母の家
ヨウスケは、金曜の朝の電車で、吊り革に掴まったまま、自分の手を見ていた。29歳の手だ。営業の資料を、毎日めくっている手。けれどこの12日間、何も掴めていない気がした。
日曜の座敷から、今日で12日。あの日以来、実家の食卓では、誰も口をきかない。母は台所で黙って皿を洗い、父は帰りが遅く、帰ってきても自室に直行する。ヨウスケは、自分の部屋の天井を見て、夜を過ごした。
カナには、一度だけメッセージを送った。考える、と書いたきりだった。考えているつもりだった。けれど実際は、同じ場面を、毎晩繰り返し思い出しているだけだった。
靴箱の花瓶を見ていた自分。
カナが、長い沈黙のあと、何も言わずに頭を下げて帰っていった背中。
それから、あの座敷で、カナが静かに言った言葉。
――塩をまかれた私のままで、祖母のことを、聞いてほしかった。
聞いてほしかった。それを、自分は、一度も、聞こうとしなかった。
会社の営業部は、3階にある。エレベーターを降りると、同期の男が、書類を抱えて寄ってきた。
「なあ、聞いたか。第2工場の件、止まったらしいぞ」
「止まった?」
「取締役会で、署名が見送りになったって。専務が荒れてたってさ。誰かが、横槍を入れたらしい」
横槍。ヨウスケは、曖昧に頷いた。喉が渇いた。横槍を入れた人を、自分は知っている。今、その人の名前は、会社の誰も知らない。父が、伏せているからだ。
「お前の親父さんが、自分から延期を言い出したって話もあるけど、まさかな」
「さあ」
自分の席に座って、パソコンを立ち上げた。メールの件名が並ぶ。社長の息子、という肩書きが、画面の隅に貼りついているような気がした。
小学3年生のときのことを、ふと思い出した。友達を、家に呼んだことがある。
シュンという名前の子だった。足が速くて、笑うと目が三日月になる。学校帰りに、一緒に家まで走って、母に紹介した。母は玄関で、笑顔のまま、シュンのお父さんの仕事を聞いた。シュンは、元気よく答えた。トラックの運転手だ、と。
母の笑顔は、変わらなかった。ただ、その夜から、シュンの名前を口にしなくなった。翌週、シュンの家へ遊びに行くと言ったら、母は静かに言った。
『ああいう家の子と遊ぶのは、やめなさい』
9歳の自分は、泣いた。母は、頭を撫でた。
『あなたのためよ。お母さんは、あなたに嫌な思いをしてほしくないの』
14歳のときは、同じクラスの女の子に、手紙を書いた。引き出しにしまっておいたはずの手紙は、母の手で読まれていた。母は怒らなかった。ただ、悲しそうな顔をして、言った。
『隠し事をされるのが、いちばん辛いの。どうして、お母さんに言ってくれなかったの』
それから、母に隠し事をするのが、怖くなった。隠すと、母は泣く。泣く母を、父が叱る。家の空気が、何日も重くなる。話せば、母は落ち着く。話すと、母は笑顔で、物事を整えてくれる。その整え方が、誰かの何かを奪っていても、家の中は平和になった。
だから、何でも話した。隠し事は、嫌だ。母さんには何でも話す。そう言うのは、誠実だからではなかった。そう言うことでしか、家を守れなかったのだ。
それを、カナは、誠実さだと言った。優しい言い方をしてくれた。でも、違う。自分は、ただ、怖かっただけだ。
夕方、いつもより早く会社を出た。実家の門をくぐったのは、午後6時過ぎだった。玄関の靴箱の上の花瓶に、今日は花がなかった。
台所に、母がいた。割烹着をつけて、里芋の皮を剥いている。背中が、日曜より、ひと回り小さく見えた。
「母さん」
呼ぶと、母の手が止まった。
「あら、早いのね。ご飯は、これから」
「話がある」
母は、包丁を置いて、振り返らずに言った。
「後にして。今、忙しいの」
「カナの職場に、電話をしたのは、母さんだよね」
台所の空気が、固まった。蛇口から、水が一滴、落ちた。
「何の話?」
「あの火曜の朝。代表番号に、名乗らずに。派遣の人を使うなら、ちゃんとした人にしなさい、って」
「知らないわ」
「母さん」
ヨウスケは、台所の入口に立ったまま、言った。
「カナの契約が、今月で終わるって、母さんは、あの日曜に言った。それを知っているのは、派遣先と派遣元と、カナ本人だけのはずだ。どうして、母さんが知ってた」
母の肩が、わずかに揺れた。長い沈黙のあと、母は、包丁を置いた手を、前掛けで拭った。
「……2回、かけたのよ」
小さな声だった。
「1回目は、あなたに教えてもらったビルの、代表番号。2回目は、その後。金曜の夕方。家族のふりをして、その後の様子を聞いたの。応対した方が、親切に教えてくれたわ。今月で更新はしない、と」
家族のふり。ヨウスケは、目の前が少し暗くなるのを感じた。
「どうして、そんなことを」
「あなたのためよ」
母が、ようやく振り向いた。目が、赤かった。
「あの子は、うちの家に合わない人だと思ったの。派遣で、工員の孫で、母親もいなくて。そんな人が嫁に入れば、あなたが苦労する。傷が浅いうちに、身を引いてくれれば、と」
「違う」
ヨウスケは、首を振った。
「それは、母さんが怖かっただけだ」
「何ですって」
「母さんは、自分と同じ立場の人が、家に入ってくるのが怖かったんだ。自分が苦労したから、苦労させたくなかったんじゃなくて、自分が苦労したことを、思い出すのが嫌だったんだ」
母の顔が、強張った。
「親に向かって、何を言うの」
「親に向かって言ってるんじゃない。母さんに向かって言ってる」
初めてだった。母に、こんなふうに、面と向かって言ったのは。声が震えていた。膝も震えていた。それでも、口は止まらなかった。
「9歳のとき、シュンと遊べなくなった。母さんは、あなたのためだと言った。14歳のとき、手紙を読まれて、母さんは泣いた。俺は、ずっと、母さんが泣かないように、生きてきた。でも、それは、俺のためじゃなかった」
「ヨウスケ」
母の声が、掠れた。
「カナは、母さんに塩をまかれても、泣かなかった。叫びもしなかった。ちゃんと頭を下げて、帰った。その人が、俺の婚約者なんだ」
台所の入口の、少し後ろで、足音がした。振り返ると、父が立っていた。背広のまま、鞄を持って。いつからそこにいたのか、分からなかった。
「ミチヨ」
父は、低い声で言った。
「今の話は、本当か」
母は、答えなかった。
「職場に、2回、電話をしたのか」
「……はい」
母が、頷いた。父は、鞄を床に置いた。それから、ゆっくりと、母の前に立った。
「今後、カナさんの職場にも、工場にも、親戚にも、一切連絡をしてはならない。噂話もだ。これは、頼みではない」
「あなた」
「会社の問題になる。私が、今、どういう立場にいるか、分かっているのか」
父の声は、静かだった。けれど、怒っているのが分かった。子どもの前で、父が母を正面から咎めるのを、初めて見た気がした。いつも、母が泣き出すと、父は黙って席を立つ人だった。
「父さん」
ヨウスケは、思い切って言った。
「4億円で買い取る、って話は、何なんだ。取締役の席とか、月に60万円とか。そういう話を、カナにしたのは、父さんだろう」
「お前には、関係ない」
「関係ある。カナの話だ」
「会社の話だ。お前は黙っていなさい」
「もう、黙らない」
自分の声が、台所に響いた。父は、目を見張った。母も、息を呑んだ。ヨウスケは、2人の顔を見た。見たことのない顔だった。
「俺は、花瓶を見てたんだ」
口から、言葉が出た。
「あの日、カナが塩をまかれたとき。母さんを見るのが怖くて、カナを見るのも怖くて、花瓶を見てた。それが、俺だった。……もう、そうしない」
それだけ言って、ヨウスケは、台所を出た。
階段を上がる足が、ふらついた。手すりに掴まりながら、自分の部屋のドアを閉めた。背中をドアにつけて、ずるずると座り込んだ。心臓が、破れそうに鳴っていた。
それから、机に向かった。ノートを開いて、ペンを取った。タイトルは、「経緯」と書いた。
土曜、午前11時、玄関。ミチヨが塩を入れた小皿を持って待っていた。
1行ずつ、事実だけを書く。感想を入れない。言い訳を入れない。母の発言、父の発言、自分の発言と、しなかったこと。
玄関で、自分は、「母さん、玄関では」と言った。それだけだった。カナを庇う言葉は、言わなかった。
身上書の件。母がメールを送ったのは、自分が、カナの私用のアドレスを教えたから。派遣先のビル名。水曜の夜、母に泣かれて、話した。
そのまま、日曜の座敷まで。念書を作成したのは、父の顧問弁護士だった。自分はその存在を、当日の朝まで知らなかった。
2時間かけて、3ページ書いた。最後に、日付と、署名を入れた。名前を書く手が、わずかに震えた。
それから、携帯を取って、カナにメッセージを送った。
〈電話は、母だった。本人に確認した。派遣先の総務に、2回かけたそうだ。1回目は火曜の朝、2回目は、その週の金曜の夕方。家族のふりをして、契約の更新のことを聞き出した。謝って済む話じゃない。事実だけ先に知らせる。会いたいと言っているわけじゃない〉
送信ボタンを押す前に、3回読み直した。押した。
画面が暗くなった。窓の外は、すっかり夜になっていた。
机の引き出しを開けると、小さな箱があった。指輪の箱。去年の冬に、カナに渡したものと、同じ店の。買ったとき、店員さんに、「大切な人ですね」と言われたことを思い出した。
蓋は、開けなかった。引き出しを、静かに閉めた。
1時間後、携帯が震えた。
〈教えてくれて、ありがとう〉
カナの返信は、それだけだった。責める言葉も、許す言葉も、なかった。ヨウスケは、画面を見つめたまま、頷いた。
土曜の朝、ヨウスケは、実家を出たあと、電車を乗り継いで第2工場へ向かった。営業の自分が、土曜の工場へ来たことはなかった。門をくぐると、搬入口の湯気が目に入った。作業着の人たちが、ヨウスケを見て、一瞬、手を止める。社長の息子だと、知っている目だった。
事務所の窓口で、60代くらいの女性が帳簿を広げていた。名札に、マキ、とある。
「営業のヨウスケです。少し、お時間をいただけますか」
マキさんは、眼鏡を上げて、ヨウスケの顔を見た。それから、何かを察したように、ペンを置いた。
「……奥様の、ことですね」
「はい」
ヨウスケは、頭を下げた。
「母が、こちらに来て、昔の方のことをお尋ねしたと聞きました。そのせいで、マキさんに、嫌な思いをさせたと思います。申し訳ありませんでした」
マキさんの目が、潤んだ。
「私は、ただ、聞かれたから答えただけで。フミさんは先代に可愛がられていた、と言っただけで。それが、あんな話になるなんて」
「マキさんのせいでは、ありません」
ヨウスケは、はっきりと言った。
「母が、その言葉を悪い意味にして、広めたんです。責任は、僕の家にあります。……お願いがあります。皆さんに、あの話は間違いだったと、伝えてもらえませんか。始まりは、マキさんではなく、僕の母の問いだったことも」
「私なんかが、言っても」
「マキさんの言葉なら、皆さん、聞きます」
マキさんは、しばらく黙っていた。やがて、小さく頷いた。
「フミさんの孫さんに、顔向けができなくて。ずっと、眠れなかったの。……伝えます。ちゃんと」
事務所を出ようとして、ヨウスケは、入口の脇の壁に目を止めた。薄汚れた壁の中に、そこだけ、四角く白い跡がある。何かが掛かっていた形だった。
「あの白いところは」
「ああ。勤続の板が、掛かってたの。改装のときに外されて、どこへ行ったのか」
マキさんは、壁を見上げた。
「あそこに、フミさんの名前もあったのよ」
ヨウスケは、白い四角を見つめた。自分は、この会社の息子として育った。それなのに、この壁に何が掛かっていたのかも、知らなかった。
もう一度、頭を下げて、工場を後にした。何も、取り戻せはしない。
* * *
ミチヨは、日曜の夜、台所の電気を消さずに、立っていた。午後9時。ヨウスケは、自分の部屋に籠っている。夫は、買い手との電話のために、書斎にいる。この家に人がいるはずなのに、しんとしていた。
流しの脇に、ガラスの瓶が置いてある。あの日、カナが座卓に置いていった瓶だ。中身は、とうに空だった。受け取ったその夜に、台所で立ったまま、ほとんどを1人で食べた。残りも、次の日の夜に食べ終えた。空になった瓶は、洗えないまま、2週間、そこにあった。
手に取って、蓋を開けた。お酢と、塩と、野菜の匂いが、かすかに残っていた。32年前に嗅いだものと、変わらなかった。あの夜、立ったまま食べた浅漬けの味を、舌がまだ覚えている。
――この家に嫁いで、3か月目だった。
26歳。父の文具店を手伝っていた娘が、突然、製造業の社長の家に嫁ぐことになった。縁談を取り持ったのは、遠縁の人だった。先代の奥様は、結婚式の日から、ミチヨを、嫁として見なかった。ミチヨを見るたびに、「お里の人は」と言った。
結婚して最初の夏、父が倒れた。病院に駆けつけて、3日間、里に戻った。通夜と、葬儀と、納骨。喪服のまま、涙も乾かないまま、この家に帰ってきた日のことを、ミチヨは忘れていない。
玄関の戸を開けると、先代の奥様が立っていた。小皿に盛った塩を、手に持って。
『死の穢れは、家に入れないでちょうだい』
親戚が、居間にいた。お手伝いの女性もいた。皆が、見ていた。塩が、喪服の肩にかかった。髪にも、足もとにも。
『お里の人は、そういうところに、無頓着だから』
ミチヨは、頭を下げた。謝る理由は何もなかった。それでも、頭を下げた。そうしないと、この家に入れてもらえなかった。
その夜、1人で家を出た。行く場所はなかった。足が自然に、会社の第2工場へ向いた。裏の錆びたベンチに座って、膝を抱えた。声を殺して、泣いた。
そのとき、前掛けをした女の人が来た。50を過ぎたくらいの、背の低い人だった。顔は、よく覚えていない。ただ、白い前掛けと、手の荒れ方と、静かな足音だけ。
その人は、何も聞かなかった。何も言わなかった。事務所の裏口から出てきて、紙袋を、ミチヨの膝の上に置いた。
『冷たいうちに、食べな』
袋の中は、浅漬けだった。袋を抱えて、泣きながら家へ帰った。誰もいない台所で、立ったまま食べた。涙でしょっぱくなったのか、もともとしょっぱいのか、分からなかった。ただ、食べ終わったとき、お腹が温かくなっていた。
『塩はね、手で決めるんだよ』
その人は、ぽつりと言った。
『自分の味は、自分で決めるんだ。人に決められるもんじゃない』
その意味は、そのときは分からなかった。ただ、涙が、また出た。
それが、フミだった。工場で誰かがその名を呼ぶのを、一度だけ耳にしたことはあった。けれど、顔と名前は結びつかないまま、32年が過ぎた。名簿の名前を見て、はじめて、あの人だったと分かった。
流しの前で、ミチヨは、空の瓶を見つめた。
カナが、玄関に立ったとき。紙袋を持って、背筋を伸ばして、「祖母は、東和フーズの第2工場で、38年働いた人です」と言ったとき。胸の奥が、ざわついた。その子の目の中に、昔の自分が見えた。頭を下げながら、頭を下げさせられない何かを、抱えている目。
だから、工員、と言った。身のほどを知らない、と。自分が受けた塩を、そのまま、渡したのだ。
その事実に、ミチヨは、日曜の座敷で、初めて気づいた。カナが「知らなくても、まかない人でいてほしかった」と言った瞬間に。
――自分は、あの人と、同じことをしたのだ。先代の奥様と。あの玄関の、あの小皿の人と。
受けた痛みは、本当だ。あの日の塩は、今でも肩に残っている気がする。けれど、受けたことは、人にしていい理由にならない。理由は、理由であって、免罪符ではない。
手が震えた。
机の引き出しから、便箋を出した。万年筆のキャップを外して、1行目に、カナさんへ、と書いた。続きが、書けなかった。
塩のことを、書こうとした。ペン先が、紙の上で止まった。ごめんなさい、という6文字が、頭の中にあるのに、手の先まで降りてこなかった。
1枚目を丸めた。2枚目を書き始めた。今度は、「先日は、失礼を」と書いて、手が止まった。失礼を、ではない。失礼で済む話ではない。
3枚目。「フミさんには、昔」と書いた。それから、先を書かなかった。昔の恩を、また、盾に使うことになる。
便箋を、全部、丸めた。屑籠に捨てようとして、やめた。
丸めた3枚を、ポケットに入れて、瓶を洗った。ぬるま湯で、何度も、すすいだ。ガラスの内側を、指で撫でた。ぬめりが落ちるまで。
洗い終えた瓶を、布巾で拭いた。蓋を、別に拭いた。乾いた瓶を、食器棚の高いところに、置いた。
返すつもりだった。いつか。けれど、何と言って返せばいいのか、まだ分からなかった。
台所の灯りを消した。暗い廊下を歩く足が、思った以上に重かった。
謝る言葉は、まだ、喉のどこにも見つからなかった。




