匿名の苦情
総務部長のコウジは、月曜の午後3時50分に、応接室の鍵を開けた。
東和フーズの本社は、築30年の4階建てだ。応接室は2階の奥にあり、窓からは第1工場の屋根と、その向こうの空き地が見える。56歳のコウジは、この会社に33年勤めている。入社した最初の配属は、第2工場の事務だった。
机の上に、ファイルを1冊置いた。表紙には何も書いていない。中身は、先週の木曜に総務の若手から上がってきた、株主名簿の更新報告の写しだ。毎月のことで、いつもなら、数枚の紙を月次の報告に綴じて終わる。
今月は、1行だけ、いつもと違うものがあった。筆頭株主の欄。フミ、の名前が消えて、カナ、と書き換えられている。割合は、28%。社長のタダシの24%を、上回ったままだ。
コウジは、その1行を、もう何度目か分からないくらい見つめた。フミという名前は、コウジにとって、紙の上の字ではなかった。毎年、総会の少し前になると、細い丁寧な字の宛名書きの封筒が届いた。中身は委任状で、いつも同じ文面だった。議決権の行使を、社長にお任せいたします。どうぞよろしくお願い致します。
その人が、この春に亡くなったことは、風の便りで知っていた。名義はそのままで、何の申し出もなかった。申し出がなければ、名簿は動かせない。このままだと、今年の総会の通知は、故人の宛名で出ることになる。そう思っていた。
それが、先月になって、相続人から名義書換の請求が届いた。弁護士からも、通常の確認だという問い合わせが来た。次の取締役会の日程を知りたい、という趣旨だった。その相続人が、今日、会いたいと言ってきた。
午後4時ちょうどに、ノックの音がした。
入ってきたのは、思っていたより若い女性だった。20代の後半だろうか。紺色の上着に、飾りのない鞄。派遣で事務をしていると、履歴の欄のどこかで読んだ気がしたが、それは気のせいかもしれない。背筋がまっすぐで、座る前に、深く頭を下げた。
「株主のカナです。お時間をいただいて、ありがとうございます」
「総務部長のコウジです。どうぞ、おかけください」
向かい合って座った。彼女は、鞄からクリアファイルを出して、机の上に置いた。それから、すぐには開かずに、言った。
「最初に、申し上げておくことがあります」
「どうぞ」
「私は、社長のご子息のヨウスケさんの婚約者でもあります」
コウジは、ペンを持つ手を止めた。ヨウスケは、営業部の若手だ。社長の息子ということもあって、社内ではそれなりに目立つが、最近は元気がないように見えていた。婚約者がいるという話は、人づてに聞いたことがあった。名前は知らなかった。
「失礼ですが、それは」
「はい。株のことは、ヨウスケさんも、ご家族も、まだ知りません。今日は、株主として、会社の手続を教えていただきたくて来ました。それなのに、この点を黙っていると、後になって、隠していたと言われると思いました。だから、先に言います」
コウジは、少しだけ、息を吐いた。隠し事のある人は、こういうふうには話し出さない。
「承知しました。まず、お約束できることとできないことを、分けてお伝えします」
コウジは、ファイルの上に手を置いた。
「受理の報告は、通常の月次報告に載せています。会社として、株主の情報を隠すことはしていません。社長がそれをお読みになったかどうかは、私からは申し上げられません」
「はい」
「一方で、あなたがご子息の婚約者であること、今日のご相談の内容。これは、私事です。会社の公式な事柄ではありませんので、私から社長や他の役員にお話しすることはしません」
カナは、わずかに目を伏せた。それから、顔を上げた。
「ありがとうございます。それで、十分です」
「資料のご請求については」
コウジは、慎重に言葉を選んだ。
「株主として何を、どの範囲で見られるかは、会社の定めと、顧問の弁護士の確認を通して、私どもが判断することになります。お見せできるものと、できないものがあります。書面でご請求いただき、取締役会に諮ってお答えする形になるでしょう」
「次の取締役会は、再来週の月曜日、と伺っています」
「はい。議題は、開催前に取締役へ通知されます。株主の方に、先にお知らせする決まりはありません」
「分かりました」
彼女は、頷いた。落胆した様子はなかった。
「ひとつだけ、伺ってもいいですか」
「どうぞ」
「第2工場について、会社は、どう考えているのですか」
コウジは、すぐには答えなかった。窓の外で、空き地に風が吹いて、枯れかけた草が揺れた。第1工場の屋根の向こう、見えない場所に、第2工場がある。33年前、コウジが初めて机を与えられた建物だ。
「それは、私が答える立場にはありません」
ゆっくりと言った。
「ただ、これだけは言えます。会社の誰も、嫌がらせで、何かをしようとしているわけではありません。借入があり、設備が古い。そのことは事実です。どうするのがよいのか、私も、まだ分かりません」
カナは、じっと彼を見て、小さく頭を下げた。
「ありがとうございます。今日は、それだけで十分です」
帰り際に、彼女は、応接室のドアの前で、ふと立ち止まった。
「毎年、委任状が届いていたと、弁護士から聞きました。祖母の字ですか」
「はい」
コウジは、少し笑った。
「細くて、とても丁寧な字でした。いつも、『どうぞよろしくお願い致します』と」
彼女の肩が、ほんの少し、揺れた。
「お話しできて、よかったです」
ドアが閉まったあと、コウジは長いあいだ、机の上のファイルを見ていた。
勝手に、動かない。勝手に、隠しもしない。そう決めて、彼はファイルを閉じた。
* * *
火曜の朝、派遣先の自分のデスクに座ったとたんに、気づいた。いつもと、空気が違う。
隣の席の人は、パソコンの画面から目を離さない。向かいの席の人は、私が座ると、さっと席を立った。給湯室の方で、小さな話し声が、私の足音で止まった。
午前11時、課長のユキさんが、私の席の横に立った。
「ちょっと、いいですか。小会議室に」
40代の、いつも落ち着いた話し方をする人だ。今日は、声の底が、少し硬かった。小会議室の長机には、紙が1枚、裏返して置いてあった。ユキさんは、向かいに座って、少し迷ってから、それを表にした。
「今朝の9時過ぎに、会社の代表番号に、電話がありました。私が受けたんです。名乗りませんでした。声は、50代か、60代の女性。内容は、メモしてあります。読みます」
「お願いします」
ユキさんは、紙を持って、読み上げた。
「『そちらにいる派遣のカナという人は、約束した書類を出さない不誠実な人です。ある家庭の事情に口を出して、家族の仲を壊そうとしています。そういう人を、ビルに入れておいていいのですか。派遣の人を使うなら、ちゃんとした人にしなさい』」
小会議室が、しんとなった。私は、膝の上で、手を握った。
派遣の人。土曜の午前11時、玄関で聞いた言葉。「派遣の人を、うちの敷居はまたがせません」。同じ口調で、同じ言い方だった。
電話の主を、私は断定できない。声を聞いたわけでもない。でも、分かった。
「ユキさん。このお電話は、仕事のことではなく、私の私事です」
声が、震えないように、お腹に力を入れた。
「ご迷惑をおかけして、申し訳ありません。ただ、私は、この職場でお預かりしている書類や、取引先に関することで、約束を破ったことは、一度もありません。それだけは、はっきり申し上げます」
ユキさんは、頷いた。
「それは、私も分かっています。この半年、あなたの仕事に、困ったことはありません」
「ありがとうございます」
「ただ、先方が何者かが分からない以上、会社としては、聞き置くだけでは済まない部分もあって」
「お願いが、ひとつあります」
私は、言った。
「そのメモを、書面でいただけませんか。電話があった日時と、相手が言った内容。それと、会社として何を確認したのか、その経緯も。写しで構いません」
ユキさんの眉が、動いた。
「それは、どうして」
「私は、これを自分の記録として残しておきたいんです。今後、同じことが起きたときのために。それから、派遣元にも、私の口から説明をしておきたくて」
ユキさんは、しばらく考えた。
「部長に確認します。たぶん、大丈夫だと思います。金曜までには」
「お願いします」
席に戻ったとき、膝から力が抜けた。机の下で、爪が手のひらに食い込んだ痕が残っていた。弁護士の言葉が、頭の中を回った。今回のような圧力を受けたとき、日付と文面、実際に起きたことを、そのまま記録に残しておくこと。
小さく息を吐いて、手帳を開いた。日付と時刻を書いた。10月14日、火曜、午前9時過ぎ、代表番号に電話。50〜60代の女性。午前11時、小会議室。
* * *
水曜の夕方、派遣元の営業所を訪ねた。担当のショウさんは、30代で、いつも早口の人だ。事前に連絡を入れていたので、小さな面談ブースにお茶を用意してくれていた。
「先方から、事情は聞いています」
私が話し終える前に、彼は言った。
「カナさんの勤務に、問題があったという話ではないことも。派遣先の課長は、そう言っていました」
「はい」
「ただ、正直に言うと、就業先が不安を感じるというのは、派遣元にとっては、扱いが難しいんです。契約を続けるかどうかは、先方の判断になるので」
派遣先と契約しているのは、派遣元だ。私と契約しているのも、派遣元。私と派遣先の間には、直接の契約がない。
「私のほうで、何かできることはありますか」
「記録を、残してください。それは、いい動きです。あとは、私どもで、先方と話します」
ショウさんは、手帳にメモを取りながら、顔を上げた。
「念のため聞きます。カナさんから見て、この電話に心当たりは?」
その問いに、私は少しだけ迷った。言えば、ヨウスケの家の話になる。言わなければ、話は進まない。
「あります。ただ、確証はありません。確証のないことを、人のせいにしたくありません」
「それは、正しいと思います」
ショウさんは、ペンを置いた。
「確証が出てきたら、また教えてください」
面談ブースを出るとき、彼が小さな声で付け足した。
「電話メモの写しが出たら、2部ください。1部は、うちで保管します」
金曜の午後6時過ぎ、ユキさんが私を呼んだ。
小会議室で渡された紙は、A4が2枚。1枚は、電話のメモの写し。受電の日時、内容、相手が名乗らなかったこと、対応した人の名前。もう1枚は、経緯を書いた短い文書で、会社として確認した事項が並んでいた。派遣元に連絡したこと。本人から事情を聞いたこと。勤務上の問題は確認されていないこと。
勤務上の問題は確認されていない。その一文を、私は何度も読んだ。
1枚目と2枚目の端に、日付と、ユキさんの小さな署名があった。
「ありがとうございます」
頭を下げると、ユキさんは、目をそらした。
「それで……もうひとつ、お話があるんです」
嫌な予感がした。
「今月末で、契約の期間が満了します。更新は、しないことになりました」
ユキさんは、言葉を選びながら言った。
「私は、反対しました。ちゃんと仕事をしている人だと、部長にも言いました。でも、『火のないところに煙は立たない』と」
「……そうですか」
声が出た。思ったより、静かな声だった。
「最終出勤は、再来週の金曜、ですか」
「はい。ご迷惑を、おかけします」
ユキさんは、深く頭を下げた。私は、それを止めて、言った。
「ユキさんは、書類を出してくださいました。それで十分です」
胸の奥で、熱いものが渦を巻いていた。
帰りの電車で、ショウさんから連絡が来た。次の就業先の候補が、3件。ただ、どれも条件が、今より下がる。時給が1,850円から、1,650円前後に。開始は、早くて来月の15日から。最終出勤の翌日から、15日まで、2週間ほどの空白ができる。
アパートに帰って、ノートを開いた。家賃は7万2,000円。光熱費と通信費で1万8,000円ほど。食費。貯金は、62万円。祖母の葬儀のとき、かなり使ってしまった残りだった。
計算した。2週間の空白なら、耐えられる。1か月でも、削れば、何とかなる。それでも、貯金が目に見えて減っていくと思うと、胃のあたりが冷たくなった。
机の引き出しの奥の、茶封筒に目が行く。株の書類。紙の上では、私は、この会社でいちばん多く持っている人だ。けれど、その株は、今日の夕飯代にも、ならない。
売れば、お金になる。弁護士にも、そう説明された。でも、売らない。
ノートを閉じて、台所に立った。冷蔵庫の中には、キャベツと、大根が少し。塩を指でつまんで、味を見た。
手で決める。小さく、つぶやいた。
* * *
土曜の午前10時、リクさんは、私を、駅から少し歩いた住宅地の古い家へ連れて行った。庭に、柿の木がある。実が、いくつか熟していた。門の表札には、「トク」と、墨で書かれていた。
「ここで、待っててください。先に、話をつけてきます」
リクさんは、門の中に入って、玄関の戸を叩いた。しばらくして、戸が開いた。私は、道の端で待った。心臓の音が、耳の中で響いていた。
数分後、リクさんが手招きした。玄関を入ると、仏壇のある和室に通された。畳の上に、小柄なおじいさんが座っていた。72歳と聞いていた。日焼けした顔、短く刈った白髪、節くれだった手。
トクさん。元の第2工場長で、今の持株会の理事長。
「リクから、話を聞いてほしい人がいると言われた」
声は低く、よく通った。
「誰だとは、聞いとらん。あんたかね」
「はい。カナと申します」
私は、畳に座って、手をついた。
「祖母は、フミです。この第2工場で、38年働いていました」
トクさんの目が、大きく開いた。しばらく、何も言わなかった。仏壇の線香の煙が、まっすぐ立ちのぼっていた。
「……フミさんの」
ようやく、彼は言った。
「目元が、似とるな」
「そう言われたのは、初めてです」
「そうか。そうか」
トクさんは、手のひらで、目の端を押さえた。
「わしが工場長のときの、フミさんは、いちばん早く来る人だった。朝の4時半には、もう手を洗っておった。誰も、真似ができんかった」
リクさんが、少し離れたところで、うつむいて座っていた。
「今日は、ひとつだけ、聞きたくて来ました」
私は言った。
「今の会社が、第2工場を売るかもしれないという話を、トクさんは、どう思っていますか」
トクさんの顔が、すっと引き締まった。返事までに、少し時間があった。
「わしは、反対だ」
はっきりと、言った。
「あそこは、フミさんたちが、手で育てた工場だ。建物は古い。設備も古い。だが、あれを他所へ売り渡して、浅漬けの名前だけ残して、中身が変わってしまうのは、違う」
「持株会としては」
「持株会は、わしひとりのものじゃない。会員が、64人いる。全員の気持ちを聞いて動く決まりだ。今は、まだ聞いておらん」
彼は、膝を叩いた。
「ただ、わし個人としては、反対だ」
「あの、トクさん。それを、書面にしていただくことは、できますか」
私は、鞄から、弁護士が用意した紙を出した。短い文面だった。私は、第2工場の事業譲渡に、反対の意向を持っています。この書面は、議決権の行使を拘束するものではなく、意向を示すものです。
トクさんは、老眼鏡をかけて、それを読んだ。
「議決権を縛るものじゃない、と書いてあるな」
「はい。総会で、実際にどう投票されるかは、トクさんの自由です。これは、今の気持ちを、記録に残すためのものです」
「正直な書き方だな」
トクさんは、少し笑った。
「わしは、フミさんの孫に、嘘を頼まれたくなかった。それなら、署名する」
墨で、トク、と書いた。日付も入れた。4%。トクさん個人の持株の分だ。小さな数字だった。でも、私にとっては、初めての他人の名前だった。
「ひとつ、条件がある」
トクさんは、老眼鏡を外して、私を見た。
「あんたが誰かは、わしは口外せん。だが、いつまでも黙っているのは、約束できん。いつまでだ」
「次の取締役会の、前日までです。再来週の月曜日の、前の日の日曜まで。それまでに、私が、自分の言葉で話す場を作ります」
「分かった。それまでは、誰にも言わん」
トクさんは、仏壇の方に、ちらりと目をやった。
「フミさんが、孫に、ちゃんと渡したんだな」
日曜は、リクさんの案内はなく、弁護士に教えられた住所と、トクさんが書いてくれた紹介の一筆を頼りに、1人で回った。
午前は、元営業役員のヤスさん。78歳。杖をついていたけれど、背筋は昔の会社員そのままだった。話を聞いて、黙って署名した。4%。午後は、元経理のハルさん。75歳。「フミさんの孫に、私が嘘をついたら、あの世で叱られるわ」と笑って、ペンを走らせた。3%。
これで、11%。私の28%と合わせれば、39%。
数字を足しながら、少しだけ、気持ちが上向いた。夕方、日曜の最後に訪ねたのは、郊外の畑の中の農家だった。
ノブさん。70歳。会社の契約農家で、キャベツと大根を、第2工場に納めている人だ。持株は3%。縁側に座って、湯呑みのお茶を出してくれた。私の話を黙って聞いて、最後まで、うんともすんとも言わなかった。
「書面は、今日は、書かんでもいいかな」
ようやく、ノブさんは言った。
「もう少し、考えたい。急ぐ話じゃないんだろう」
「はい。急ぎません」
私は、頭を下げた。玄関を出て、門に向かう途中、ノブさんが、ぽつりと言った。
「うちの契約もな。見直しの時期なんだ」
足が、止まった。振り返ると、ノブさんは、縁側に座ったまま、畑の方を向いていた。夕陽が、収穫の終わった畝を、赤く染めている。
見直し。誰が、いつ、何を。聞きたかった。でも、聞けなかった。
「ありがとうございました」
もう一度、頭を下げて、門を出た。
農道を歩きながら、鞄の中の3枚の書面を、そっと押さえた。トクさん、ヤスさん、ハルさん。4%、4%、3%。3人の署名は、確かにある。でも、4人目は、まだ空白だ。
取締役会まで、あと8日。
風が、冷たくなっていた。




