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婚約者の母に塩をまかれた派遣社員の私は、その家の会社の筆頭株主でした。  作者: ぽんちょ。


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名簿の1行目

誰も、口をきかなかった。


庭の鹿威しが、ことり、と鳴った。その音が、座敷の静けさを、いっそう深くした。タダシさんは、証明書を持ち上げもせず、座卓に置いたまま、目だけで文字を追っていた。上から下へ。右から左へ。もう一度、上へ。


旧名義、フミ。相続。最後の2文字のところで、彼の視線が止まった。


「……フミ」


口の中で、ほとんど音にならない声が、そう言った。


「どうしたの、あなた」


ミチヨさんが、笑顔を貼りつけたまま、横から覗き込んだ。


「何なの、この紙は。カナさん、何かのいたずらかしら。こんな、会社の書類みたいなものを」


「会社の書類です」


私は言った。


「総務部長の印が、右下にあります。必要でしたら、会社に問い合わせていただいて構いません」


「総務、の」


タダシさんの指が、紙の端を押さえた。その指先が、わずかに白くなっていた。


「毎年、総会の前に、委任状が届いていた」


誰に向かって言うでもなく、彼は言った。


「細い字の宛名の。文面はいつも同じで。議決権の行使を、社長にお任せいたします、と」


「祖母です」


私は答えた。


「第2工場で38年働いた、フミは、私の祖母です。3週間前の土曜、この家の玄関で、申し上げた工員の祖母です」


言いながら、あの日の玄関が、目の前に浮かんだ。胸を張って、祖母のことを話した自分。工員さん、と笑った、ミチヨさんの顔。同じ人が、いま、私の目の前に座っている。


「ばかな」


ミチヨさんが、小さく笑った。笑いが、うまく終わらなかった。


「そんな。だって、あの人は、工員でしょう。工員が、そんなに」


「ミチヨ」


タダシさんが、低く呼んだ。


「黙っていなさい」


彼は、証明書から目を上げて、私を見た。さっきまでの、玄関で私を見ずに道ばかり見ていた目とは、違っていた。計算している目だった。


一方で、ミチヨさんの顔は、色を失っていた。彼女は、私が言った名前を、自分の口の中で、もう一度転がしたようだった。フミ。フミさん。


唇が、かすかに動いた。彼女は、気づいたのだ。自分が、誰の名前を、貶めたのか。


最初に動いたのは、ヨウスケだった。座卓の端で、彼は、かすれた声で言った。


「カナ。……これ、本当に?」


「本当」


「カナが、うちの」


言葉が続かなかった。顔が、赤くなったり、白くなったりした。耳の先まで、血の色が昇っていた。


私が、この家で、塩をまかれて、頭を下げて帰ったときに、彼が靴箱の花瓶を見ていたこと。身上書のメールに、形だけだと返してきたこと。派遣先のビル名を、母親に話したこと。


「なんで、言ってくれなかったんだ」


絞り出すような声だった。


「俺、知らなかった。何も。そうしたら、あの日だって」


「あの日だって、何?」


私は聞いた。


「ヨウスケが、玄関で何か言ってくれたかもしれない。そう思う?」


彼は、答えられなかった。


「ヨウスケ。あなたは言った。母さんには何でも話す、隠し事は嫌だって」


静かに言った。責める声にはしたくなかった。


「私が株のことを言えば、翌朝には、お母さんが全部知っている。それは、あなたの悪いところじゃないと思う。誠実さだと思う。でも、そうなったら、私の祖母の話は、もう、祖母の話として聞いてもらえなくなる」


座敷は静かだった。タダシさんも、ミチヨさんも、聞いていた。


「株を持った人の孫として、扱いが変わる。そうなる前に、聞いてほしかった。塩をまかれた私のままで、祖母のことを」


「それを、ヨウスケの前で、1回でいいから、してほしかった」


ヨウスケは、うつむいた。膝の上の拳が、震えていた。


「ごめん」


小さく、彼は言った。


「俺は、情けない」


その言葉を、否定も、肯定もしなかった。


その静けさを、破ったのは、ミチヨさんだった。突然、彼女は膝をついて立ち上がり、座卓を回って、私の隣に座り込んだ。藤色の着物の裾が、畳の上に広がる。


「カナさん」


声が、変わっていた。さっきまでの甘さの上に、さらに湿った温かみが重なっていた。


「ごめんなさいね。知らなかったのよ。本当に」


彼女は、私の両手を、自分の両手で包んだ。冷たい手だった。


「お祖母様が、そんなに立派な方だったなんて。早く言ってくれればよかったのに。そうしたら、私だって、あんなことは」


「あんなこと、というのは」


「ええ、ええ。分かっているわ。玄関のことよ。あれは、行き違いだったの。私、頭に血が上ってしまって」


握る手に、力がこもる。


「ねえ、もう家族なのだから。お義母さんと呼んでちょうだい。結婚式は、早い方がいいわ。ホテルは、私が手配します。お祖母様の写真も、ちゃんと飾りましょうね」


目の前で、人が変わっていく。玄関で塩をまいた人が、いま、私の手を取って、泣きそうな顔をしている。涙は、本物かもしれなかった。


「ミチヨさん」


私は、そっと手を引いた。


「知っていたら、塩はまかなかった、ということですか」


ミチヨさんの動きが、止まった。


「そ、そういうことじゃ」


「私は、知らなくても、まかない人でいてほしかったです」


言った声は、自分でも驚くほど、穏やかだった。ミチヨさんの瞳が、揺れた。次の言葉が、見つからないようだった。


「祖母が工員だったから、私が派遣だから、というのが理由なら、株の数字が出ても、その理由は消えません。数字が出たから消える種類の侮辱なら、最初から、私にまかれたのではなく、数字にまかれたんです」


「何を言ってるの」


ミチヨさんの声が、裏返った。


「私は、家のために。ヨウスケのために」


「それは、分かります」


私は頷いた。


「でも、その手段が、私の職場への電話でも、祖母の悪い噂でも、私は受け取れません」


座敷が、凍った。タダシさんの目が、ミチヨさんに向いた。


「何の話だ」


私は、鞄の中から、クリアファイルの3枚目を出した。派遣先の電話メモの写しを、座卓の上に置く。受電の日時。相手が名乗らなかったこと。内容。


タダシさんは、それを手に取り、読んだ。一番下の行で、彼の目が止まった。


『派遣の人を使うなら、ちゃんとした人にしなさい』


「……お前か」


低い声で、彼は言った。


「違うわ」


ミチヨさんは、慌てて首を振った。


「私は、そんなことは」


「私は、断定していません」


先に、私が言った。


「声を聞いたわけではありません。ただ、このメモは、私の勤務先の課長が書いて、日付と署名を付けてくれたものです。そして、今日、ミチヨさんは、私の派遣の契約が、もうすぐ終わると、おっしゃいました」


ミチヨさんの口が、半開きになった。


「そのことを知っているのは、派遣先と、派遣元と、私が相談した人だけです。派遣先に電話をした人が、結果を聞いたのなら、お話の筋は通ります。違うなら、誰から聞いたのか、教えてください」


返事は、なかった。ミチヨさんは、口を閉じ、袖口を握りしめた。着物の袖が、かすかに震えていた。


「母さん」


ヨウスケが、絞り出した。


「母さん、まさか、そんな」


ミチヨさんは、息子の顔を見なかった。


「それと、もうひとつ」


私は、座卓の上で手を組んだ。


「祖母について、工場の中で、悪い噂が広がっています。フミは、先代に取り入って、いい思いをした、と。その孫が、今度は社長の息子さんに取り入っている、と」


ミチヨさんの顔から、血が引いた。


「出所は、工場の事務のパートさんの話として聞いています。社長の奥さんが、事務所に来て、38年勤めた漬物の女性は誰かと、尋ねたと。パートさんの名前は、お教えできません。その人には、悪気はありませんでした」


「私は、ただ、名前を聞いただけよ」


ミチヨさんが、小さな声で言った。


「ただ、聞いただけ。その後のことは、知らないわ」


「聞いただけ、でしたら、そうなのでしょう」


私は言った。


「ただ、その名前が、この名簿の、旧名義と同じ名前です。祖母は、会社が一番苦しいときに、貯金を出して会社を支えた人です。その人の名前が、いま、悪口の材料になっています」


ミチヨさんの唇が、震えた。彼女が、何かを言いかけて、また閉じた。かわいそうだ、と、一瞬だけ思った。すぐに、胸の中の別の引き出しにしまった。


「用件を、言いなさい」


タダシさんが、静かに言った。声の調子が、変わっていた。社長の声だった。


「あなたは、何を求めている。株の買取か。役員の席か。それとも」


「売る話ではありません」


私は、はっきりと言った。


「役員の席も、望んでいません。今日は、事実を、お伝えしに来ました。それと、お願いが、いくつかあります」


「聞こう」


「まず、この念書には、署名しません」


私は、座卓の上の紙と封筒を、そっと押し戻した。


「ヨウスケさんとの婚約は、ヨウスケさんと私が、2人で決めます。親御さんの同意の上で、という話は、いつでも伺います。ただ、決めるのは、2人です。この紙に、先に書くものではありません」


封筒の端が、座卓の上で、わずかに浮いた。


「次に、会社と家族について口外しない、という項目。これは、祖母の名前を、この先も隠せということになります。私にはできません。祖母は、隠すような人ではありませんでした」


「300万円では、足りないということか」


ミチヨさんが、掠れた声で言った。先ほどまでの優しい声は、もうなかった。目に、険しい光が戻っていた。


「それとも、もっと欲しいの。いくら? はっきり言いなさい。だましていたのね。黙って、うちの会社に入り込んで」


「ミチヨ」


「だってそうでしょう。この子は、最初から全部知っていたのよ。知っていて、あの日、ここへ来たのよ。工員の孫のふりをして」


「ふりではありません」


私は、ミチヨさんを見た。


「祖母は、工員でした。孫は、派遣です。どちらも、本当のことです。私は、1つも、嘘をついていません。言わなかったことが、あるだけです」


「それが、だましていると言うのよ」


「ミチヨ」


タダシさんの声が、今度は、座敷を震わせた。


「黙れと言っている」


ミチヨさんは、びくりと肩を揺らした。タダシさんは、目を細めて、座卓の上の紙を見た。それから、私の顔を見た。


「他に、持ってきたものがあるな。出しなさい」


私は、クリアファイルから、残りの3枚を出した。トクさん、ヤスさん、ハルさんの、意向書面の写し。座卓の上に、横並びに置いた。


タダシさんは、1枚ずつ、手に取った。読む速さは、速かった。


「トク」


その名前を、彼は小さく呟いた。


「ヤス。ハル」


全員、先代の時代からの人たちだ。


「拘束力は、ありません」


私は、先に言った。


「総会で、どう投票するかは、それぞれの自由です。今の気持ちを、記録に残したものです」


「分かっている」


タダシさんは、書面を重ねて、座卓の上で揃えた。


「あなたの28%と、この3人の分。合わせれば、39%になるか」


数字は、すぐに出てきた。


「その上、持株会が、工場の人間の声に動くとなれば」


「持株会は、私は知りません」


私は言った。


「トクさんは、会員の意向を聞いて動くと、おっしゃっていました。私が何かを頼める立場ではありません」


「そうか」


タダシさんは、腕を組んだ。長い沈黙が、落ちた。庭の木の枝が、風に揺れて、障子の桟に影を落としている。ヨウスケは、うなだれたまま動かない。ミチヨさんは、袖を握りしめている。


タダシさんが、ゆっくりと、口を開いた。


「第2工場の件を、あなたは、どこまで知っている」


「見学の方たちが、来ていること。64人の従業員が、不安に思っていること。それ以外は、会社の手続を通さなければ、何も分かりません」


嘘ではなかった。弁護士から、取締役会の議題の中身は、教えてもらえなかった。


「明日の取締役会に、売却の件が出るのだと思います。ここに来る前に、あなたが、そう言いましたから」


私は、彼を見た。


「明日は大事な日だ、と。今日のうちに、家の中のことは片付けたい、と」


タダシさんの目が、わずかに動いた。長く、息を吐いた。


「……買い手との、基本合意の署名の、議題だ」


認めた。


「そうですか」


「だが」


彼は、書面を指で叩いた。


「筆頭株主が反対している。古参株主も、揃って反対の意向だ。この状態で、署名をして、買い手に約束を出す。その後で、株主総会が否決をしたらどうなるか」


彼は、自分に言い聞かせるように、続けた。


「会社は、買い手に対して、立場がなくなる。約束した相手に、説明がつかない。……署名は、急ぐべきではない」


「明日の取締役会では、基本合意の署名は見送る」


タダシさんは、はっきりと言った。


「買い手には、交渉の期限の延長を申し入れる。それは、私が、役員に提案する」


「ありがとうございます」


私は頭を下げた。


「ただし」


タダシさんが、鋭い目で付け加えた。


「売却の検討そのものは、やめない。会社の借入と、設備の老朽化は、事実だ。あなたが反対だからといって、会社の問題がなくなるわけではない」


「それは、会社が決めることです」


私は言った。


「私は、止めに来たのではありません。工場の人たちの声を、聞いてから決めてほしいと、お願いしに来ました。検討を続けるのなら、売却が必要な理由を、株主として、正式な手続で教えてください」


「資料の請求か」


「はい。弁護士を通して、書面で出します」


「……手続を通せ」


タダシさんは、短く言った。それは、拒否ではなかった。肩の力が、ほんの少しだけ抜けた。


私は、膝の横に置いていた紙袋を取り、中の瓶を、座卓の上にそっと置いた。


「これは、祖母の味の浅漬けです。先日、お渡しできなかったので」


ガラスの瓶が、座卓の黒い天板の上で、小さな音を立てた。


ミチヨさんが、顔を上げた。瓶の中の、白い大根と、緑のきゅうりを、じっと見ている。その目に、何かが、浮かんで消えた。


「お塩は、手で決めたものです」


そう言い残して、私は立ち上がった。


玄関まで、ヨウスケが追ってきた。廊下の板が、彼の足音で鳴った。3週間前は、聞こえなかった音だった。


私が靴を履いている間に、彼は、玄関の上がり口まで来て、立ち止まった。敷居の手前で。あと一歩を、踏み出せないように。


「カナ」


彼が言った。


「俺は、どうしたらいい」


靴の紐を結び終えて、私は立ち上がった。ヨウスケの顔は、真っ青だった。目の下に、くまがある。


私は、まっすぐ彼を見た。


「今日は、答えない」


「え」


「ヨウスケが決めること。お母さんに聞かないで、自分で決めて。決めたら、ヨウスケの言葉で、私に教えて」


彼は、唇を噛んだ。それから、ゆっくりと、頷いた。


「分かった」


戸を開けた。外の光が、廊下に差し込んできた。足もとに、白い粒は、なかった。小皿も、どこにもなかった。


私は、門まで歩いた。後ろで、足音がした。今度は、確かに、聞こえた。門の手前、玄関の石段のところまで、ヨウスケが追ってきた。


そこで、足音は、止まった。振り返らなかった。足音は、石段の上で止まったままだった。


門を出た。


夕方、私は、第2工場の門の脇のベンチに座っていた。日曜の工場は、静かだった。搬入口に、湯気は上がっていない。壁の白い四角だけが、夕暮れの中で、ぼんやりと浮かんでいた。


弁護士に、電話をした。経緯を話すと、弁護士は、何度か相槌を打ち、最後に言った。


「署名の延期を、本人の口から聞けたのは大きいです。ただ、取締役会の決定ではありません。明日の結果を待ちましょう」


「はい」


「今夜は、休んでください。資料の請求は、明日以降に」


通話を切ったあと、リクさんにメッセージを打った。


〈言いました。まだ何も終わっていません。でも、言えました〉


送信して、スマートフォンを膝に置いた。5分もしないうちに、ベンチの向こうの道に、人影が見えた。休日の私服姿のリクさんだった。走ってきたのか、息が少し上がっていた。


「ちょうど、近くにいたので」


嘘だな、と思った。ベンチに座りながら、彼の肩が、まだ上下しているのが分かったから。リクさんは、缶のお茶を、2本持っていた。温かいほうを、私に差し出した。


「お疲れさまでした」


「ありがとうございます」


受け取って、両手で包む。彼は、何も聞かなかった。私も、何も話さなかった。ただ、2人で、夕暮れの白い壁を見ていた。


しばらくして、私は、口を開いた。


「明日、取締役会があります。結果は、たぶん、夜に分かります」


「はい」


「祖母の名前と、祖母が何を持っていたのかを、あの家の人に、今日、自分の口で言いました」


言いながら、気づいた。声が、少し笑っていた。


「ずっと、言えなかったんです。祖母は、立派な人だったのに。言えば笑われると思っていて。……それを、今日、言いました」


「はい」


リクさんは、頷いた。それだけだった。


3週間前の土曜、私はここで、塩の粒が髪に残ったまま、動けなかった。靴のつま先にも、スカートの裾にも、白い粒がついていた。


缶のお茶を、ひと口飲む。


明日がある。それでも、私の名前は、もう、あの家の玄関の外に、立ち尽くしてはいなかった。


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