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婚約者の母に塩をまかれた派遣社員の私は、その家の会社の筆頭株主でした。  作者: ぽんちょ。


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6/14

お詫びの食事

日曜の夜、ヨウスケからメッセージが届いた。


〈今日は何も言えなくて、ごめん。ちゃんと考える。考えたら、自分の言葉で連絡する〉


午後11時を過ぎていた。画面を見つめて、返信の欄に指をのせた。何も打たなかった。「考えて」と言ったのは私だ。待つと決めたのも私だ。


机の上に、トクさん、ヤスさん、ハルさんの意向書面の原本が並んでいた。それを重ねて、茶封筒に戻した。引き出しの奥にしまってから、布団に入った。眠れなかった。天井の板の継ぎ目を、何度も数えた。


月曜の朝は、いつもと同じ電車に乗った。派遣先のビルのエレベーターで、隣に立った人が、私の顔を見て目をそらした。あの電話のあとから、フロアの空気は、まだ少し硬い。最終出勤は、4日後。デスクの引き出しの中身を、少しずつ段ボールに移し始めていた。


午前9時30分、弁護士からメールが届いた。


〈資料請求の書面を、会社の総務宛に送付しました。内容の写しを添付します。取締役会の結果は、総務部長から連絡が入る見込みです〉


添付された書面は、2ページだった。株主としての請求であること。売却検討の理由と経緯を知りたいこと。会社が開示できる範囲と、開示に必要な手続の案内を求めること。末尾に、私の氏名と、昨日の日付。昨日、あの座敷で、タダシさんは「手続を通せ」と言った。その言葉の通りに、手続を通した。


午前は、書類の整理に没頭した。午後は、後任に引き継ぐための手順書を作った。作業をしている間は、考えなくて済んだ。


午後2時50分。手が止まった。パソコンの右下の時計を、私は見ていた。


2時55分。会議室のドアが閉まる頃だ。タダシさんが、役員に何を言うのか。ケンさんは、ゴローさんは、テツさんは。名前だけ知っている人たちの顔を、勝手に思い浮かべた。


午後3時。ビルの空調の音だけが、聞こえた。


取締役会の会議室は、あの本社の何階にあるのだろう。コウジさんが、書類を配っているだろうか。窓の外の、空き地は見えるだろうか。


「カナさん」


ユキさんが、横に立っていた。


「お茶、どうぞ」


湯呑みを、机の端に置いてくれた。紙コップではなく、給湯室の奥にしまってある、陶器の湯呑みだった。


「ありがとうございます」


「引き継ぎ、助かってます。4日で終わるとは思えないくらい、きれいにまとまってる」


ユキさんは、少し口ごもってから、続けた。


「最終日は、私も有給を取らずに、きちんと見送ります。部長が何と言おうと」


「そんな」


「あなたが何をしたかは知りません。でも、あなたが何もしていないことは、知っています」


それだけ言って、ユキさんは自分の席へ戻っていった。湯呑みの茶は、熱かった。両手で包むと、指先に血が戻ってくる気がした。


午後3時40分。4時。4時30分。何も連絡は来ない。会議は、きっと長引いている。


午後6時12分、携帯が震えた。見知らぬ番号。出ると、落ち着いた男の人の声が聞こえた。


「東和フーズ総務部長のコウジです。今、お時間よろしいですか」


廊下の隅の階段へ、急いで移動した。


「はい。大丈夫です」


「取締役会の結果を、会社の正式な手続の範囲でお伝えします。まず、結論から。買い手との基本合意の署名は、本日は行われませんでした」


階段の踊り場の窓から、夕焼けが見えた。ビルの谷間の細い空が、赤く染まっていた。息を、深く吐いた。


「署名は延期。会社として、買い手に交渉期限の延長を申し入れます。売却の検討そのものは、継続します」


「はい」


「株主であるあなたから請求のあった資料については、書面は受け取りました。開示の範囲と条件を、次回の取締役会で諮ります」


「次回、というのは」


「3週間後の月曜日になる予定です」


3週間後。頭の中で、日数を数えた。


「承知しました。ありがとうございます」


「それと」


コウジさんは、少し間を置いた。


「今朝、社長から、私が呼ばれました」


私は、携帯を耳に強く押し当てた。


「午前8時40分でした。名簿の更新について、いつ受理したのか、誰が確認したのか、と聞かれました。私は、受理の日と、月次の報告に載せたことを、そのまま答えました」


「社長は、何と」


「そうか、とだけ。叱責はありませんでした。ご子息との関係のことは、私からは一切、口にしていません」


「ありがとうございます」


「お礼を言われることではありません。私は、自分の仕事をしただけです」


「取締役会の中身について、お話しできる範囲で、もう少し。社長は、会議の冒頭で、こう説明されました。筆頭株主が、売却案に反対の意向を持っている。古参株主にも、同じ意向の方がいる。署名を急ぐのは、会社にとって得策ではない、と」


筆頭株主の名前は、出さなかったのだ。昨日の座敷で約束した通りに、タダシさんは、役員の前で自分の口から延期を提案したのだ。


「異論は、ありましたか」


「テツ専務が、強く反対されました。買い手を待たせれば、条件が悪くなる。借入の返済期限も迫っている、と」


「他の方は」


「ゴロー常務は、工場の声を先に聞くべきだと。ケン取締役は、この規模の事業の譲渡は、株主の承認が要る話だから、株主の意向を把握しないまま署名を進めるのは危うい、と。最終的に、社長の提案が通りました」


コウジさんは、一度、言葉を切った。


「カナさん」


「はい」


「売却の検討は続きます。借入も設備も、課題のままです。そのつもりで」


「分かっています」


電話の向こうで、コウジさんが、小さく息を吐いた。


「フミさんの字を思い出しました。あの人の委任状は、いつも、最後に『よろしくお願い致します』と書いてあった。あなたの書面にも、同じ丁寧さがあります」


返事が、うまくできなかった。


「失礼します。次回の取締役会の結果は、改めてご連絡します」


通話が切れた。階段の窓の、赤い光が、ゆっくり暗くなっていった。私はそこに、5分ほど立っていた。


弁護士にメールを打った。結果を、日付と時刻と一緒に、箇条書きにして送った。署名延期。期限延長の申入れ。売却検討は継続。次回の取締役会は、3週間後の月曜。


それから、もうひとつ、電話をかけた。


「そうですか」


夜の駅前。公衆電話ではなく、携帯の向こうで、リクさんが言った。夜の9時前で、彼は仕事を終えたところだと言った。電話の向こうで、風の音がする。


「署名が延びた。でも、売却がなくなったわけではありません」


私は、駅のベンチに座って説明した。


「何も解決していません。借入も、冷蔵庫も、そのままです」


「はい」


「それなのに、少しだけ、ほっとしてしまって」


「ほっとして、いいと思います」


リクさんは、静かな声で言った。


「今日、昼の仕込みの間、みんな、手が止まりがちだったんです。大根の水切りの音が、ばらばらで」


「音」


「はい。夕方に『決まらなかったらしい』って回ってきたら、音が、そろいました。ここは小さい工場なので、すぐ分かります」


少し笑う声が、混じった。


「今夜は、きっと、みんな、よく寝ます」


駅の灯りが、にじんだ。通話を終えてから、しばらくベンチに座っていた。


火曜の朝に、ミチヨさんからメールが届いた。見慣れた名前。件名は「お食事のお誘い」。


〈先日は、お見苦しいところをお見せしました。お詫びを兼ねて、水曜の午後7時に、お食事をご一緒できませんか。ヨウスケは呼びません。私1人でお待ちしています。場所は、下記の通り〉


住所と店名が、続いていた。駅前の、古い料亭の名前だ。画面を閉じて、深呼吸した。


お詫びを兼ねて。最初のメールの件名も、「お詫びとお願い」だった。あのときは、お詫びの隣に、「ご提出が難しい場合は」と書いてあった。今回は、どうなのか。


昼休みに、弁護士に連絡を入れた。


〈行くなら、書面にならない約束はしないこと。株の話は、こちらから出さないこと。聞いたことは、忘れないうちに記録を〉


行く、と決めた。会いたかったわけではない。塩をまいた人が、何を言うのかを、一度ちゃんと聞いておきたかった。


水曜の午後7時。駅前の古い料亭は、木の格子の入口に、小さな灯りがともっていた。女将さんに名前を告げると、廊下の奥の個室へ案内された。


ミチヨさんは、先に来ていた。濃い紺色の洋服に、真珠の小さな耳飾り。日曜の藤色の着物とは、まるで違う、地味な装いだった。座卓の向こうで、背筋を伸ばして、私を見た。髪は、きれいに整えられている。けれど、目の下に、化粧では隠しきれない影があった。


「来てくださって、ありがとう」


いつもの、甘い声ではなかった。もっと平らで、疲れていた。


「どうぞ、おかけになって」


座ると、すぐに料理が運ばれてきた。小さな器が、いくつも並ぶ。先付け、お造り、煮物。女将さんが下がると、個室は静かになった。


箸をとって、ひと口食べた。味がしなかった。


ミチヨさんも、ほとんど箸を動かしていなかった。


「この店は、昔、先代の奥様によく連れてきていただいたの」


唐突に、彼女は言った。


「結婚して、最初の年。毎月1回、必ずここで、お食事。私の作法を直す、という名目で」


名目で、と言った口の端が、わずかに歪んだ。


「箸の上げ下ろしから、お茶の飲み方まで。間違えると、帰りの車の中で、全部言われたわ」


私は、箸を置いた。


「カナさん」


ミチヨさんが、私を見た。


「日曜に、あなたが置いていった、あの瓶。食べたわ」


心臓が、どくんと鳴った。


「夜、1人で。台所で、立ったまま」


「……いかがでしたか」


「あの味だった」


彼女は、小さな声で言った。


「32年前に、私が食べたのと、同じ味」


言葉の意味が、すぐには分からなかった。32年前。ミチヨさんがこの家に嫁いだ年。


「結婚した年の、夏のことよ。先代の奥様に、きつく叱られた日があって。私、家にいられなくて、工場のほうへ歩いていったの」


彼女は、湯呑みを両手で包んだ。


「第2工場の裏に、小さなベンチがあるでしょう。錆びた、鉄の」


「はい」


「そこで、1人で泣いていたら、前掛けをした女の人が、来たの。名前も知らない。お漬物のおばさん、と、私は心の中で呼んでいたわ」


私は、息を止めた。


「その人が、何も言わずに、紙の袋に浅漬けを入れて、持たせてくれたの。『冷たいうちに食べな』って、それだけ。私は、泣きながら、そのまま歩いて帰って、台所で、立ったまま食べたの」


日曜の夜。台所で、立ったまま。


「あの人が、あなたのお祖母様だったのね」


ミチヨさんは、静かに言った。


「名簿の名前を見て、思い出したのよ。フミ、という名前を。工場で呼ばれていたのを、一度だけ聞いたことがあった」


「祖母は、その話を、しませんでした」


「でしょうね。あの人は、そういう人だったわ」


彼女は、顔を上げて、微笑んだ。


「だから、私たちには、縁があるのよ。ね、カナさん。あなたのお祖母様に、私は助けていただいた。それなら、ヨウスケとのことも、なかったことにしないで」


縁。この人は、思い出を、持ってきたのだ。本当に大事な記憶を、交渉の道具として。


「ミチヨさん」


私は、箸を置いて、まっすぐ彼女を見た。


「その話は、聞けてよかったです。祖母のことを、今まで知らなかった顔を、教えてもらえました。ありがとうございます」


「ええ」


「でも、それと、塩のことは、別です」


彼女の微笑が、凍った。


「3つ、伺いたいことがあります。教えてください」


「3つ」


「玄関で、塩をまいたこと。祖母の名前を、悪い噂の材料にしたこと。私の職場に、電話をしたこと」


一つずつ、指を折りはしなかった。ただ、声に出した。


「どれについても、ミチヨさんの言葉を、まだ聞いていません。具体的な言葉を」


長い沈黙が、落ちた。隣の個室から、笑い声が、かすかに聞こえた。誰かの誕生日のようだった。ミチヨさんの指先が、湯呑みの縁をなぞった。


「あなた、意地悪ね」


ようやく、彼女は言った。


「謝っているでしょう。こうして、場を設けて」


「場を設けることと、謝ることは、違います」


私は静かに言った。


「日曜に、ごめんなさいね、とは言われました。でも、塩や、祖母の名前や、電話について、具体的に何を謝るのかは、まだ聞いていません」


「……あの家で生き残るためには」


彼女は、小さく呟いた。


「ああするしかなかったのよ」


「え」


「何でもないわ」


彼女は、首を振った。


「私は、ひどいことをしたとは、思っていないの。家を守るためだったから。あなたが傷ついたのなら、それは、残念だけれど」


残念、という言葉が、胸に突き刺さった。私は、深く息を吸った。怒鳴りたくなかった。怒鳴れば、この人は、被害者になれる。


「ミチヨさん。お料理、いただきます」


箸を取った。煮物の里芋を、ひと口食べた。出汁が、少しだけ、味として感じられた。それから、黙って、最後まで食べた。


ミチヨさんも、箸を動かした。2人とも、一言も話さなかった。ただ、食べた。食後のお茶が出る頃には、個室の空気は、嘘のように静かだった。


勘定は、ミチヨさんが払った。店の外まで、並んで歩いた。夜風が冷たい。彼女は、肩にショールをかけながら、言った。


「ヨウスケのこと、よろしくお願いするわ」


「それは、約束できません」


「そう」


ミチヨさんは、頷いた。


「そうよね」


それだけだった。


タクシーを拾って、彼女は先に乗った。ドアが閉まる直前、私を見て、何か言いかけた。けれど、口を開かないまま、車は走り出した。


帰りのバスの中で、手帳を開いた。弁護士の言う通り、忘れないうちに、記録をつけた。水曜、午後7時、料亭。ミチヨさんが1人。32年前の浅漬けの話。縁の話。3つの質問に、具体的な答えは、なし。


書き終えて、窓の外を見た。街灯が、後ろへ流れていく。具体的なごめんなさい、を数えた。


塩について、0回。噂について、0回。電話について、0回。


でも、あの人は、私の浅漬けを、台所で立ったまま食べた。許せるわけではない。ただ、何も無いと言い切れなくなった。それが、小さな石のように、胸の奥で重かった。


最終出勤は、あと2日。バスが、私のアパートの近くの停留所に着いた。


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