300万円の手切れ金
噂は、火曜の夕方に、私の耳に入った。
取締役会まで、あと6日。そう数えるのが癖になっていた。派遣先の最終出勤は、10日後。手帳の端に、数字だけが小さく並んでいる。その日の仕事を終えて、午後6時20分に工場の門の前へ着くと、ベンチの端に、白い帽子の人が座っていた。
リクさんは、私が来たのに気づいて立ち上がろうとして、やめた。そのまま、膝の上で両手を組んだ。いつもの、人ひとり分の隙間が、今日は少し狭く見えた。
「カナさん。先に、謝らせてください」
「何をですか」
「僕が、止められなかったことを」
声が、いつもより低かった。私は、黙って隣に座った。
「昨日の昼から、工場の中で、変な話が回ってます」
リクさんは、足もとの地面を見たまま言った。
「第2工場の漬物の、昔の工員さんの話です。『フミは、先代に取り入った人だ。目をかけてもらって、いい思いをした。その孫が、今度は、社長の息子さんに取り入ってる』」
空気が、ひやりと冷えた。フミ、と、祖母の名前が、他人の口から出ていた。
ミチヨさんに、祖母の名前を教えた覚えはない。ヨウスケにも言っていない。リクさんとトクさん、ヤスさん、ハルさん以外、誰にも。どこから出たのか、頭の中が真っ白になった。
「その話は、どこから」
「事務のパートさんが、言ってました。先週の水曜か木曜に、社長の奥さんが、事務所に来たそうです。昔から勤めている人に、38年、漬物の現場で働いた女の人は誰だったか、聞いて回ったって」
38年。漬物。土曜の玄関で、私が胸を張って言った数字だった。
「パートさんは、悪気なく、『フミさんだったと思いますよ。先代さんに、可愛がられてましたよね』と答えたそうです。そのあと、奥さんは、『そう。取り入るのが上手な人だったのね』と言った。それが、そのまま、広まりました」
リクさんの声が、かすかに震えた。
「奥さんは、フミさんが株主だとは、知らないみたいです。ただ、カナさんのお祖母さんの名前を知りたかっただけで。それなのに」
怒りで、指先が冷たくなった。
「リクさんは、何か言われましたか」
聞くと、彼は少し黙った。
「昼の休憩室で、古株の班長に言われました。『最近、ベンチでよく話してる子がいるだろう。あれが、その孫じゃないのか』って」
「それで」
「ご本人に聞いてください、と言いました。それ以上は、何も」
「それだけ、ですか」
「あと、『フミさんは、取り入るような人じゃないです』とも、言いました」
リクさんは、ばつが悪そうに、帽子のつばをつまんだ。
「班長に、余計なことを言うなと怒られました。製造リーダーなんだから、波風を立てるな、と。……でも、黙っていられなかったんです」
「ありがとうございます」
声が震えた。
「でも、リクさんの立場が」
「大丈夫です」
大丈夫ではなさそうな顔で、彼は言った。
「僕は、ここで働いて、まだ8年です。フミさんと一緒に働いたこともありません。でも、あのレシピ帳を毎日見てます。あの字の人が、人に取り入って何かをもらうような人だったなんて、僕には、どうしても思えないんです」
私は、膝の上で手を握りしめた。祖母は、朝4時半に工場へ入った。誰より早く手を洗い、誰より遅くまで立っていた。それが、一言で汚されようとしている。
「この噂は、どのくらいの人が聞いていますか」
「たぶん、第2工場の半分くらい。広がり方が、速くて」
リクさんは、ゆっくりと言った。
「それと、持株会の会員の中にも、揺れ始めた人がいます。『社長に逆らうと、うちらの立場が』って」
持株会は、20%。会員の意向を聞いて動く、とトクさんは言った。もし、会員の気持ちが割れたら。日が暮れてきた。搬入口の灯りが点いて、湯気が白く光った。
「今夜は、もう戻ります」
私は立ち上がった。
「また、連絡します」
リクさんは、頷いた。連絡先は、10日前に、お互いの電話番号を教え合っていた。
水曜の夕方、リクさんが、お年寄りを1人連れてベンチに来た。サチさんは、79歳。小さな体に、紫色のカーディガンを着て、杖を持っていない代わりに、リクさんの腕につかまっていた。
「あんたかい」
サチさんは、私の前に立つなり言った。
「フミさんの孫というのは」
リクさんは、一歩下がって、帽子のつばを握っていた。
「はい。カナです」
サチさんは、じっと私の顔を見て、それから、急にその場にしゃがみ込みそうになった。リクさんが慌てて支えた。
「目が、そっくりだ。口のあたりも」
そう言って、サチさんは、涙をこぼした。
「私は、フミさんと一緒に、あの工場で30年以上、並んで立ってた。朝は、2人で一番乗りで、よく競争した」
声が、かすれていた。
「あの人が、取り入るなんて。そんなことが、ある訳がない。先代さんが困ったとき、助けてやったのは、フミさんの方だ。あの人は、お金のことで人に頭を下げたことは、一度もなかった」
サチさんは、私の手を取った。ごつごつした、冷たい手だった。
「あんたのお祖母さんは、立派な人だったよ。誰が何を言っても、私は知ってる」
「サチさん」
私も、泣いた。ひとしきり泣いたあと、サチさんは、涙を袖で拭いて、言った。
「何かできるなら、言いなさい。私にできるのは、この口くらいだけど」
「ありがとうございます。今は、聞いていただけただけで」
サチさんは、満足そうに頷いて、リクさんに支えられながら、帰っていった。
その夜の午後9時過ぎ、スマートフォンが鳴った。知らない番号だった。出ると、嗄れた男の人の声が、「ノブです」と名乗った。
「夜分に、すまんな」
「いえ」
「この前の話だが」
ノブさんは、一度、言葉を切った。
「書面は、書けん」
予想はしていた。それでも、胸の奥が、きゅっと縮んだ。
「理由を、伺ってもいいですか」
「専務さんが、昨日、うちの畑に来た」
専務のテツ。ヨウスケの叔父にあたる人だ、と弁護士から聞いていた。
「来期の契約の見直しの話だった。数量を減らすとか、単価を見直すとか、いろいろな。それと一緒に、あんたのお祖母さんの話が出た」
「どんな話ですか」
「悪い噂だ。わしは、半分も信じとらん。だが、専務さんは、『その孫が、いま会社に迷惑をかけている』と言った」
私は、携帯を握りしめた。専務のテツが、ミチヨさんの噂を、そのまま使っている。それとも、噂を使いたい人間が、使ったのか。
「ノブさん」
「分かっとる。あんたに非があるとは、思っとらん」
ノブさんは、苦しそうに言った。
「ただ、うちは、嫁と孫と、畑で食っとる。会社に切られたら、困る」
「はい」
「すまんな。フミさんには、恩があるんだが」
「いえ。ノブさんのせいではないです」
そう言うしかなかった。
電話を切ったあと、私は、しばらく動けなかった。机の上に、3枚の署名の書面。トク、ヤス、ハル。11%。ノブの3%は、もう戻ってこない。加えて、持株会の会員の気持ちが、揺れている。
待てば、待つほど、崩れる。
私は、紙の裏に、曜日と数字を書いた。取締役会は、月曜の午後3時。その前の日曜が、トクさんに約束した、私の期限。
あと、4日。
木曜の午後6時30分、弁護士の事務所を訪ねた。書面を机に広げ、噂のこと、ノブさんの電話のこと、持株会のことを、順番に話した。弁護士は、メモを取りながら、静かに聞いた。
「分かりました」
話し終えると、弁護士は言った。
「当初の予定通り、日曜に、場を選んで話しますか」
「はい」
迷わなかった。
「それとも、取締役会の席で、他の方法を取りますか」
「取締役会は、私が出る場所ではありません」
私が言うと、弁護士は小さく頷いた。
「では、日曜です。何を持っていくか、確認しましょう」
弁護士は、ファイルから、3種類の書類を取り出した。1つ目は、会社が発行した、名義書換の受理通知書。2つ目は、株主名簿記載事項の証明書。会社の総務部長の押印がある。3つ目は、先日、派遣先から受け取った電話メモの写し。
「トクさん、ヤスさん、ハルさんの書面は、写しを作っておきます。原本は、あなたの手元に残してください」
「はい」
「持ち出すのは、この4点だけ。見せるのと、渡すのは別です。コピーは渡して、原本は持ち帰ってください」
3週間前の玄関では、何も示さなかった。示せば、塩はもう落ちてこなかったはずなのに。今日は違う。祖母の名前を、これ以上汚させないために、示す。
「ひとつだけ、確認させてください」
弁護士は、ペンを置いた。
「今回の件で、あなたは、売却案を止めたいのか。それとも、あなたの祖母と、あなた自身を守りたいのか」
私は、少し考えた。
「祖母と、自分を守りたいです。売却をどうするかは、会社が決めることです。ただ、決めるなら、ちゃんと、工場の人たちの声を聞いてからにしてほしい」
「では、倒しに行くのではなく、事実を示して座る、ということで」
金曜の夜、ヨウスケから電話が来た。14日ぶりの声だった。
「カナ。元気?」
「うん」
「その……母さんが、ちゃんと謝りたいって言ってるんだ」
受話器の向こうで、ヨウスケが、ほっとしたような息をした。
「日曜の午後2時に、家に来てくれないかな。父さんもいる。母さんは、反省してるんだ。この前のことを、ちゃんと話し合いたいって」
反省している。その言葉を、私はそのまま信じるほど、素直ではなかった。電話メモの、あの口調。パートさんから祖母の名前を聞き出した、あの執念。反省した人のすることではない。
それでも、私は言った。
「分かった。行く」
「本当に?」
声が、跳ねた。
「ありがとう。迎えに行こうか」
「いい。自分で行く」
「そっか。……待ってる」
電話の向こうで、ヨウスケが、何かを言いかけてやめた気配がした。私も、何も聞かなかった。
通話を切ったあと、携帯の画面に、ヨウスケの名前がしばらく残っていた。彼が、私を好きだという気持ちを、疑ってはいない。ただ、その気持ちは、母親の前では、役に立たない。
土曜の朝は、早起きした。午前5時。まだ薄暗い台所で、キャベツと大根と、きゅうりを切った。塩は、計らなかった。指でつまんで、手のひらで、すくうように。
手で決める。瓶に詰めて、冷蔵庫に入れた。日曜の朝に、取り出す。
それから、電車で、祖母の墓に行った。
郊外の丘の上にある霊園で、墓石は小さく、まだ新しい。花を換えて、水をかけた。手を合わせると、風が、線香の煙を斜めに流した。ここに、祖母がいる。そう思ったことは、あまりなかった。いるのは、あの台所だった。あの手だった。
「おばあちゃん」
小さく、呼んだ。
「明日、言ってくる」
返事はない。風だけが、答えるように、枯れ葉を転がした。
「怒られるかな。勝手に、言うなって」
祖母は、人に自慢をする人ではなかった。株のことも、遺言のように、ほんの一言、話してくれただけだった。『あれは、先代さんがね、会社を守ってほしいって、預けてくれたものだから』。それだけ。
守ってほしい。その言葉の意味を、私はまだ、全部は分かっていない。
「行ってきます」
立ち上がって、もう一度、手を合わせた。丘の下に、街が広がっていた。遠くに、白い壁の古い建物が、小さく見えた気がした。
日曜の午後1時50分。ヨウスケの実家の前に、私は立っていた。
同じ門。同じ玄関の戸。3週間前の土曜の、あの日と、何も変わらない。変わったのは、私の手に、瓶が入った紙袋があることと、鞄の中に、3種類の書類があること。
チャイムを押す前に、深呼吸した。
1。2。3。
押す。数秒の沈黙のあと、戸が内側から開いた。
ミチヨさんが、立っていた。
小皿は、持っていなかった。足もとに、白い粒も、なかった。薄い藤色の着物に、きちんと結った髪。口もとが、にこりと上がっている。
「いらっしゃい、カナさん」
声が、甘かった。
「お待ちしていたのよ。さあ、お上がりになって」
靴脱ぎの上に、スリッパが揃えて置いてある。靴箱の上の花瓶には、秋の花が活けてある。ヨウスケは、奥の廊下の入口に立っていて、私と目が合うと、ぎこちなく頭を下げた。
3週間前の玄関が、嘘のようだった。嘘のように、整えられていた。この家は、準備をしている。
「お邪魔します」
靴を揃えて脱ぎ、上がった。通された座敷は、庭に面した、広い8畳間だった。床の間には軸が掛かっていて、座卓の上には、茶と和菓子が並んでいる。
座卓の奥に、タダシさんが座っていた。背広ではなく、濃い灰色の和服を着ていた。顔を上げて、私を一瞥した。
「座りなさい」
低い声だった。
私は、座卓の向かい側に正座した。紙袋を、膝の横に置く。ヨウスケは、座卓の端に、少し離れて座った。ミチヨさんは、お茶を淹れ直すと言って、私の前に湯呑みを置いた。
「この前のことは、行き違いがありました」
ミチヨさんが、柔らかく笑った。
「お互い、気が立っていたのよ。私も、言い過ぎたところがあったかもしれないわ」
塩については、一言もなかった。具体的なお詫びは、まだ伺っていない。返信にそう書いたことを、私は覚えていた。
「ミチヨさん」
「なに?」
「玄関で塩をまかれたことについては」
「ああ」
ミチヨさんは、手のひらをひらひらさせた。
「古い風習よ。あなたのことを、悪く思ったわけじゃないの。忘れましょう」
忘れましょう、と言われた。湯呑みの中の茶が、小さく波打った。自分の手が、震えていると気づいた。膝の上に、手を戻した。
タダシさんが、咳払いをした。
「今日は、はっきりさせておきたいことがある」
彼は、座卓の脇から、1枚の紙と、白い封筒を取り出した。
「明日は、大事な日だ。今日のうちに、家の中のことは、片付けたい」
大事な日。月曜の、取締役会のことだ。私は顔に出さないように、湯呑みを両手で持った。
「これを、読んでほしい」
紙は、私の前に、滑らされた。
簡単な文面だった。婚約関係の解消を、双方の同意のもとに確認する。今後、ヨウスケおよびその家族との連絡を一切行わない。東和フーズおよび家族に関する事柄を、第三者に口外しない。解決金300万円を受領した。
末尾に、署名と捺印の欄。念書、という字が、一番上に、太く印刷されていた。
ヨウスケの顔が、さっと青くなった。
「父さん。これは」
「口を挟むな」
タダシさんは、短く言った。
「あなたの今後の生活のために、お気持ちとして」
ミチヨさんが、にこやかに言った。
「派遣の契約も、もうすぐ終わると聞いたわ。300万円あれば、しばらく不自由しないでしょう」
派遣の契約が終わる。私は、ゆっくりと顔を上げた。
まだ、誰にも言っていない。派遣先と派遣元と、弁護士と、リクさん。それだけだ。どうして、この人は、知っている。
理由は、分かった。電話をした人が、結果まで聞いたのだ。腹の底が、静かに冷えていった。
「ミチヨさん」
「なあに?」
「お金の前に、お見せしたいものがあります」
タダシさんの眉が、動いた。
「署名が先だ」
「いいえ」
私は、静かに首を振った。
「署名の前に、読んでいただきたいものがあります。お願いします。5分だけ」
座敷の空気が、止まった。床の間の軸が、わずかに揺れた。庭の鹿威しが、ことり、と鳴った。
ヨウスケが、息を呑む音が聞こえた。
タダシさんは、私をしばらく見つめた。それから、顎で、促した。
「5分だ」
鞄を開けた。指が、驚くほど、静かに動いた。クリアファイルから、1枚の紙を取り出す。会社の透かしの入った、A4の証明書。総務部長の印が、右下に押されている。
座卓の上を、滑らせた。タダシさんの手元で、紙が止まった。
「東和フーズの、株主名簿の記載事項の証明書です。会社が発行したものです」
私は言った。
タダシさんの目が、紙面に落ちた。ミチヨさんの笑顔が、少し固まった。
一番上の行。私は、指をのばして、そこを示した。
筆頭株主、カナ。2,800株。28%。
その右の欄に、小さく添えてある。旧名義、フミ。相続。
私の名前の、すぐ下に、タダシさんの名前があった。2,400株。24%。




