた。
「その方は、一度も、会社を傷つける言葉を、口にしませんでした。念書への署名も、求められましたが、断りました。お金も、断りました。取締役の席も、断りました。私は、それらを、すべて、近くで見ていました」
声が、掠れていた。
「私は、何もしなかった人間です。何もしなかった人間が、こうして話すのは、卑怯かもしれません。でも、嘘を、つきたくなかった。以上です」
彼は、深く、頭を下げた。部屋の誰も、動かなかった。ヨウスケは、そのまま、数秒、頭を下げ続けていた。それから、後ろに下がって、元の位置に戻った。肩が、小さく震えていた。
私は、目を閉じた。ありがとう、と、心の中で、言った。
タダシさんが、ゆっくりと、口を開いた。
「ご質問に、お答えします」
声が、低く、乾いていた。
「事実では、ありません。今、息子が述べた通りです」
彼は、議長席の机の上に、両手を置いた。
「それと、私から、付け加えたい。筆頭株主が相続されたフミさんの持株は、フミさん自身の出資と、増資の引受けと、先代からの生前の贈与によるものだ。工場が火事になった翌月に、貯金を全て出資されたことも、その記録を、私は、先日、確認した」
部屋に、ざわめきが広がった。
「先代から、フミさんに助けられたとは聞いていた。だが、貯金を全て出したという具体は、先日、記録を見るまで、知らなかった。私は、母の言葉を信じて、フミさんが先代に取り入ったと、思い込んでいた。それは、間違いだった」
彼は、目を閉じた。
「また、取引先に、事実でない話が伝わったことも、私は聞いている。会社の役員の1人が、関わったと。……その責任は、社長の私にある」
テツ専務が、がたりと椅子を鳴らして、立ち上がった。
「兄さん」
「座りなさい」
タダシさんは、静かに言った。
テツ専務は、何か言いかけて、唇を噛んだ。そのまま、ゆっくりと、腰を下ろした。顔が、赤黒く染まっていた。
カワ商店の社長が、深く頭を下げた。
「ありがとうございました。納得しました」
採決は、午前11時30分に行われた。議決権行使書と、挙手で確認する形だった。事務局が、一人ひとりの席を回って、投票用紙を集める。
私は、反対に丸をつけた。ペンを持つ手が、静かだった。迷いは、なかった。
隣のトクさんも、迷わず記入した。持株会の20%と、個人の4%。ヤスさんも、ハルさんも、ノブさんも。順に、投票用紙が集められていく。
前の席のミチヨさんが、用紙を持ったまま、固まっていた。議長席のタダシさんは、妻の席を、見なかった。見ないふりをしているのが、分かった。
ミチヨさんは、ペンを握ったまま、長い間、動かなかった。やがて、何も書かないまま、用紙を2つに折って、事務局の箱に入れた。
集計は、コウジさんと、事務局の数人が行った。部屋の隅の机で、数字を確認していく。静かな時間が、過ぎた。
ようやく、コウジさんが、紙を持って、議長席へ歩いた。タダシさんが、紙を受け取り、目を落とした。
しばらく、それを見つめていた。それから、顔を上げた。
「結果を、発表します」
部屋が、静まり返った。
「賛成、議決権の32%。反対、62%。棄権、6%」
数字が、静かに響いた。
「第1号議案は、否決されました」
一瞬、何も聞こえなかった。
それから、後ろの方で、誰かが、小さく息を吐いた。次に、すすり泣くような声。それが、少しずつ、部屋に広がっていった。
否決。売却が、止まった。
隣で、トクさんが、拳を膝に押しつけて、俯いていた。肩が、小刻みに揺れている。
手のひらが、汗でびっしょり濡れているのに、気づいた。隣のトクさんが、泣き笑いの顔で、私の肩を、大きな手で叩いた。
「やったな」
声が、裏返っていた。私も、つい、笑ってしまった。
タダシさんが、再び、口を開いた。
「議長として、申し上げる」
部屋が、再び静まった。
「本日の議決を、取締役会は、受け入れる。サンキョウ食品への譲渡は、進めない。買い手には、私から事情を伝える」
彼は、一度、息をついた。
「そして、私は、社長を辞任する」
どよめきが、起きた。
「この件の責任は、私にある。後任は、取締役会で選ぶ。それまでは、私が責任をもって、引き継ぎを行う」
テツ専務が、顔を伏せたまま、動かなかった。
彼は、ケン取締役を見た。
「ケン取締役、補足を」
ケンさんが、立ち上がった。白髪の、穏やかな顔つきの人だった。
「取締役会を代表して、申し上げます」
低い、落ち着いた声だった。
「本日、売却案は否決されました。取締役会には、代替の再建策を、速やかに検討する責任があります。ただし、融資は、銀行の審査を経て決まるものです。総会の議決で、自動的に成立するものではありません。審査には、時間がかかります。経営体制と、具体的な計画が、前提となります」
彼は、私の方を、一瞬、見た。
「株主の方から、いくつかのご提案がありました。取締役会として、正式に、検討いたします。実行するのは、株主ではなく、取締役会の責務です。そのことは、はっきりと、お約束します」
続いて、ゴロー常務が、立ち上がった。肩幅の広い体が、ゆっくりと伸びた。日焼けした顔に、涙の筋が、光っていた。
「ゴローです」
しわがれた声だった。
「私は、取締役会で、この議案を総会に諮ることに、賛成しました。株主の皆さんに決めてもらうべきだ、と考えたからです。会社の状況は、よく知っているつもりです。だが」
彼は、言葉を切った。
「私は、第2工場の出身です。若いころ、フミさんに、仕事を教わった。朝の4時半。誰より早く来る人でした」
部屋が、深く静まった。
「冷蔵庫の部品交換は、来週の月曜に、手配します。緊急の修理として。総会の議決を待たずに、やっておくべきだった」
彼は、深く、頭を下げた。
「遅くなって、すまなかった」
誰かが、嗚咽を漏らした。
「以上をもって、臨時株主総会を閉会いたします」
タダシさんの声が、静かに響いた。
閉会の宣言とともに、部屋の中の空気が、一気に動いた。椅子を引く音。誰かが、誰かの肩を叩く音。低い話し声。
私は、席に座ったまま、動けなかった。前の席で、ミチヨさんが、肩を落としていた。議長席のタダシさんは、何も言わず、机の一点を見つめている。
ヨウスケが、事務局の隣から、こちらを見ていた。目が合った。彼は、ほんの少しだけ、頷いた。
私も、頷いた。
本社の玄関を出ると、風が、頬を刺した。雲が切れて、冬の薄い陽が、街路に差し込んでいた。
歩道の向こう側に、工場の人たちが、まだ、立っていた。さっきより、人数が増えている。30人、40人。顔を上げて、玄関を、じっと見ている。
最初に出てきたのは、トクさんだった。太い腕を振って、道を渡った。人々の中に、割って入っていく。何かを言うのが、遠くから見えた。
口の動きは、読めなかった。ただ、一瞬の沈黙のあと。歓声とも、泣き声ともつかない音が、道を満たした。
誰かが、誰かに抱きついた。帽子を投げた人もいた。「ばんざーい」と誰かが叫ぶと、つられてあちこちから声が上がり、どっと笑いが広がった。
サチさんが、杖を握りしめたまま、両手で顔を覆って、しゃがみ込んでいた。周りの人たちが、背中をさすっている。
私は、玄関の階段の途中で、足が止まった。祖母が、毎朝、立っていた工場の、同じ人たちだった。
その中から、背の高い人が、こちらを見ていた。リクさんだった。
人々の輪から少し離れて、道の端に立っている。顔は、笑っていなかった。泣いてもいなかった。ただ、じっと、私を見ていた。彼は、帽子を被っていなかった。コートの襟を立て、両手をポケットに入れて、私を見ている。
近づいては、こなかった。
私は、階段の上から、彼に、深く頭を下げた。彼は、ゆっくりと、片手をポケットから出した。そして、ほんの少し、持ち上げた。
それだけだった。風が、ふたりの間を、吹き抜けた。
気づくと、私は、笑っていた。頬は、濡れたままだった。
遠くから、微かに、機械の唸りが聞こえた気がした。幻聴だったのかもしれない。第2工場は、ここから歩いて10分以上かかる。それでも、確かに、聞こえた。
動いている。まだ、動いている。
私は、階段を降りた。




