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婚約者の母に塩をまかれた派遣社員の私は、その家の会社の筆頭株主でした。  作者: ぽんちょ。


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15/15

ベンチの浅漬け

総会の2日後の月曜、私は、午前4時に目覚ましをかけた。


外は、まだ真っ暗だった。コートの襟を立てて、前の晩に呼んでおいたタクシーに乗った。片道2,300円。家計のノートに、一度だけの贅沢、と書くことにした。工場の少し手前で降りて、街灯の下を、白い息を吐きながら歩く。


第2工場の門の前に着いたのは、4時25分だった。搬入口の灯りが、すでに点いていた。大きな扉が、少しだけ開いて、中から、湯気が細く上がっている。お酢と、野菜と、洗浄水の匂いが、暗い道に流れ出していた。


4時30分。


作業着の人たちが、ひとり、またひとりと、門をくぐっていく。白い帽子、白いエプロン、ゴムの長靴。誰も、大きな声を出さない。ただ、すれ違うたびに、「おはようございます」と、短く挨拶を交わしていた。


祖母が、38年、毎朝、見ていた景色だった。私は、門の脇のベンチに腰を下ろして、それを見ていた。


しばらくして、白い帽子の人が、通用口から出てきた。リクさんだった。


彼は、私に気づいて、足を止めた。何か言いかけて、やめて、軽く手を上げた。私も、手を上げた。声には、出さなかった。


彼は、そのまま、搬入口の横の冷蔵庫室の前に歩いていった。扉の前で、一度、立ち止まった。


小さく、口が動いた。おはよう、と言ったのだと、分かった。


7時を過ぎたころ、門の前にトラックが止まった。荷台に、「冷凍機器サービス」と書かれている。作業服の男の人が3人降りてきて、台車に、大きな金属の部品を載せた。圧縮機の交換だった。


ゴローさんが、約束した通りに、手配したのだ。融資や再建の結論を待たずにできることを、先にやったのだ。


台車が、搬入口の中へ消えていく。しばらくして、中から、金属を叩く音と、人の声が聞こえてきた。


修理は、昼前に終わった。冷蔵庫の唸りが、一瞬、止まって、また、動き出した。さっきより、少しだけ、静かになった気がした。


それが、融資でも、再建でもないことは、分かっていた。壊れかけた部品を、ひとつ替えただけだ。他の部分は、まだ古い。次に何が壊れるかは、分からない。


それでも、今日、湯気は、上がっていた。私は、ベンチから立ち上がって、帰りの電車に乗った。


総会から9日後の月曜の夜、コウジさんから、電話が来た。


「今日の取締役会で、決まったことをお伝えします」


声は、相変わらず落ち着いていた。ただ、どこか、肩の荷が少し軽くなったような響きがあった。


「タダシ社長の辞任が、正式に受理されました。後任が決まるまで、ゴロー常務が、社長代行を務めます。タダシ氏は、取締役として、次の改選まで残り、買い手との後始末と、旧来の取引先への説明を担当します」


「サンキョウ食品は」


「社長から直接、事情を説明しました。先方は、残念だが、了解する、と。仲介会社との契約も、終了の手続に入りました」


売却は、完全に白紙に戻った。


「取引先に伝わった誤った話については、会社名の訂正文を、カワ商店とハマ運輸に送りました。テツ専務には、取締役会が事情の説明を求めています。結論は、これからです」


「それと、再建の件です」


彼は、続けた。


「取締役会は、あなたが総会で述べられた3つを含めて、再建策の検討を始めました。空き地の評価額の算定。設備更新の資金の見通し。規格外の商品化の試験」


「はい」


「銀行には、ゴロー代行から、事前の相談を申し入れました。正式な融資の申込みは、経営計画がまとまってからです。審査の結果が出るのは、早くても、年が明けてからになるでしょう」


年が明けてから。まだ、先だった。


「確実なことは、何も言えません。ただ、会社は、動き出しました」


「ありがとうございます」


通話を切って、窓の外を見た。街灯の光が、道を薄く照らしている。冬の夜の、冷えた空気が、ガラスを曇らせていた。


先週から、私は、新しい仕事を始めていた。食品の卸会社の、経理補助。時給は1,800円。3か月の契約。通勤は、物流会社より近い。同じ部署の人たちは、年上の女性が多く、お昼にお菓子を分け合う、穏やかな職場だった。


暮らしは、まだ、楽ではなかった。貯金は、40万円を、ぎりぎりで保っている。株は、売らない。その代わり、月に一度、ノートの数字を見返して、少しだけ、ため息をつく。


筆頭株主、という言葉は、今日も、スーパーのレジでは、何の役にも立たなかった。それでも、半額の豆腐を、前より、少しだけ、楽しく選べるようになった。


総会から3週間近く経った木曜、1通の手紙が届いた。差出人は、ヨウスケだった。


封筒は、ごく普通の白いもので、宛名は、丁寧な字で書かれていた。部屋の机に座って、ペーパーナイフで封を切った。


〈カナへ。


元気ですか。総会の後、きちんと話せなかったので、手紙にしました。


異動の願いを出しました。ゴローさんが、受け入れてくれました。来月から、第2工場の事務に行きます。営業の仕事は、嫌いではないけれど、まず、自分の会社が何でできているのかを、現場で知りたいと思いました。


母とは、まだ、ほとんど話していません。父は、取締役として会社に出ています。父から聞いた話では、母は、毎日、台所で、黙って皿を洗っているそうです。俺は、別に暮らしているので、聞くことしかできません。


あの日の玄関のことは、一生、忘れません。忘れないままで、生きていきます。


言うべきだったのに、言えなかったことが、ずっとありました。


ごめんなさい。


あの日、君を守れなくて。


返事は、いりません。ただ、君が、塩をまかれても、頭を下げて帰ったあの背中を、俺は、一生、尊敬しています。ヨウスケ〉


最後の1行を読んで、手紙を畳んだ。目の奥が、熱かった。それでも、涙は、出なかった。


返事は、いらない、と書いてあった。それでも、私は、便箋を1枚出して、短く書いた。


〈手紙を、ありがとう。読みました。元気で。そして、現場で、たくさん、おいしいものを食べてください。カナ〉


封をして、ポストに入れた。それで、全部だった。


総会から3週間後の土曜、午前8時。第2工場の事務所の入口に、人が集まっていた。


作業着の人も、私服の人もいる。トクさんが、腕を組んで立っていた。ヤスさんが、杖をついて、ハルさんと並んでいる。サチさんは、小さな椅子に座らされて、膝の上に、手を重ねていた。


白い壁の、四角い空白の前に、脚立が立てられていた。その脚立の上に、ゴローさんが、登っていた。


作業服の上に、薄いジャンパーを羽織った、社長代行の姿だった。手に、長い木の板を持っている。幅1メートルほど。黒光りする木に、白い名前が並んでいる。


倉庫の奥で、リクさんが見つけた、あの板だった。今朝までに、誰かが、丁寧に埃を拭って、金色の塗料の剥げた部分に、新しく筆を入れてくれたようだった。文字が、はっきり読める。


「こちらです」


隣にいたコウジさんが、小声で、私を前の列に案内してくれた。


ゴローさんが、板を壁の上に当てた。四角い空白に、ぴたりと収まる大きさだった。


脚立の下で、リクさんが、板の下端を支えていた。目が合った。彼は、小さく頷いた。


「ここに、勤続の板を、戻します」


ゴローさんの声が、朝の冷たい空気に響いた。


「10年以上前の改装で、外されたまま、倉庫にしまわれていた。外した理由は、場所を取るから、だった。理由が、あまりに小さすぎて、誰も、元に戻す理由を、考えなかった」


彼は、言葉を、慎重に選ぶように続けた。


「この板には、長く、この工場で働いてきた人たちの名前が、ある。ここに名前がある人は、会社が苦しいときも、黙って、朝の4時半に来た人たちだ」


金槌の音が、コン、と響いた。釘が、壁に打たれる。板が、少しずつ、固定されていく。


「今日から、この板に、現役の人も、退職した人も、名前を並べ続ける。年が変わるたびに、新しい名前を足す。それが、会社の仕事だ」


コン、コン、と、釘の音が続いた。やがて、ゴローさんが、脚立の上から手を離し、一歩、後ろに下がった。


板が、壁に、掛かっていた。


勤続30年 トク。勤続33年 サチ。


そして、下の段の端に。


勤続38年 フミ。


朝の光が、金色の文字を、薄く照らした。誰も、何も言わなかった。


サチさんが、椅子から立ち上がった。リクさんの腕に支えられながら、板に近づく。震える指を伸ばして、その名前に、そっと触れた。


「フミさん」


小さな声だった。


「あんた、ここに、帰ってきたよ」


そのまま、サチさんは、板に額をつけるようにして、肩を震わせた。トクさんが、帽子を取って、深く頭を下げた。ヤスさんも、ハルさんも。


私は、動けなかった。ただの木の板だった。それでも、白い壁の空白に、祖母の名前が、ようやく収まっていた。3週間前の総会の日は、笑っていた。今になって、涙が、止まらなくなった。


コウジさんが、何も言わずに、ハンカチを差し出してくれた。


その後ろに、タダシさんが立っていた。背広の上に、黒いコートを羽織っている。いつもの堂々とした姿は、少し小さく見えた。板をじっと見つめていた。


私が顔を上げたとき、彼は、板から視線を外して、私の方を見た。何も、言わなかった。ただ、帽子を被っていたら取っただろう、という仕草で、頭を、静かに下げた。


私も、頭を下げた。


その日の午後、工場の前の空き地に、長机が出された。初めての直売だった。


規格外の野菜で漬けた浅漬けが、小さな袋に詰められて、机の上に並んでいる。1袋、100円。手書きの札に、「手で塩を決めた浅漬け」と書いてあった。リクさんの字だった。


ベテランの女の人が3人、袋の口を輪ゴムで留めている。その中に、サチさんの姿もあった。椅子に座って、手際よく、袋を整えていた。


お客さんは、思ったより来た。近所の人たちが、「ここの浅漬け、安く買えるの?」と、足を止めていく。袋を手に取って、匂いを嗅ぐ人もいる。売り切れそうになったとき、リクさんが、奥から追加の箱を運んできた。


私は、少し離れた場所で、それを見ていた。何も、手伝わなかった。見学者として、そこにいた。


午後3時を過ぎたころ、列の最後に、1人の女の人が並んでいた。濃紺のコートに、小さな鞄。髪は、きちんとまとめられているが、化粧はほとんどしていなかった。


ミチヨさんだった。


彼女は、順番が来ると、机の前に立った。


「ひとつ、ください」


小さな声だった。


売り子のハルさんが、にこやかに「100円です」と言った。ミチヨさんは、財布から100円玉を出して、静かに置いた。受け取った袋を、両手で包むように持った。


彼女は、列から離れて、工場の門の脇の、ベンチの方へ歩いていった。錆びた鉄のベンチ。32年前、彼女が、泣いた場所。


私は、少し遅れて、ベンチへ向かった。


ミチヨさんは、端に座って、袋を膝の上に置いていた。私が近づくと、顔を上げて、立ち上がろうとした。


「そのままで」


私は、言った。


「隣、いいですか」


「ええ」


反対側の端に、腰を下ろした。間に、人ひとり分の隙間。


しばらく、風の音だけがあった。空き地の向こうで、人の声と、袋を渡す音が、遠く聞こえる。


「カナさん」


ミチヨさんが、前を向いたまま、言った。


「今日は、言葉を持ってきたの」


声が、震えていた。


「何度も、書いて、捨てて。やっと、決めたの。聞いてくださる?」


「はい」


彼女は、膝の上の袋を、強く握った。それから、息を吸って、私の方へ体を向けた。


「あの日、あなたの上に、塩をまいたこと。ごめんなさい」


はっきりと、言った。


「あなたは、何も悪いことをしていなかった。ただ、祖母のことを話しただけだった。私は、自分が昔、同じことをされた痛みを、あなたにそのまま、渡しました。許されることではないと、分かっています」


言葉が、途切れ途切れに、続いた。


「あなたの祖母の名前を、悪い噂の材料にしたこと。ごめんなさい。フミさんは、私を助けてくれた人だった。その人の名前を、私は、自分の手で、汚しました」


唇が、震えていた。


「そして、あなたの職場に、電話をしたこと。あなたの暮らしを、壊そうとしたこと。ごめんなさい。取り返しのつかないことを、しました」


ミチヨさんは、深く、頭を下げた。地面に額がつきそうなほど、深く。


私は、何も言わなかった。しばらく、その背中を、見ていた。あの日、玄関で見た、背筋の伸びた着物姿ではなかった。丸い、小さな背中だった。


冬の薄い陽が、ベンチの上に落ちていた。


「ミチヨさん」


やがて、私は、言った。


「顔を、上げてください」


彼女は、ゆっくりと、体を起こした。目が、赤かった。


「お言葉は、受け取ります」


私は、はっきりと言った。


「聞けて、よかったです。ずっと、聞きたかった言葉でした」


「ええ」


「でも、許すかどうかは、まだ、決められません。許したから、もとの関係に戻る、ということも、ありません」


ミチヨさんは、頷いた。


「ヨウスケさんとのことは、もう終わりました。ミチヨさんのせいだけでは、ありません」


「分かっているわ」


「だから、お義母さんとは、呼びません。ミチヨさん、と呼びます。それで、いいですか」


「……ええ。それで、十分」


彼女は、微かに、笑った。涙が、一筋、頬を伝っていた。


「この浅漬け、いただくわ」


膝の上の袋を、示した。


「100円で、買ったの。規格外、というのでしょう。味は、変わらないと、そこの方が」


「はい。同じです」


「ここで、食べてもいい?」


私は、頷いた。


ミチヨさんは、袋の口を開けて、割りばしを1膳もらい、きゅうりをひと切れ、つまんだ。口に入れて、噛む。しばらく、そのまま、目を閉じていた。


「……あの日の味」


小さく、呟いた。


「32年前の、あの味」


彼女は、袋を、膝の上に置いたまま、静かに、涙を拭いた。私は、隣に座ったまま、遠くの人声を聞いていた。


総会から4週間後の土曜の夕方、私は、またベンチにいた。日が落ちるのが早くなって、午後5時前には、空が群青色に染まり始めていた。搬入口の灯りが、白く光っている。冷たい風が、頬に当たった。


膝の上に、保温用の袋を置いていた。中には、ガラスの瓶が、ひとつ。


足音が、した。土を踏む、ゴム長靴の音。顔を上げると、白い帽子の人が、通用口から出てきたところだった。


「お疲れさまです」


「お疲れさまです」


リクさんは、帽子を取った。短く切った黒い髪が、街灯の下で、少し乱れていた。


「待たせましたか」


「いいえ。今、来たところです」


嘘だった。30分前から、ここに座っていた。リクさんは、少し笑って、ベンチの端に座った。間の隙間は、ほとんどなくなっていた。


「約束を、覚えていますか」


彼が、言った。


「総会が終わって、落ち着いたら、改めて、誘わせてほしい、って」


「覚えています」


「1か月、経ちました」


「はい」


彼は、膝の上で手を組んだ。少し、緊張しているのが、分かった。


「工場長と、ゴローさんには、先に話してあります。僕が、カナさんを誘いたいと思っていること。カナさんが、会社の筆頭株主であること。従業員として、不公平な扱いも、見返りも、一切しないこと。もし、そう見えることがあれば、僕を異動させてください、と」


真面目すぎる言い方に、思わず、笑いそうになった。


「ゴローさんは、何と」


「『フミさんの孫に、手を出すのか』って、一度、睨まれました」


「手を出す」


「失礼しました。『誘うのか』です」


彼は、耳まで赤くなった。声を出して、笑ってしまった。久しぶりに、お腹の底から。


「それで」


笑いが収まってから、聞いた。


「最後は」


「『ちゃんと、断られたら、素直に引け』と」


「引くんですか」


「引きます」


彼は、まっすぐ私を見た。


「断られても、ベンチは、変わりません。それは、本当です」


風が、2人の間を、吹き抜けた。


「カナさん」


リクさんが、息を吸った。


「僕と、付き合ってくれませんか」


言われた。冬の空気の中で、その言葉が、白い息と一緒に、ゆっくりと上っていった。


私は、膝の上の袋を、ぎゅっと握りしめた。心臓が、今日までのどんな場面よりも、うるさく鳴っていた。


「はい」


答えた。声が、思ったより、小さかった。それでも、リクさんの耳には、届いたようだった。彼の肩が、びくりと揺れた。


「……本当ですか」


「はい」


私は、顔を上げた。


「最初の日は、ただ、助かったんです。何も聞かないでいてくれて。あの日、ここに来てよかったと思いました」


リクさんは、口を開けて、言葉が出ないようだった。


「あの日、僕は」


彼は、やっと言った。


「顔を洗ってる人に、タオルを渡しただけです」


「それから、何度もベンチに戻りました。お茶をもらって、浅漬けを食べてもらって、帽子のつばを握って言葉を探すのを見て。気がついたら、隣にいてほしい人になっていました」


私は、笑いながら、涙が出るのを感じた。


リクさんは、帽子を、手の中で握りしめた。


「僕は、お金も、肩書きも、ありません。カナさんを、助けることも、できないかもしれない。会社のことで、何かを解決することも」


「いりません」


私は、首を振った。


「解決は、自分でします。リクさんには、隣に座っていてほしいだけです」


「それなら、できます」


彼は、即答した。


「毎日でも」


「毎日は、飽きますよ」


「飽きません」


2人で、笑った。笑い声が、夕暮れの空に、ふわりと溶けた。


私は、膝の上の袋から、ガラスの瓶を取り出した。蓋を開ける。お酢と、塩と、野菜の匂いが、冷たい空気の中に、立ちのぼった。


「持ってきました」


「それは」


「私が、昨日の夜に、漬けました」


瓶を、リクさんの手に渡した。


「食事、のつもりで」


「これが、ですか」


「はい。ベンチで食べる、浅漬けです。最初のデートには、ちょうどいいかなと思って」


「デート」


リクさんは、また、耳まで赤くなった。


「最初の日に、渡せなかったものだから」


私は、言った。


「あの日、渡せなかった。誰にも、食べてもらえなかった。……今日は、リクさんに、食べてほしい」


彼は、瓶を両手で受け取って、しばらく、見つめていた。それから、割りばしを取り出して、きゅうりをひと切れ、つまんだ。口に入れる。噛む。


目を閉じた。長い、沈黙があった。


搬入口の向こうで、冷蔵庫の低い唸りが、続いている。夕闇が、完全に降りていた。


リクさんが、目を開けた。


「……ちょうどいい」


静かな声だった。


「塩が、ちょうどいいです」


「手で、決めました」


「分かります」


彼は、もうひと切れ、食べた。それから、瓶を私の方へ差し出した。


「カナさんも」


受け取って、大根をひと切れ、口に入れた。


冷たくて、少しだけしょっぱくて、野菜の甘みが、後から追いかけてくる。祖母の味と、同じではなかった。でも、私の味だった。20年かけて、手が覚えた、私の塩加減だった。


玄関で塩をまかれた日、この浅漬けは、誰にも食べてもらえなかった。いま、ベンチの上で、2人で食べている。


風が、また吹いた。リクさんの肩が、私の肩に、そっと触れた。私は、動かなかった。そのまま、寄り添ったまま、夕暮れの工場の灯りを見ていた。


白い壁の、四角かった場所に、板が掛かっている。暗くて、文字は見えない。それでも、そこに、祖母の名前があることを、私は知っていた。


湯気は、明日の朝も、上がるだろう。4時30分に。誰かが、誰より早く、手を洗って。


私は、瓶の蓋を、そっと閉めた。


空には、星が、ひとつ、見え始めていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。カナと工場の朝に、お付き合いくださったことに感謝します。


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