私のことは、あなたの話じゃない
木曜の夕方、派遣先を出たのは午後5時32分だった。
電車を乗り継いで、あの駅で降りる。土曜に歩いた道を、逆の方向からたどる。手には、紙袋。中には、1週間前に漬けた浅漬けの瓶が入っている。冷蔵庫で冷やしたまま眠らせておいたので、味は落ちていないはずだった。渡せなかったものを、持っていく。
ヨウスケからの着信は、昨夜から4件たまっている。折り返していない。ミチヨさんからの返信は、まだ来ない。来ないことのほうが、何かを待たれているようで、落ち着かなかった。
工場の門の脇に、錆びた鉄のベンチがある。日は傾いて、白い壁がうすい橙色に染まっていた。搬入口から、湯気とお酢の匂いが流れてくる。土曜より、働いている人の気配が濃い。台車の音、水を流す音、誰かが誰かを呼ぶ声。
ベンチに座って待つつもりだった。けれど、座る前に、搬入口から白い帽子が出てきた。
「あ」
リクさんだった。ゴム長靴のまま、両手に空のコンテナを重ねて持っている。私を見て、少し目を丸くして、それから、軽く頭を下げた。
「この前の、方ですよね。目は、大丈夫でしたか」
「はい。おかげさまで。あの、カナといいます。先週の土曜はタオルと、お茶を」
「ああ、そんなの」
彼はコンテナを壁際に置いて、帽子を直した。
「いいんです、本当に。倉庫に余ってたやつなので」
「でも、お礼を言わずに帰ったので」
私は紙袋を持ち上げた。
「これ、お返しというほどのものではないんですけど。浅漬けです。先週の土曜に漬けたものなので、少し日が経っていますが、冷蔵庫に入れておきました」
リクさんの顔つきが、変わった。驚いた、というより、仕事の顔になった。
「いただいていいんですか」
「あまり、人に食べてもらえなくて」
嘘ではなかった。食べてもらうつもりだった人は、他にいた。
リクさんは瓶の蓋を開けて、鼻を近づけた。それから、ポケットから出した使い捨ての箸で、きゅうりをひと切れつまんだ。口に入れる。噛む。
そのまま、動かなくなった。
搬入口の奥で、誰かが笑う声がした。台車の車輪が、床の上を転がっていく。リクさんは、きゅうりを飲み込んでも、何も言わなかった。もう一切れ、食べた。大根の薄切りも食べた。
「……あの」
私のほうが、耐えられなくなって、聞いた。
「しょっぱすぎましたか」
「いえ」
彼は、短く首を振った。
「逆です。ちょうどよすぎて、驚きました。塩の入れ方が、うちの古いやり方と同じなんです。今の工場では、もう機械で量って入れるので、こういう味は出なくなっていて」
古いやり方。昔の工員さんのレシピ。先週、彼がそう言っていたのを思い出した。
「誰に教わったか、聞いてもいいですか」
リクさんは、ゆっくりと言った。言いたい気持ちは、胸の中に、もうほとんど溢れていた。けれど、まだ早い。
「祖母です」
それだけ答えた。
「そうですか」
リクさんも、それ以上は聞かなかった。瓶に蓋をして、両手で大事そうに持った。
「これ、事務所の冷蔵庫に入れて、休憩のときに少しずつ食べます。ありがとうございます」
ありがとうございます、と言われるのは、この1週間で初めてだった気がした。私は、思わず笑ってしまった。ほんの少しだけ。
リクさんは、ベンチの端に腰を下ろした。私も、反対の端に座った。間に、人ひとり分の隙間があった。
「工場は、忙しいんですか」
聞いてみた。
「忙しいというか、落ち着かないというか」
彼は、空を見上げて、言葉を探した。
「今月に入って、見学が3回目なんです。この前の土曜みたいな、背広の人たち。誰も、何の見学かは教えてくれません。でも、みんな、分かってるんだと思います。第2工場は、64人いるんですけど、休憩室の話題は、最近そればかりで」
「売られる、ということですか」
「誰も、そうは言ってません。言っちゃいけないことに、なってるみたいで」
リクさんは、笑おうとして、うまく笑えなかった。
「建物は、築52年です。冷蔵庫は、夏にもう1回壊れかけました。排水もよくない。僕らも、古いのは分かってるんです。直すのにお金がかかるのも。でも、直すのと、売るのは、違うので」
直すのと、売るのは、違う。その言葉は、そっくりそのまま、私の胸に落ちた。
弁護士の事務所で聞いた、3週間後の月曜日。取締役会。議題は、開催前に通知される。見ただけでは、何とも言えない。確かなことは、何ひとつない。
「みなさん、不安ですよね」
「そうですね。特に古い人たちは。ここで30年、40年働いてきた人が、まだ何人もいるので」
門の内側を、リクさんが指さした。事務所の入口の脇の、白い壁が見えた。そこだけ、四角く、色が違っていた。うす汚れた壁の中に、板が掛かっていた跡のように、白い長方形が浮いている。
「あそこには、昔、勤続の表彰の板が掛かってたそうです。長く勤めた人の名前が、書いてあって。僕が入るより前に、改装のときに外されたと聞きました」
「どこへ?」
「さあ。捨てられたのか、しまってあるのか。誰も、知らないって」
私は、白い四角を見た。そこに、祖母の名前があったのかもしれなかった。38年。表彰されるのに、十分な年月だ。祖母はそういう板を、私に話したことは一度もなかった。
「引き止めてしまって、すみません」
私は立ち上がった。
「お仕事の途中なのに」
「いえ。こっちこそ、浅漬け、ありがとうございました」
リクさんも立って、頭を下げた。
「また、いつでも。ベンチは、誰が座ってもいいので」
同じことを言う。私は、少しだけ笑って、駅へ向かった。振り返ると、白い帽子の人は、まだ門の前で、瓶を抱えて立っていた。
* * *
金曜の午後5時58分。私は、派遣先のデスクで、パソコンの右下の時計を見ていた。
5時59分。60秒が、長い。隣の席の人が、帰り支度を始める。コピー機の音。誰かの電話。フロアの蛍光灯が、いつもと同じ白さで、私の手元を照らしている。
午後6時。何も起きなかった。
画面を更新しても、メールは来ない。ミチヨさんが指定した期限は、静かに過ぎていった。出さなかった私にも、罰は降ってこない。胸の奥で張っていた何かが、すとんと落ちた。落ちたあとに、冷たい空洞が残った。
午後8時前、ヨウスケから電話が来た。今度は出た。
「やっと出てくれた」
声が、かすれていた。
「カナ、会えないかな。今夜。家の近くまで行く」
「……駅前の喫茶店なら」
私が住むアパートの最寄りの駅の前に、夜10時まで開いている古い喫茶店がある。安心できる場所を、自分で選んだ。午後9時ちょうどに、彼は来た。
紺色のコートの肩が、少し濡れていた。外で雨が降り始めたらしい。向かいの席に座ると、すぐにウェイトレスが来て、彼は何も見ないで「ホットを」と言った。私の前には、飲みかけの紅茶がある。
「ごめん、最初に言わせて」
ヨウスケは、膝の上で手を組んだ。
「土曜のことは、本当にごめん。母さんがあんなことをするとは思ってなくて。止めるべきだった。分かってる」
「うん」
「それで、水曜の夜に、返信、母さんが読んだ。……すごく、怒った」
「うん」
「泣いて、父さんにも言って。父さんも、社長の家にそんな返事をする人は、って」
社長の家。その言い方に、胸の奥が、すっと冷えた。
「ヨウスケは、どう思ったの」
「俺は」
彼は、言いかけて、止めた。コーヒーが運ばれてきて、白いカップから湯気が上がる。
「俺は、カナの返信は、強すぎるとは思った。でも、間違ってはいないとも思ってる」
「強すぎる、は、いらない」
「ごめん」
「間違ってない、は、母さんに言って」
「……言えたら、苦労しない」
吐き出すように、彼は言った。少し驚いた。初めて、彼の口から、ミチヨさんへの本音が聞こえた気がした。
ヨウスケは、カップに手をのばして、また引っ込めた。
「身上書のことは、形だけだって、俺は思ってた。出して、母さんが安心して、そのあと、普通に結婚の話を進められるって。でも、カナがあんなふうに断ったから、母さんは」
「形だけなら、出さなくてもいいはずでしょう」
静かに、言った。
「形だけのものを、お詫びの名前で、期限つきで、断ったら婚約はなかったことに、って書いてくる人の、何が形なの」
ヨウスケの喉が、動いた。
「……そうだよな」
「聞きたいことが、もうひとつある」
私は、指先を、テーブルの下で握った。
「私は、派遣先の名前を、ミチヨさんに教えていない。メールには、派遣元と派遣先を書けって書いてあったけど、私は書かなかった。それなのに今日、会社に戻ってから、なんとなく視線を感じた。誰かに調べられているような。気のせいかもしれない。でも、念のため、聞いておきたくて」
本当は、視線を感じたわけではなかった。ただ、ミチヨさんが何を知っているのか、確かめたかった。
ヨウスケは、目を伏せた。カップの中のコーヒーが、揺れた。長い、沈黙だった。
「……水曜の夜に」
小さな声だった。
「母さんが、泣きながら聞いてきたんだ。カナはどこで働いてるの、って。教えてくれないなら、ヨウスケも信用できないって。それで、ビルの名前だけ」
「ビルの名前を」
「会社の名前じゃない。ビルの名前だけ。それくらいなら、と思って」
ビルの名前が分かれば、入居している会社は、調べれば出る。私は、息を吸った。叫びたくなかった。叫ぶ前に、胸の中で、数を数えた。1、2、3。
「そう」
それだけ、言った。
「怒らないの」
「怒ってるよ」
自分でも驚くほど、普通の声だった。
「でも、怒るのは、後。先に決めたいことがある」
私は、紅茶のカップを、受け皿の上に置いた。
「ヨウスケ。これから、3つのことは、私が許可するまで、お母さんに話さないで。私の仕事。私の家。そして、私の祖母のこと」
「祖母さんのこと?」
「そう」
彼の表情が、困惑に曇った。
「でも、俺は、母さんには何でも話すって」
「うん。聞いた。この前の電話で」
私は、まっすぐ彼を見た。
「何でも話すことが、あなたの誠実さなのは分かった。それを、変えてほしいとは言わない。でも、私のことは、あなたの話じゃない。私が許可した分しか、あなたの口からは出さないで。それができないなら、私は、あなたに何も話せなくなる」
ヨウスケは、しばらく黙っていた。外の雨が、窓ガラスを細く打っている。
「……約束する」
彼は言った。
「分かった。話さない。母さんに、何を聞かれても」
目が、泳いだ。ほんの一瞬、ごまかすような色が浮かんだのを、私は見てしまった。
「カナは、俺に、何か隠してる?」
突然、彼が聞いた。心臓が、どくんと鳴った。
言ってしまいたい、という気持ちが、ちらりと動いた。この人は、私に指輪をくれた人だ。
「言えることと、言えないことがある」
私は、そう答えた。
「言えないことは、あなたのことじゃない。私のこと。それは、私が決める」
「……そっか」
彼は、傷ついた顔をした。テーブルの上の伝票を、ヨウスケがさっと取った。
「ここは、俺が」
「うん。ありがとう」
店を出る前に、ヨウスケのスマートフォンが、テーブルの上で光った。画面に、「母」の文字が見えた。
彼は、慌ててそれを伏せた。伏せたまま、私を見た。
「後で、かけ直すから」
私は、何も言わなかった。
外に出ると、雨は小降りになっていた。傘をさした彼の背中が、駅の向こうへ遠ざかっていく。肩が、少し丸まって見えた。
私は、傘を持たずに歩き出した。濡れてもよかった。頭の中が、ずっと熱かったから。
* * *
土曜の朝は、よく晴れた。昨夜の雨が嘘のように、空気が澄んでいる。午前9時過ぎ、私は工場の門の前に立っていた。
休みの日だから、本当は、工場は動いていない日のはずだった。けれど、搬入口の奥から、洗浄の水の音が聞こえる。第2工場は、土曜も半日、浅漬けの仕込みをするらしい。そのことを、先週、私は知らなかった。
ベンチに座って、待った。30分ほどして、リクさんが出てきた。休憩の時間だったのだろう。両手に缶のお茶を持っている。
「あ、また」
驚いた顔をして、それから、持っていた缶のひとつを、私に差し出した。
「温かいのが、ありました。今日は、冷たくないやつです」
受け取ると、手のひらに、じんわりと熱が伝わった。
「ありがとうございます」
「いえ」
リクさんは、木曜と同じように、ベンチの端に座った。間に、人ひとり分の隙間。
私は、缶を両手で包んだ。指が、少し震えている。寒さではなかった。
「リクさん」
「はい」
「お話ししたいことが、あります。聞いてもらってもいいですか。ご迷惑なら、断ってください」
彼は、飲みかけの缶を、膝の上に置いた。
「迷惑なら、そう言います」
まっすぐな返事だった。
「どうぞ」
息を吸った。
「私の祖母は、この工場で働いていました。38年。ずっと、漬物の現場で」
リクさんの肩が、わずかに動いた。
「名前は、フミといいます。最後の2年は、病院にいました。この春に、亡くなりました」
そこまで言うと、喉の奥が、ぎゅっと詰まった。フミ、という名前を、誰かに向かって声に出すのは、葬儀の日以来だった。
リクさんは、何も言わなかった。ただ、帽子のつばを、ゆっくりと上げて、私の顔を見た。
「フミさん」
彼が、繰り返した。
「フミさんの、お孫さん」
「はい」
「……うちには、フミさんのレシピ帳が、あります」
声が、低くなっていた。
「事務所の、鍵のかかる棚の中に。表紙も取れかけた古いノートで、僕が漬物の担当になったとき、前の担当に渡されました。『これは、触るときは手を洗え』って。字は、細くて、きれいで。分量とか、温度とか、朝の気温でどう変えるかとかが、ぎっしり書いてあって」
彼は、膝の上の缶を、見つめた。
「いちばん最後のページに、1行だけ、書いてあります。『塩は手で決める』って」
息が、止まった。
「それ、祖母の、口癖でした」
声が、震えた。
「量るな、って、いつも言ってました。台所でも。私が計量スプーンを出すと、『それは手じゃない』って、笑って」
「ああ……」
リクさんは、天を仰いで、ふっと息を吐いた。
「だから、木曜の浅漬けが。そうか。そうだったのか」
納得したように、何度も頷いた。それから、慌てたように、顔を拭った。帽子の下の目が、赤かった。
私も、気づけば、泣いていた。昨日の夜も泣かなかったのに。ここで泣くのは、変な気がした。けれど、止まらなかった。
リクさんは、何も言わずに、胸ポケットから新しいタオルを出した。この人は、いつもタオルを持っているのか、と、泣きながら思った。笑いそうになった。
「すみません」
「いえ」
「まだ、続きがあるんです」
涙を拭いてから、私は言った。
「祖母は、この会社の株を、持っていました。会社が大変だった時期に出資して、増資のたびに少しずつ引き受けて。亡くなった後、それは、私が相続しました。名義も、2週間前に、書き換えが終わっています」
リクさんは、じっと、私を見ていた。
「量は、弁護士の方から、株主の中でいちばん多いと聞きました。……社長の家の人は、まだ誰も、それを知りません」
言った。言ってしまった。肩から、何かが落ちた。同時に、怖くなった。もう戻れない、と思った。
リクさんは、しばらく黙っていた。風が、ベンチの横を通り過ぎた。搬入口の向こうで、水の音が続いている。
「僕には」
ようやく、彼は言った。
「株のことは、分かりません」
正直な声だった。
「会社の持ち主がどうとか、決める人がどうとか。そういうのは、僕らの仕事じゃなくて、知らないことのほうが多いです。だから、今聞いたことで、何をどうしたらいいのか、僕には分からない」
「はい」
「でも」
彼は、膝の上の缶を持ち上げた。
「先週の土曜に、ここで目を洗ってた人にお茶を出したのは、僕です。それは、カナさんが誰の孫でも、何を持っていても、変わらないです。だから、態度を変えるとか、そういうのは、しません」
胸の奥で、固く結んでいたものが、少しだけ、ほどけた。
「それと」
リクさんは、ゆっくりと続けた。
「他の誰にも、言いません。ここで聞いたことは。約束します」
「……ありがとうございます」
「ただ、ひとつだけ、いいですか」
彼は、少し迷うように、言葉を探した。
「トクさんという人がいます。元の工場長で、今は持株会の理事長をしている人です。みんなから信用されてて、フミさんのことも、きっとよく知ってます。もし、カナさんが、古い人たちの気持ちを聞きたいなら、トクさんに、『話を聞いてほしい人がいる』とだけ、伝えることはできます。誰かは言いません。会うかどうか、決めるのはトクさんです」
「お願いできますか」
「分かりました。今日の昼にでも」
リクさんは、頷いた。
「無理に、会わなくてもいいので。気が変わったら、言ってください」
私は、缶のお茶を飲んだ。温かさが、喉を通っていく。
「リクさん。祖母のレシピ帳、今度、見せてもらえますか」
「事務所の棚なので、勝手に出せるかは分かりませんが。聞いてみます」
「お願いします」
立ち上がって、私は頭を下げた。門を出て、数歩歩いたところで、振り返った。
リクさんは、ベンチの前に立って、手を上げていた。白い帽子が、朝の光の中に、小さくあった。私も、手を上げた。
歩き出す。葬儀のあと、祖母の名前を、人前で言うことはなかった。
フミ。小さく、口の中で、もう一度つぶやいてみた。
自分の手のひらを、見る。塩加減を、20年かけて覚えた手だった。
まだ、少し、震えていた。




