玄関の塩
玄関の戸が開いた瞬間、白い粒が私の足もとに散った。
乾いた音がした。靴のつま先にも、この日のために買ったスカートの裾にも、粗い粒が点々とはりついた。
「お帰りはあちらよ。派遣の人を、うちの敷居はまたがせません」
ヨウスケの母、ミチヨさんが、塩を入れた小皿を片手に立っていた。口もとだけが笑っている。私は手土産の紙袋を持ったまま、動けなかった。土曜の午前11時。約束した時刻ちょうどに、チャイムを押したのだ。
「あの、本日は結婚のご挨拶に」
「挨拶? うちの恥になる人と、何を挨拶することがあるの」
玄関の奥に、ヨウスケが立っていた。29歳の、私の婚約者。去年の冬に指輪をくれて、「うちの親には俺から話しておくから」と笑った人。彼は私を見て、足もとの塩を見て、それから、靴箱の上の花瓶に目を落とした。
口は開かなかった。
この家に来るまでの1か月、私は何度も練習した。母を早くに亡くし、祖母に育てられたこと。派遣で事務の仕事をしていること。大きなことは言えないけれど、働いて、自分の分は自分で払ってきたこと。
手土産は、祖母に教わった浅漬けにした。朝5時に起きて漬けたものを、ガラスの瓶に詰めて、紙袋に入れてきた。塩加減だけは、祖母の手の感覚を、20年かけてようやく覚えたものだ。
「どこの誰かも分からない人をね、息子の嫁にはできないの」
ミチヨさんは小皿の塩を指先につまみ、手を振った。もう一度、塩が飛んで、私の髪と肩にかかった。
「派遣で食べている人でしょう。ご両親は? お母さんは亡くなった? お祖母さんに育てられた? それで、うちの息子の何が分かるの」
「……ヨウスケさんのことは、分かっているつもりです」
声が震えないように、お腹に力を入れた。
「ヨウスケ。あなたからも言いなさい。この人は、ちゃんと説明してくれたの?」
彼は、やっと顔を上げた。私と目が合った。ほんの1秒、助けを求めるような色が見えた気がした。けれどそれは、私にではなく、母親に向けられていた。
「……母さん、玄関では」
それだけだった。私を庇う言葉でも、塩をまいたことを責める言葉でもなかった。玄関で騒がないでほしい、という意味にしか聞こえなかった。
廊下の奥から、背広姿の男の人が出てきた。ヨウスケの父で、東和フーズの社長のタダシさんだ。会社の写真で見た顔より、ずっと大きく見えた。
「玄関で何をしている。近所に見えるだろう」
私を見ない。見えているのは、開いたままの戸の向こうの道だけらしかった。
「お父さん、この人ね、お祖母さんに育てられたんですって。お父さんも聞いてあげて」
ミチヨさんの声に棘がある。タダシさんは、ちらりと私の紙袋を見た。
「で、そのお祖母さんは、何をしていた人なんだ」
聞かれた。聞いてくれた、と思ってしまった。私は背筋を伸ばした。
「祖母は、東和フーズの第2工場で、38年働いた人です。ずっと漬物の現場で、朝いちばんに工場に入る人でした。今日の浅漬けも、祖母の味で」
言いながら、胸が熱くなった。祖母のことを、この家の人に話せる日が来た。そう思った。
玄関の空気が、止まった。ミチヨさんが、ふっと息を吐いた。
「工員さん」
笑いが、そのまま顔に貼りついた。
「そう。工員の孫が、社長の家に入ろうというの。身のほどを知らないにも、ほどがあるわ」
「母さん」
ヨウスケの声は、さっきより少しだけ大きかった。けれど、それだけだった。ミチヨさんが振り向くと、彼は口を閉じた。一歩出しかけた足を、元の位置に戻した。
私は、その足を見ていた。
肩から提げた鞄の底に、先週受け取った書類が入っている。弁護士に説明されたことを、私はまだ自分のことだと感じ切れていなかった。祖母が遺したもの。東和フーズの株。弁護士からは、株主の中で祖母の持株数がいちばん多かった、と説明された。
今日の夜、ヨウスケにだけ話すつもりだった。結婚の挨拶が終わって、2人だけになったら、順番に説明しようと決めていた。祖母が守ってきたものだと。あなたの家の会社の話だと。
その鞄の中身を、ここで出せば、塩はもう落ちてこない。そう思う自分が、いちばん嫌だった。
お金で黙らせたくて、ここに来たんじゃない。祖母の話を聞いてほしくて、来たのだ。
「何か、おっしゃることは?」
ミチヨさんが、小皿を持ったまま首をかしげた。
私は、ヨウスケを見た。心の中で10まで数えた。
1。2。3。
彼は靴箱の花瓶を見ていた。
7。8。9。
10。
彼は、動かなかった。
私は紙袋を持ち直し、塩のついた靴のまま、深く頭を下げた。叫ぶこともできた。泣くこともできた。でも、ここで泣いたら、「やっぱり」と言われる気がした。
「失礼します。ヨウスケさん、今夜、お電話します」
戸を押して、門を出た。数歩歩いて、瓶の入った紙袋を、手に抱え直した。浅漬けは、ひとつもこぼれていなかった。
髪を払うと、白い粒がぱらぱらと肩から落ちた。アスファルトの上で、それは雨のあとの霜のように、すぐに見えなくなった。後ろで、戸が閉まる音がした。
ヨウスケの足音は、追ってこなかった。
* * *
駅へ向かうつもりだった。足は、反対へ歩いていた。東和フーズの第2工場は、あの家から歩いて10分もかからない。子どものころ、祖母のお弁当を届けに何度も来た場所だ。白い壁の古い建物で、土曜の昼でも、裏手の搬入口から湯気が上がっている。
門の脇に、錆びた鉄のベンチがある。祖母が休憩のたびに座っていたと聞いた。私はそこに腰を下ろして、ようやく、膝が笑っていることに気づいた。
紙袋の中の瓶が、かたんと鳴った。渡せなかった。誰にも食べてもらえなかった。
目の奥が熱くなってきたとき、髪の根もとがちりっと痛んだ。塩の粒が、まだ残っている。かゆくて、手でこすると、目に入った。
「うっ」
「大丈夫ですか」
近くで声がした。作業着の男の人が立っていた。白い帽子、白いエプロン、胸に名札。「リク」と書いてある。たぶん私と同じくらいの歳だ。
「目、洗った方がいいです。そこに水道があるので」
彼は門の内側を指さした。それ以上は何も言わなかった。理由も、どうしたのかも、聞かなかった。私は片目を押さえたまま、水道で顔を洗った。冷たい水が、粒と一緒に熱さも流してくれた。
顔を上げると、横からタオルが差し出された。新品のタオルだった。紙の帯がついている。
「倉庫の予備なんで、気にしないでください。あと、これ」
缶のお茶が、ベンチの端に置かれていた。
「冷たいやつしかなくて、すみません」
「あの、お金を」
「いらないです。ここ、誰が座ってもいいベンチなんで」
リクさんはそう言って、少し離れた搬入口のほうへ向き直った。私は紙の帯を外して、顔を拭いた。そのあいだ、ずっと背中を向けていてくれた。
タオルから、洗剤と、かすかな酢の匂いがした。祖母の作業着の匂いに似ていた。缶の蓋を開けて、ひと口飲む。喉が通ると、やっと息ができた。
そのとき、門の前に黒い車が止まった。降りてきたのは、背広の人が5人ほど。ひとりが首から入館証を下げ、案内役のように先に立っていた。背広の人たちは、工場の外壁や、屋根や、駐車場の広さを見ながら、小声で何か話している。工場見学にしては、手帳に書き込む手つきが慣れすぎていた。
リクさんの背中が、少しだけこわばった。彼は私に聞かれる前に、小さな声で言った。
「今日は、見学が入ってるんです。気にしないでください」
見学の人たちが門の中に消えるのを、リクさんは黙って見送っていた。嫌なものを見る顔ではなかった。ただ、手の中の何かを強く握りしめているような顔だった。買い手、という言葉が頭の片すみに浮かんだ。確かな根拠はなかった。浮かんだだけだ。
「ここの、お仕事の方ですか」
私は聞いた。
「製造のリーダーです。漬物の担当で」
「漬物……」
「はい。浅漬けが、いちばん古い商品で。昔の工員さんのレシピが、今も残ってるんです」
私は紙袋を見下ろした。昔の工員さん。その中に、祖母もいたかもしれない。いたに決まっている。38年も、毎日立っていたのだ。
言いたくなった。私の祖母です、と。けれど今日一日で、その言葉はもう、一度、人に笑われてしまっている。私は黙って、お茶をもう一口飲んだ。
「ゆっくりしていってください。僕は戻ります」
リクさんは軽く頭を下げた。名前も、事情も、彼は何も聞かなかった。最後に一度だけ、振り返った。
「タオルは、返さなくていいので」
搬入口の向こうに白い帽子が消えたあと、私は長いあいだ、ベンチから立てなかった。
その夜、午後9時。アパートの部屋で、私はヨウスケの番号を押した。2回目の呼び出し音で、彼が出た。
「……カナ。今日は、本当にごめん」
謝る声は小さかった。後ろで、テレビの音が聞こえる。あの家のどこかの部屋だ、と思った。
「聞きたいことがあるの」
「うん」
「塩をまかれたとき、どうして何も言わなかったの」
沈黙があった。長かった。
「……あの場で俺が母さんに逆らったら、余計にこじれたと思う」
「余計に、って、もっと悪くなる前のところで、私はもう、あそこに立っていたんだけど」
「ごめん。分かってる。分かってるよ」
「分かっているなら、なぜ」
自分でも驚くほど、声は静かだった。叫ぶほうが、楽だったかもしれない。でもここで叫んだら、彼はまた「落ち着いて」と言うだろう。それが、なんとなく分かった。
「後で、俺から母さんに話すから」
ヨウスケは言った。
「俺は、母さんには何でも話すんだ。昔からそうなんだよ。隠し事は、嫌だから」
何でも話す。隠し事は嫌だ。彼にとっては、誠実さのつもりなのだろう。その声は、少しも悪びれていなかった。
私の鞄の中には、今も書類がある。今夜、話すつもりだった。祖母の名前と、株のことと、あなたの家の会社の話を。
「カナ? 聞いてる?」
「聞いてる」
口を開けば、言える。言えば、明日の朝には、ミチヨさんが全部を知っている。そう思うと、舌が重くなった。
嘘をつくわけじゃない。ただ、今は言わない。それは、私の選択だ。
「今日は、疲れた。もう寝るね」
「待って、カナ。俺は」
「おやすみ、ヨウスケ」
通話を切った。机の上には、リクさんにもらったタオルが、畳んで置いてある。広げると、思ったよりも大きな、やわらかいタオルだった。
返さなくていい、と彼は言った。私は、それを両手で握りしめて、初めて少しだけ泣いた。
* * *
月曜の昼休み、派遣先のビルの休憩室で、メールが届いた。差出人の欄に、見慣れない名前が出ている。「ミチヨ」。ヨウスケが教えたのだろう。私の私用アドレスを、あの人は知っていた。
件名は「先日のお詫びとお願い」。画面を開く指が、少し冷たくなった。
「先日は失礼いたしました。お詫びの気持ちとして、これからお互いに誤解のないよう、以下を書面にまとめてお送りください。
1 最終学歴と卒業年
2 現在の年収と、直近3年分の源泉徴収票の写し
3 派遣元と派遣先の名称、契約期間
4 ご親族の経歴(特にお祖母様の勤務先、勤続年数、持病の有無)
期限は今週金曜、午後6時までとします。ご提出が難しい場合は、ヨウスケとのお話はなかったことに」
お詫び、という文字の隣に、「ご提出が難しい場合は」と書いてある。その場で声が出そうになった。出さなかった。休憩室には、同じ部署の人が2人いる。
画面を閉じて、お弁当の続きを食べた。味がしなかった。
帰りの電車の中で、ヨウスケからもメッセージが来た。
〈母さんから連絡行ったと思う。形だけだから、出してくれたら落ち着くと思う。俺も間に入るから〉
形だけ。何度か読み直した。怒りより先に、足もとが抜けるような感じがした。形だけ、と彼は書く。塩のことには、一言も触れない。
アパートに戻って、鞄を置いて、私は机に向かった。書こうと思えば、書ける。学歴も年収も、隠すほど大きなものではない。祖母のことだって、正直に書けば、勤続年数は38年。工場の名前は東和フーズ第2工場。
──そこまで考えて、手が止まった。祖母の名前を書けば、名簿と同じ名前になる。それだけが理由ではなかった。
4番目の項目に、「持病の有無」と書いてある。祖母は、最後の2年、病院にいた。その2年を、ミチヨさんは、私の「経歴」として値踏みするのだろう。祖母が働いて、守ったものを。お金でも、名前でもなく、祖母が毎朝いちばんに工場へ入った、あの38年を。
私は、ペンを置いた。書いて出せば、きっと許してもらえる。結婚のほうは、守れるかもしれない。
けれど、そうやって手に入れた「結婚」の中で、祖母の話をする日は、二度と来ない気がした。
それなら、出さない。私が決める。
そう決めたら、肩のあたりが、ふっと軽くなった。同時に、膝の力が抜けた。怖くないわけがなかった。結婚を失うかもしれない。婚約者を失うかもしれない。それでも、書かない。
その夜は、そこまでにして、寝た。返信は、まだ書かなかった。
水曜の午後6時30分。会社帰りに、駅前のビルの5階にある法律事務所へ寄った。祖母の相続を引き受けてくれた弁護士の事務所だ。
名義書換が済んだあとの確認、という名目で予約した。本当は、誰かに話を聞いてほしかった。
「それは、なかなかの内容ですね」
弁護士は、私が見せたメールを最後まで読んで、静かに言った。
「出すつもりは、ありますか」
「ありません」
先に答えた。
「出さないと、自分で決めました。ただ、断ったあとのことを、まだ整理できていなくて」
「それは自然です。ひとつ、先にお伝えしておくことがあります」
弁護士は書類ばさみから、1枚の紙を出した。
「先週、名義書換のあとの通常の確認として、会社の総務に問い合わせました。株主としての総会や取締役会の予定を知りたい、という趣旨です。回答は、次の取締役会は、今日から3週間ほど先の月曜、午後3時開始。議題は、開催前に取締役へ通知される、とのことでした」
「3週間後の、月曜」
「議題の中身までは、会社は教えてくれません。これは通常の運用で、不審なことではありません」
私は、土曜に見た背広の人たちのことを思い出した。黒い車。外壁を見上げる人たち。手帳に書き込む手。
「あの。ヨウスケの家の会社が、第2工場を、売ろうとしているかもしれません。見ただけで、確かなことは何も」
「見ただけでは、何とも言えませんね」
弁護士は頷いた。
「ここで、確認させてください。あなたは、いつ、ご自分から家の方々にお話しになりたいですか」
この質問を、私は一晩中、考えていた気がする。
「……今は、まだです」
「理由を伺ってもよろしいですか」
「ヨウスケは、母親に何でも話すと言いました。私が言えば、翌日には、あの家の全員が知ります。そのとき私は、塩をまかれた私のままで、祖母の話を聞いてもらえるのか。それとも、株を持った人として、扱いを変えられるのか。……どちらも、嫌なんです」
弁護士は、ペンを動かさずに聞いていた。
「分かりました。では、待つ目的を決めましょう。感情で待つのと、準備のために待つのとでは、結果が変わります」
「準備、ですか」
「はい。ただ、期限なく待つ必要はありません。取締役会が3週間後なら、それより前に、あなたが自分の言葉で話す場を選べるところまで、準備を進めるということです。方向は、3つ考えられます」
弁護士は指を折った。工場で長く働いた人たちや、持株会が、今の会社の動きをどう受け止めているか。それは、誰かを動かすためではなく、まず聞くために。
今回のような圧力を受けたとき、日付と文面、実際に起きたことを、そのまま記録に残しておくこと。
会社に何を求められるか。請求できる資料や手続きは、私と弁護士で、会社を通して確認していくこと。
「その順番でなくても構いません。ただ、どれも、あなたが先に行動できるものです」
帰り道、事務所のビルの階段を降りながら、考えた。待つ、というのは、何もしないことじゃなかった。祖母が毎朝、誰より早く工場に入ったように。
駅のベンチで、スマートフォンを開いた。ミチヨさんのメールの、返信画面。私は文章を打った。何度も消して、短くした。
「ミチヨ様
先日のご案内に、お返事いたします。
ご依頼の書面は、提出いたしません。
学歴や収入、祖母の経歴は、私とヨウスケさんが2人で話すことで、他の方にお預けするものではないと考えています。
また、先日、玄関で私に塩をおまきになったことについて、具体的なお詫びをまだ伺っておりません。それが先だと思っております。
ヨウスケさんとの婚約は、ヨウスケさんと私の2人で話して決めることです。ご意見は伺いますが、可否をお預けするものではありません。
カナ」
婚約の行を、もう一度、読む。送信、の文字の上に、指をのせた。指先が震えた。ヨウスケの顔が浮かんだ。靴箱の花瓶を見ていた横顔。それでも、押した。
「送信しました」
小さな表示が出て、画面が暗くなった。午後8時12分。
電車を待つ人の列の中で、私は鞄の底の書類を、鞄の上から押さえた。まだ、何も終わっていない。けれど、要求は断った。
3分もしないうちに、スマートフォンが震えた。ミチヨさんからの返信ではなかった。ヨウスケの名前だった。
〈母さんが、すごく怒ってる。電話に出て〉
私は、画面を見つめたまま、すぐには出なかった。ホームに、電車の灯りが近づいてくる。
金曜の午後6時が来る前に、やることがある。リクさんに、お茶とタオルのお礼を言いにいこう。祖母のことは、まだ言わない。ただ、今の工場で働く人たちがどう思っているのか、自分の耳で聞きたかった。




