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君と過ごした五ヶ月間  作者: スプーン
PR
6/8

五、

 「あら?どうしてあなた、ここにいるの?」

 「…幽霊生活、終わりにしようと思いまして。」

 「まだ一月あるじゃないの。」

 「私、やることやったので。」

 「彼の世話焼き?」

 「…見てたんですか?」

 「えぇ、このテレビで。ドラマ見てるみたいで面白かったわよ?」

 「……。」

 「そんな顔しないでよ~。でも、なんで彼に全部話さないの?記憶がないから?」

 「…私はただ、彼にちゃんとした生活を送って欲しいだけです。私はもう死んでるし、彼が安定した仕事に就いて、素敵な奥さんを見つけて、家族を作ってもらいたいと思ったから…。」

 「ふぅん、だから自分の存在は邪魔になるって?」

 「思い出されたら、そうなるじゃないですか。」

 「だからその前にもう消えようって?」

 「はい。」

 「…ん~、ま、いっか。分かった、じゃあさっそく。手続きしようかしら。」

 「はい、お願いします。どうすればいいですか?」

 「何にもしなくていいわよ。…なかなかいいコンビだったわよ、あなたたち。見ていて面白かったわ。さて、じゃあ目をつぶって、そうそう、そのまま立っててね。最後に言っておくけど。私、実は死神って呼ばれるの嫌いなの。だから、最近は趣味で色々やってて、こう呼ばれることもあるのよ…、」


―ここはとある町のとある大きな病院、から少し離れた古い町工場。自宅兼事務所内にて。

 (あかーん…あぢー…、あぢーよぉぉー…。)

 いくら扇風機を回して団扇で扇いで冷たい麦茶を飲んでも、八月の猛暑は俺に一撃でダメにさせる必殺技をしかけてくる。どこもかしもも全開にしている窓からは、生ぬるい風が吹いてちりんちりんと風鈴を鳴らしている。そこへセミの大合唱が合わさればもはやソファで横になって観客に徹するしかない。

 「親父ぃー…、まじでさ、クーラー買わへん?いくらなんでもこれはあかんやろ…。」

 「このあかんたれ(※根性なし)がっ!しょうもないこと言うてたら、いてこます(※こてんぱんにする)ぞゴラァ!」

 「しょうもないことやない、こら大事なことやで!従業員のモチベーションに関する、ひいてはこのしょうもないボロ工場の将来がかかった、」

 「しばくぞゴラァ!どこがしょうもないボロ工場や!こんな立派な宮殿を…あン?おい智ォー、お前の電話震えとんで。」

 「?誰…うっひょぉぉぉぉ!」

 スマホの画面表示を見た瞬間、全身の血が駆け巡った。

 「狂うたんかお前!」

 (これが狂わずにいられるか!いや、無理や!)

ブブブ、と揺れるスマホを片手にどたばたと二階へ駆け上がり、自分の部屋へ向かう。暑さも忘れて自分の部屋の戸を閉めると、一呼吸置いてから通話ボタンを押した。

 「も、もしもし!茉莉ちゃん!?」

 「…黒谷先輩、あのすみません、今、大丈夫ですか?」

 「ぜんっぜん大丈夫!て、てか茉莉ちゃん、俺にかけてくるなんて初めてちゃう!?」

 というか何年も前に番号を教えてからこれが初めてだ。電話一つかかってくるだけでこんなにも嬉しいなんて。二十六にもなって情けないけど、ドクドクと鼓動が治まらない。それは断じて息切れ・動悸はいキューシン!ではない。誰かが今の俺を見たら、主人に大喜びしている犬がしっぽを振っているように見えるだろう。

 「で、で、どないしたん!?」

 「…お姉ちゃんが…。」

 あれだけうるさかった心臓が、一瞬で凍りついたのが分かった。茉莉ちゃんの声のトーンもいつも以上に低くて弱弱しい。これは嫌な予感がする。暑さのせいではない汗が額からツーと流れ落ちる。

 「…どう、したん…。」

 茉莉ちゃんからの電話があれほど嬉しかったはずなのに、今はその先を聞くのが怖い。

 「―たんです。」

 それを聞いた瞬間、俺は再び部屋を飛び出し階段を駆け降りた。

 「さっきからじゃかあしいで!っておい智、お前作業着のままどこ行くつもりや!」

 「悪りぃ親父、ちょっと病院に行ってくるわ!緊急さかいに!あと車借りるで!」

 「あぁぁん?そのままサボったらしばくぞゴラァ!」

 怒鳴り散らす親父を無視して、俺は車のキーをひっつかみ、茉莉ちゃんたちのいる病院へ急いで駆け付けた。

 「…茉莉ちゃん!」

 ノックもせずに病室へ駆け込むと、茫然とした茉莉ちゃんがゆっくりと立ち上がりこちらに振り返った。いつも無表情な茉莉ちゃんの頬に涙が一筋流れている。

 「…茉莉ちゃ、」

 「黒谷先輩、お姉ちゃんが…、お姉ちゃんが…。」

 それだけ言うのが精いっぱいだったのか、茉莉はふらふらとしてその場にへたり込んだ。一瞬倒れるのかと思って、すぐに茉莉ちゃんの体を支えてやると、ぽすり、と茉莉が俺に寄りかかってきた。

 「…茉莉ちゃん、あの、さ…。不謹慎かもしれへんけどさ…。」

 小さな頭が自分の胸に寄りかかっている。抱きしめていいのか迷い、姉と同じようにふわふわした髪にそっと触れる。

 「…もしかして、俺に、一番に電話かけてきて、くれたん?」

 小さな頭がわずかに動く。それを見て、どうしようもない愛しさがせり上がって来て、今度こそ細い小さな茉莉ちゃんの体をぎゅっと抱きしめた。


 一之瀬がいなくなってから一週間経ったある日、俺はスマホの連絡先一覧をスクロールしていた。一つの連絡先を見て指を止める。そして迷うことなく、通話ボタンを押した。

 (…なんで気付かなかったんだよ、俺…。この手があっただろ…。)

 プルルルル、プルルルル、と何コール目かに、ようやく相手が電話に出た。

 「…もしもし?」

 「…あー…俺、だけど…。」

 「…もうオレオレ詐欺は古いんとちゃう?どうせならアタシアタシ詐欺のがよかったなぁ…。」

 何年経っても、こいつは相変わらずふざけている。でも同時にあの頃と変わっていないことでもあり、少しうれしく感じる。

 「…智芳、お前まだちゃらんぽらんなのかよ。」

 「…えっ、………まつ…はる…?……え、エエェェェェ!うそやん、モノホン!?」

 キィィィンと響く声に思わず吹き出してしまった。

 ―黒谷智芳。それは、大学時代の同級生で同じクラス、同じ空手部の男だった。

 二日後、俺は智芳とある昔よく居座っていたカフェで落ち合うことになった。五年ぶりに生れ育った田舎へ戻ってきたけど、昔とあまり変わらない景色にほっとした。

 「うっわ、まじで松春だ、ひぇー、なつかしー!」

 「なんで新幹線使ってバス乗り継いで遠路はるばるやって来た俺よりも、近所にいるオメェのほうが遅れんだよ。」

 「わーりっ、寝坊した!つーかまじあちー!」

 智芳は本当に大学生の時とほとんど変わっていなかった。黒ぶちの眼鏡、アシンメトリーの髪型、親父さんの影響でなまった関西弁。変わったところといえば、髪の色が少しだけ控えめの茶髪になったことぐらいだ。

 「作業着…ってことはお前、親父さんのとこで?つか、もしかして仕事…、」

 「さぼった。だーいじょうぶやって、ほんまにやばかったら電話するやろうし。工場が家さかい、休みっつー休みがいつかよう分からへんのや。まぁ気にすんな。あっ、コーヒー頼んではるし。おっちゃーん、俺コーラー!キンキンにひえた奴―!」

 「お前、マジで変わんねぇのな。ちょっと引くぞ。」

 「そういう松春は…なんかちょっと痩せたな。…元気だったんか?おばさんは?」

 「おう、一応な。おかんは、一年前に死んだよ。」

 何も言わず大学を中退して気まずいと感じていたのは俺だけだった。智芳は俺の番号が変わってしまって連絡が取れなかったらしく、だから連絡がこなかったのだと初めて知った。それから今までどう過ごしていたのか、何をやっていたのかお互いにあれこれ聞いて、色々と話しこんだ。

 「そかー、松春ニートなんかぁ。へー、ふーん。」

「テメェ、シめるぞ。」

「それにしても、そうか。おばさん、亡くなったんやな。おばさんには色々世話になったし、一度墓参りさせてもらわんとあかんなぁ。」

 「別にいらねぇよ。あの人、俺が事故にあってからなんか精神的におかしかったし。死んだ時、医者に安らかな顔って言われるくらいだったから、かえってよかったのかもしんねぇし。」

 智芳がすでに飲み終わったコーラの氷が、溶けてカランと音をたてた。

 俺が事故に合う前の母親は割と好きだった。いつも笑って、飯も作ってくれて、たまに智芳のとこ家族と一緒に遠出したこともあった。元々は、仲が良い母子家庭だったと思う。…それなのに突然あの人はあまり笑わなくなり、何か怯えるように俺に接し、そして、死んだ。

 「…なぁ、松春さ、その事故のせいで記憶、なくしたやんか。それ…、」

 そうだ、それが今日の本題なのだ。姿勢を正して「智芳。」と名前を呼ぶと、俺につられて智芳も背筋をピシっと伸ばす。

 「…単刀直入に聞くけどよ、」

 「な、なんやろか…?」

 「―俺、何を忘れたんだ?」

 ゴクリ、と智芳が唾を飲み込む。

 「俺が事故にあって目を覚ましたとき、お前怪我人相手に容赦なく質問攻めしてきたよな?」

 「うっ。…あのあとすぐに先生に怒られたわ…。その節はどうもすいませんでした。」

 「いや、もういいけどよ。…あんとき、お前俺に何を確かめた?」

 ―お前、なんで事故に合ったか覚えてへんの?

 確かあの時、智芳はそう俺に聞いた。それはなぜか覚えている。でもそのあとに俺が「知らない」と答えた質問がなんだったのか、どうしても思い出せない。あの時、智芳は俺に何を聞いたんだろうか。

 じっと智芳を見つめると、耐えられなくなったのか、ふいと目をそらされた。その反応がまるで一之瀬のようで、こいつを問いつめれば何か分かると、そう確信した。

 「言えよ。」

 「…な、なんで急にそんな、しかも今更やんか…。」

 「いいから、言えって。どいつもこいつも俺に隠しやがって…。」

 「…?誰のこと?おばさんのことか?」

 「は?なんであいつが出てくるんだよ。」

 「ナンデモアリマセン。」

 「何でもあるだろその反応は。あいつが何?どうかしたのか。」

 今の流れで、なぜ俺の母親が出てくるのだ。どいつもこいつも…という話から母親に繋がるということは、母親も俺に何かを隠しているということになるじゃないか。でも、そう言われればそうかもしれない。あいつは、俺がスマホを見ていると、友人と連絡を取るな、頼むから取らないでくれと泣きついてきたことがある。精神的に病んでいたのもあって、俺はそれ以上母親のヒステリックな姿を見たくなくて何も聞かなかったけれど、まさか。

 「…あいつになんか、言われてんのか。」

 「…えっとぉ…。」

 「頼むから、話してくれ。俺どうしても知りてぇんだよ。」

 さっきまで目をキョロキョロさせて明らかに動揺していた智芳が、「あぁー…もう…なんでこのタイミングで…。」と机に突っ伏してしまった。そして顔を上げたかと思ったらメガネをはずし、目がしらに手を当てて何やら唸っている。相当迷っているらしい。

 「なぁ、頼むって。智芳…、頼むから。」

 「あぁーー!もうそんな風に言うなや!俺がなんか悪いことしとるみたいやんか!…もうおばさんも亡くなったていうしなぁ、時効切れたってことでもういいんとちゃうかなぁ…。」

 「…一之瀬小春、」

 「……えっ?」

 「俺が忘れてんのは、一之瀬小春じゃねぇのか。」

 最後の一押しだった。この名前を出してしまえば、智芳の迷いも消えるんじゃないか、いやそうであってほしいと思ったから。

 案の定、智芳の動きが止まり、目が開かれる。

 「…ま、松春、お、おま…、まさか記憶が?」

 「いや、正直言って思い出してない。この名前にも記憶がない。でも、そうなんだな?俺が忘れてんのはこいつのこと、なんだな?」

 念には念を、そう思って改めて問えば、智芳はすこし間をあけて「…うん。」と言った。一之瀬小春は、やはり俺の知っている奴だったのだ。

 「松春が記憶なくしてるのが分かってさ、色々あって…、それでおばさんに小春ちゃんのことは言うなって言われたんや。絶対に絶対に思い出させるなって。んで、おばさんとお前は急に引っ越しておらんくなった。」

 「…なんだよそれ…。…なぁ、その、一之瀬小春ってのは一体、」

 「それだけはあかん。俺の口から言いとうない。松春自身が思い出さんとあかんと思う。」

 でも、思い出せないからここにきたんだろうが。またイライラし始めて煙草を取り出すも、「禁煙」とかかれたプレートがテーブルに貼ってあるのが見えた。

 「…クソ。…じゃあどうやって思い出せばいいんだよ!ぜんぜん出てこねぇんだぞ?」

 思い出すきっかけとなっていた一之瀬本人は、姿を消したまま現さないし。思い出せるようなものだって、手元にないのに。

 「…ちょっと俺ん家きぃへんか?お前に渡したいもんがあるんや。」

 もしかすると、それが思い出すきっかけになるかもしれへんと、智芳は俺を工場兼智芳の自宅へ連れて行ってくれた。五年振りに智芳の親父さんに挨拶すると、相変わらず関西出身の親父さんはコテコテの訛りで泣いて喜んでくれた。大学生の頃はあんなに厳しいイメージが強かったのに、「元気だったのか、ずっと心配しとったんで。」とバンバン背中を叩かれると、俺ももう少しでもらい泣きしそうになった。

 大学の頃に何度も遊びに来たことがあるけれど、あの時と変わらず智芳の6畳部屋は汚かった。適当に座れと言われ、唯一スペースが空いているベッドに腰掛けると、智芳はがさがさと自分の机をあさった。

 「あれー、嘘やん、俺絶対に大事にしとかんとあかんと思ってここに確か…。」

 「お前の部屋、やっぱ汚部屋だな。」

 「しゃないやん!誰かがが勝手に散らかすんやから。」

 「犯人はテメェだよ。つか、何捜してんだよ。」

 「うー…?あー…?あーっ、あったあったでこれや!」

 ジャーンという効果音と共に智芳から渡されたのは薄汚れた封筒だった。茶色いシミのようなものが点々と散っていて、乱暴に扱ったのかひどく皺が寄っている。

 「なんだよ、これ。」

 「それな、俺一生懸命死守したんやで?おばさんが小春ちゃんの写真全部捨ててしまうから、それだけは取っておいてあげんとあかんと思って。」

 「あいつが、一之瀬小春の写真を全部捨ててた…?」

 「松春にどうしても思い出させたくなかったんやろ。」

 智芳は回転する椅子に座り、背もたれに顎をのせた。そして言い出しづらそうに、両方の人指し指をくるくるもじもじとさせた。

 「…それな、小春ちゃんがその…。」

 「自殺した?」

 「えっ、なんで知ってはるの?小春ちゃんが自殺したん、松春が記憶なくしてからやで?」

 「あとで話す。…で、一之瀬小春が自殺したときの?」

 「あ、あぁ…、小春ちゃんがマンションから飛び降りた時に握りしめとったもんや。だからそのシミはその…。」

 薄汚れた、なんて言ってしまった。これは、このシミは一之瀬小春の血、なんだ。そしてこの皺は、地面に体を叩きつけられたその瞬間まで手離すことのなかった一之瀬小春の生きていた証、なのだ。そしてこれは、死ぬまで一之瀬小春が手離さなかった、あいつの大事なものなのだ。

 「…中、見ぃへんのか?」

 「…っ、分かっ、てる!」

 震える指先が封筒の中身をゆっくりと取り出す。その中身、とは。

 「……ッ!」

 声、が、出なかった。心臓が痛い。ナイフで傷つけられたかのように、ズキズキと痛む。視界がにじんで、顔が上げられない。それを掴んだまま、俺はベッドの上で膝を抱えて、そして、泣いた。

 封筒に入っていたのは一枚の写真だった。握りしめられたことで少し歪んでしまっているけれど、そこに映っているのはまぎれもなく俺と、一之瀬だった。化けて出てきたときと同じ淡いグリーンのワンピース、ふわふわしてそうなボブヘア。一之瀬は満面の笑顔でピースしており、それに対し俺はぽかんとした顔でピースしていた。

 あぁそうか、これはあの時に撮った写真だ。あの時、隠し撮りだのなんだのもめた時に一之瀬がふとカメラをこちらに向けて―。

―そうだ先輩、じゃあ隠し撮りしませんから、ほら寄って寄って!

 ―は?何すんだよ。

 ―はい、ピース!

 ―ッてめ、ついやっちまったじゃねぇか!

 ―やったやった!やっと先輩との2ショットが撮れた!わーい!

 ―今すぐ消せ!つかカメラ貸せ!逃げんなコラァ!

 ―嫌ですー!私これ家宝にしますから!死んでも離しませんからねー!


 あぁ、思い出した。思い出したよ一之瀬。そうか、確かにお前の言う通り、俺らは「知り合い」なんかじゃなかったな。なんで言ってくれなかった?なんで俺はお前を忘れてた?なんでもっと早く、せめてお前が消える前に、思い出さなかった?

 写真をめくると、そこには一之瀬の字で、

 「○年○月○日、城戸先輩と夢の2ショット!素の先輩、超イケメン!」

 と書いてあった。ぼろっと、涙があふれてその文字の上にぽたりと落ちる。にじむ文字に焦って涙をぬぐうものの、次々とあふれる涙を止められない。

 「一之瀬は…。」

 「…うん。」

 そうだったらいいかもしれない、なんて暢気に考えていたけれど、いざ本当にそうだったのだと知ると、辛い。だから一之瀬は、あんなにも隠そうとしていたのか。いつも辛そうに笑っていたのか。

 「…俺の、女だ。」

 「お前、男前過ぎるやろ。でもそう、やな。…彼女、やな。」

 智芳はこちらに背を向けて、ズズッと音をたてて鼻をすすっている。それでいて無言でこちらへティッシュ箱を投げつける。

 「一枚、千円。」

 「…ならこのシーツぐしゃぐしゃにしてやる。」

 「それは、ぐすっ、堪忍、して。」

 「…クッソ、なんっ、だよ…!」

 体温がどんどん上昇し、涙がこみ上げる。

 頭の中のモヤが一気に風に飛ばされて消えていく。みるみる内に蘇ってくる記憶。

 あの時、俺一人が事故にあったんじゃない。横断歩道を慌てて渡ろうとする一之瀬を追いかけて、そしたらそこへ車が突っ込んできたのだ。咄嗟に俺は一之瀬をかばい、それで意識不明の重体になった。一之瀬が取り乱していたのは、自分が瀕死の状態にさせた相手が目の前にいて、それを思い出して、それであんな風に自分を責めていたのか。思い出していたら、あの時に「お前のせいじゃない」と「自殺なんかしやがってこの野郎」って叱ることができたのに。

 そうだ、あのビーズクッションだって。一之瀬が俺の部屋に来るようになってから、俺がわざわざ買ってきたものだ。ベッドに座られると色々と、そう、色々と困ったからお前がいていいのはそのスペースだけだとと告げて。でもそしたら一之瀬は大喜びして、そこがあいつの特等席になったんだ。それで、一緒にゲームをしたんだったよな。

 「ここは私の特等席なんですー。今はまだ誰にも譲りませーん。」と一之瀬が言っていたことを思い出す。「今は」って、なんだ。じゃ、消えた今は誰かに譲ったってことか?冗談じゃない。

 バイクで二人乗りした時、あんなに嬉しそうだったのも、そういうことだったんだな。学校が休みのとき、俺がちょっと遠出するって言ったらすぐに飛んできて、自分も乗せろってせがんできたよな?だから俺はいつもヘルメットをお前に被せて、それで…。

 めまぐるしく記憶が蘇っていく。そのたびに、どうして一之瀬のことだけぽっかりと忘れてしまったのか、どうしてここまで思い出せずにいたのか、悔しくて、悔しくて今のこの感情をどうすればいいのか分からなかった。

なぜなら一之瀬はもういない。もうこの世にいないのだ。あいつは幽霊になって俺の所へ現れ、そしてまた姿を消したのだ。

「っーはー…、俺花粉症でさ、あーもうあかんなぁ、鼻水だらっだら。」

 「…んな季節じゃねぇ。」

 「よし、俺もお前も男前に戻ったことやし。」

 「…戻ってねぇ。戻る気がしねぇ。」

 「否定しねぇのかおまえは。…じゃなくて、行くで!」

 そう言って立ち上がった智芳の顔は人前に出せるものじゃなかったけれど、それでも俺の腕をぐいっと掴み立ち上がらせようとする。

 「…どこ、行くんだよ…。」

 「…小春ちゃんのとこに決まってるやろ。」

 それは一之瀬の墓に参ると言っているのか。ちょっと待ってくれ、俺はまだ行きたくない。そんな所へ行ってしまったら、あいつの墓なんか見てしまったら、あいつが死んだってことを本当に受け入れなきゃいけねぇじゃねぇか。そんなの、無理だ、まだ、無理だ。

 「…ッ離せ、俺は行かねぇ…。つか行きたく、ねぇ…!」

 「何言うてんのや。駄々こねてないで、ほら、しゃんとしいや!」

 「行きたくねぇっつってんだろ!」

 「…あっ。」

 「…んだよ。」

 「…ごめん、俺一番大事なこと、ごっそり抜かしてしもうとる。」

 「…ブっ殺すぞテメェ。」

 この後に及んでまだ何かあるというのか。もう勘弁してほしい。こっちはもういっぱいいっぱいで…、

 「小春ちゃん、死んでないから。」

 「………………は?」

 「いやだから、死んでないんやって、小春ちゃん。」

 智芳は、最後の最後にとんでもない爆弾を落とした。俺は智芳をブッ殺すのも忘れて奴の首ねっこを掴み、小春がいるという病院へ向かった。


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