お詫びの食事
日曜の夜、ヨウスケからメッセージが届いた。
〈今日は何も言えなくて、ごめん。ちゃんと考える。考えたら、自分の言葉で連絡する〉
午後11時を過ぎていた。画面を見つめて、返信の欄に指をのせた。何も打たなかった。「考えて」と言ったのは私だ。待つと決めたのも私だ。
机の上に、トクさん、ヤスさん、ハルさんの意向書面の原本が並んでいた。それを重ねて、茶封筒に戻した。引き出しの奥にしまってから、布団に入った。眠れなかった。天井の板の継ぎ目を、何度も数えた。
月曜の朝は、いつもと同じ電車に乗った。派遣先のビルのエレベーターで、隣に立った人が、私の顔を見て目をそらした。あの電話のあとから、フロアの空気は、まだ少し硬い。最終出勤は、4日後。デスクの引き出しの中身を、少しずつ段ボールに移し始めていた。
午前9時30分、弁護士からメールが届いた。
〈資料請求の書面を、会社の総務宛に送付しました。内容の写しを添付します。取締役会の結果は、総務部長から連絡が入る見込みです〉
添付された書面は、2ページだった。株主としての請求であること。売却検討の理由と経緯を知りたいこと。会社が開示できる範囲と、開示に必要な手続の案内を求めること。末尾に、私の氏名と、昨日の日付。昨日、あの座敷で、タダシさんは「手続を通せ」と言った。その言葉の通りに、手続を通した。
午前は、書類の整理に没頭した。午後は、後任に引き継ぐための手順書を作った。作業をしている間は、考えなくて済んだ。
午後2時50分。手が止まった。パソコンの右下の時計を、私は見ていた。
2時55分。会議室のドアが閉まる頃だ。タダシさんが、役員に何を言うのか。ケンさんは、ゴローさんは、テツさんは。名前だけ知っている人たちの顔を、勝手に思い浮かべた。
午後3時。ビルの空調の音だけが、聞こえた。
取締役会の会議室は、あの本社の何階にあるのだろう。コウジさんが、書類を配っているだろうか。窓の外の、空き地は見えるだろうか。
「カナさん」
ユキさんが、横に立っていた。
「お茶、どうぞ」
湯呑みを、机の端に置いてくれた。紙コップではなく、給湯室の奥にしまってある、陶器の湯呑みだった。
「ありがとうございます」
「引き継ぎ、助かってます。4日で終わるとは思えないくらい、きれいにまとまってる」
ユキさんは、少し口ごもってから、続けた。
「最終日は、私も有給を取らずに、きちんと見送ります。部長が何と言おうと」
「そんな」
「あなたが何をしたかは知りません。でも、あなたが何もしていないことは、知っています」
それだけ言って、ユキさんは自分の席へ戻っていった。湯呑みの茶は、熱かった。両手で包むと、指先に血が戻ってくる気がした。
午後3時40分。4時。4時30分。何も連絡は来ない。会議は、きっと長引いている。
午後6時12分、携帯が震えた。見知らぬ番号。出ると、落ち着いた男の人の声が聞こえた。
「東和フーズ総務部長のコウジです。今、お時間よろしいですか」
廊下の隅の階段へ、急いで移動した。
「はい。大丈夫です」
「取締役会の結果を、会社の正式な手続の範囲でお伝えします。まず、結論から。買い手との基本合意の署名は、本日は行われませんでした」
階段の踊り場の窓から、夕焼けが見えた。ビルの谷間の細い空が、赤く染まっていた。息を、深く吐いた。
「署名は延期。会社として、買い手に交渉期限の延長を申し入れます。売却の検討そのものは、継続します」
「はい」
「株主であるあなたから請求のあった資料については、書面は受け取りました。開示の範囲と条件を、次回の取締役会で諮ります」
「次回、というのは」
「3週間後の月曜日になる予定です」
3週間後。頭の中で、日数を数えた。
「承知しました。ありがとうございます」
「それと」
コウジさんは、少し間を置いた。
「今朝、社長から、私が呼ばれました」
私は、携帯を耳に強く押し当てた。
「午前8時40分でした。名簿の更新について、いつ受理したのか、誰が確認したのか、と聞かれました。私は、受理の日と、月次の報告に載せたことを、そのまま答えました」
「社長は、何と」
「そうか、とだけ。叱責はありませんでした。ご子息との関係のことは、私からは一切、口にしていません」
「ありがとうございます」
「お礼を言われることではありません。私は、自分の仕事をしただけです」
「取締役会の中身について、お話しできる範囲で、もう少し。社長は、会議の冒頭で、こう説明されました。筆頭株主が、売却案に反対の意向を持っている。古参株主にも、同じ意向の方がいる。署名を急ぐのは、会社にとって得策ではない、と」
筆頭株主の名前は、出さなかったのだ。昨日の座敷で約束した通りに、タダシさんは、役員の前で自分の口から延期を提案したのだ。
「異論は、ありましたか」
「テツ専務が、強く反対されました。買い手を待たせれば、条件が悪くなる。借入の返済期限も迫っている、と」
「他の方は」
「ゴロー常務は、工場の声を先に聞くべきだと。ケン取締役は、この規模の事業の譲渡は、株主の承認が要る話だから、株主の意向を把握しないまま署名を進めるのは危うい、と。最終的に、社長の提案が通りました」
コウジさんは、一度、言葉を切った。
「カナさん」
「はい」
「売却の検討は続きます。借入も設備も、課題のままです。そのつもりで」
「分かっています」
電話の向こうで、コウジさんが、小さく息を吐いた。
「フミさんの字を思い出しました。あの人の委任状は、いつも、最後に『よろしくお願い致します』と書いてあった。あなたの書面にも、同じ丁寧さがあります」
返事が、うまくできなかった。
「失礼します。次回の取締役会の結果は、改めてご連絡します」
通話が切れた。階段の窓の、赤い光が、ゆっくり暗くなっていった。私はそこに、5分ほど立っていた。
弁護士にメールを打った。結果を、日付と時刻と一緒に、箇条書きにして送った。署名延期。期限延長の申入れ。売却検討は継続。次回の取締役会は、3週間後の月曜。
それから、もうひとつ、電話をかけた。
「そうですか」
夜の駅前。公衆電話ではなく、携帯の向こうで、リクさんが言った。夜の9時前で、彼は仕事を終えたところだと言った。電話の向こうで、風の音がする。
「署名が延びた。でも、売却がなくなったわけではありません」
私は、駅のベンチに座って説明した。
「何も解決していません。借入も、冷蔵庫も、そのままです」
「はい」
「それなのに、少しだけ、ほっとしてしまって」
「ほっとして、いいと思います」
リクさんは、静かな声で言った。
「今日、昼の仕込みの間、みんな、手が止まりがちだったんです。大根の水切りの音が、ばらばらで」
「音」
「はい。夕方に『決まらなかったらしい』って回ってきたら、音が、そろいました。ここは小さい工場なので、すぐ分かります」
少し笑う声が、混じった。
「今夜は、きっと、みんな、よく寝ます」
駅の灯りが、にじんだ。通話を終えてから、しばらくベンチに座っていた。
火曜の朝に、ミチヨさんからメールが届いた。見慣れた名前。件名は「お食事のお誘い」。
〈先日は、お見苦しいところをお見せしました。お詫びを兼ねて、水曜の午後7時に、お食事をご一緒できませんか。ヨウスケは呼びません。私1人でお待ちしています。場所は、下記の通り〉
住所と店名が、続いていた。駅前の、古い料亭の名前だ。画面を閉じて、深呼吸した。
お詫びを兼ねて。最初のメールの件名も、「お詫びとお願い」だった。あのときは、お詫びの隣に、「ご提出が難しい場合は」と書いてあった。今回は、どうなのか。
昼休みに、弁護士に連絡を入れた。
〈行くなら、書面にならない約束はしないこと。株の話は、こちらから出さないこと。聞いたことは、忘れないうちに記録を〉
行く、と決めた。会いたかったわけではない。塩をまいた人が、何を言うのかを、一度ちゃんと聞いておきたかった。
水曜の午後7時。駅前の古い料亭は、木の格子の入口に、小さな灯りがともっていた。女将さんに名前を告げると、廊下の奥の個室へ案内された。
ミチヨさんは、先に来ていた。濃い紺色の洋服に、真珠の小さな耳飾り。日曜の藤色の着物とは、まるで違う、地味な装いだった。座卓の向こうで、背筋を伸ばして、私を見た。髪は、きれいに整えられている。けれど、目の下に、化粧では隠しきれない影があった。
「来てくださって、ありがとう」
いつもの、甘い声ではなかった。もっと平らで、疲れていた。
「どうぞ、おかけになって」
座ると、すぐに料理が運ばれてきた。小さな器が、いくつも並ぶ。先付け、お造り、煮物。女将さんが下がると、個室は静かになった。
箸をとって、ひと口食べた。味がしなかった。
ミチヨさんも、ほとんど箸を動かしていなかった。
「この店は、昔、先代の奥様によく連れてきていただいたの」
唐突に、彼女は言った。
「結婚して、最初の年。毎月1回、必ずここで、お食事。私の作法を直す、という名目で」
名目で、と言った口の端が、わずかに歪んだ。
「箸の上げ下ろしから、お茶の飲み方まで。間違えると、帰りの車の中で、全部言われたわ」
私は、箸を置いた。
「カナさん」
ミチヨさんが、私を見た。
「日曜に、あなたが置いていった、あの瓶。食べたわ」
心臓が、どくんと鳴った。
「夜、1人で。台所で、立ったまま」
「……いかがでしたか」
「あの味だった」
彼女は、小さな声で言った。
「32年前に、私が食べたのと、同じ味」
言葉の意味が、すぐには分からなかった。32年前。ミチヨさんがこの家に嫁いだ年。
「結婚した年の、夏のことよ。先代の奥様に、きつく叱られた日があって。私、家にいられなくて、工場のほうへ歩いていったの」
彼女は、湯呑みを両手で包んだ。
「第2工場の裏に、小さなベンチがあるでしょう。錆びた、鉄の」
「はい」
「そこで、1人で泣いていたら、前掛けをした女の人が、来たの。名前も知らない。お漬物のおばさん、と、私は心の中で呼んでいたわ」
私は、息を止めた。
「その人が、何も言わずに、紙の袋に浅漬けを入れて、持たせてくれたの。『冷たいうちに食べな』って、それだけ。私は、泣きながら、そのまま歩いて帰って、台所で、立ったまま食べたの」
日曜の夜。台所で、立ったまま。
「あの人が、あなたのお祖母様だったのね」
ミチヨさんは、静かに言った。
「名簿の名前を見て、思い出したのよ。フミ、という名前を。工場で呼ばれていたのを、一度だけ聞いたことがあった」
「祖母は、その話を、しませんでした」
「でしょうね。あの人は、そういう人だったわ」
彼女は、顔を上げて、微笑んだ。
「だから、私たちには、縁があるのよ。ね、カナさん。あなたのお祖母様に、私は助けていただいた。それなら、ヨウスケとのことも、なかったことにしないで」
縁。この人は、思い出を、持ってきたのだ。本当に大事な記憶を、交渉の道具として。
「ミチヨさん」
私は、箸を置いて、まっすぐ彼女を見た。
「その話は、聞けてよかったです。祖母のことを、今まで知らなかった顔を、教えてもらえました。ありがとうございます」
「ええ」
「でも、それと、塩のことは、別です」
彼女の微笑が、凍った。
「3つ、伺いたいことがあります。教えてください」
「3つ」
「玄関で、塩をまいたこと。祖母の名前を、悪い噂の材料にしたこと。私の職場に、電話をしたこと」
一つずつ、指を折りはしなかった。ただ、声に出した。
「どれについても、ミチヨさんの言葉を、まだ聞いていません。具体的な言葉を」
長い沈黙が、落ちた。隣の個室から、笑い声が、かすかに聞こえた。誰かの誕生日のようだった。ミチヨさんの指先が、湯呑みの縁をなぞった。
「あなた、意地悪ね」
ようやく、彼女は言った。
「謝っているでしょう。こうして、場を設けて」
「場を設けることと、謝ることは、違います」
私は静かに言った。
「日曜に、ごめんなさいね、とは言われました。でも、塩や、祖母の名前や、電話について、具体的に何を謝るのかは、まだ聞いていません」
「……あの家で生き残るためには」
彼女は、小さく呟いた。
「ああするしかなかったのよ」
「え」
「何でもないわ」
彼女は、首を振った。
「私は、ひどいことをしたとは、思っていないの。家を守るためだったから。あなたが傷ついたのなら、それは、残念だけれど」
残念、という言葉が、胸に突き刺さった。私は、深く息を吸った。怒鳴りたくなかった。怒鳴れば、この人は、被害者になれる。
「ミチヨさん。お料理、いただきます」
箸を取った。煮物の里芋を、ひと口食べた。出汁が、少しだけ、味として感じられた。それから、黙って、最後まで食べた。
ミチヨさんも、箸を動かした。2人とも、一言も話さなかった。ただ、食べた。食後のお茶が出る頃には、個室の空気は、嘘のように静かだった。
勘定は、ミチヨさんが払った。店の外まで、並んで歩いた。夜風が冷たい。彼女は、肩にショールをかけながら、言った。
「ヨウスケのこと、よろしくお願いするわ」
「それは、約束できません」
「そう」
ミチヨさんは、頷いた。
「そうよね」
それだけだった。
タクシーを拾って、彼女は先に乗った。ドアが閉まる直前、私を見て、何か言いかけた。けれど、口を開かないまま、車は走り出した。
帰りのバスの中で、手帳を開いた。弁護士の言う通り、忘れないうちに、記録をつけた。水曜、午後7時、料亭。ミチヨさんが1人。32年前の浅漬けの話。縁の話。3つの質問に、具体的な答えは、なし。
書き終えて、窓の外を見た。街灯が、後ろへ流れていく。具体的なごめんなさい、を数えた。
塩について、0回。噂について、0回。電話について、0回。
でも、あの人は、私の浅漬けを、台所で立ったまま食べた。許せるわけではない。ただ、何も無いと言い切れなくなった。それが、小さな石のように、胸の奥で重かった。
最終出勤は、あと2日。バスが、私のアパートの近くの停留所に着いた。




