四、
―ここはとある町のとある大きな病院。五階の一番端、515号室にて。
「…。」
コンコン。―「はい。」と中から声が聞こえたので、「こんにちはー。」と明るく声をかけて俺はその病室へ入った。
「茉莉ちゃん、久しぶり。」
ミルクティー色の長い髪を緩い三つ網にした線の細い茉莉ちゃんは、俺のほうを振り向きもせず、ベッドに横たわる女性をじっと見つめている。
「…どうも。」
「どーも。これ、新しい花持ってきたから飾ってもええかな?」
「いつもすみません、ありがとうございます。」
人気モデルである茉莉ちゃんはいつも雑誌で見せている笑顔をプライベートでは見せない。というより、無表情であるこっちのほうが素なのだが、それでも茉莉ちゃんの笑った顔を見たくて俺は足しげくここに通っている。
「また、工場の仕事から抜けてきたんですか。」
「うん?あぁそやね。いや、親父がヒマそうだったから俺抜けてもええかなって。」
「…別に無理して来なくてもいいんですよ。」
「…俺のことより、彼女、どう?」
彼女、とはベッドで眠っている茉莉ちゃんのお姉さんのことだ。姉と言っても俺の一つ下の後輩で、茉莉ちゃんは姉と2つ違いである。
椅子に座る茉莉ちゃんの隣に立って、彼女の顔を覗き込むと、もう何年も変わらない、こんこんと眠り続けている彼女がそこにいた。
「今更やけど、この子髪伸びたなぁ。」
「あさって、切るつもりなんです。」
「…そっか。じゃあ俺もまたあさって来ようかな。」
彼女が昏睡状態に陥ってから、もうかれこれ何年も時が経っている。心臓は動いているし、呼吸もしているのに目を覚まさない。…あの日から、もうずっと目を覚ましていない。そんな彼女の世話を茉莉ちゃんはずっと、ずっと続けているのだ。
茉莉ちゃんはずっと待ち続けている。彼女が目を覚ますことを。
そして俺はそんな茉莉ちゃんが俺に心を開いてくれることを待ち望んでいた。
「…茉莉ちゃん、これ、あげる。」
「…プリン、ですか?」
「そ。ちなみに茉莉ちゃんは焼きプリンで、俺はごまプリンな。一緒に食べよか。」
「…はい。」
「ん、どーぞ。」
「あの、黒谷先輩、」
茉莉ちゃんが今日やっと俺の名前呼んでくれた。どうせなら智芳って呼んでくれたら良かったのだが。
「ん?なーに?」
「…城戸先輩、元気なんでしょうか。」
ずいぶん久しぶりに聞いた名前だ。もうずっと連絡していないけど、あいつは今どこにいて、何をしているのだろうか。
「うーん、分からんなぁ。あいつ、…まぁ多分おかあちゃんがそうしたんやろけど、スマホの番号変えとってん。せやからあっちから連絡してくれん限り、連絡できへんから…。元気でおってくれたらええんやけどな。」
完食したプリンのゴミをビニール袋に入れて、茉莉ちゃんと彼女の顔を順番に見た。あいつは多分、何事もなく過ごしていると思う。いや、そうあって欲しいと心から思っている。だけどここは、この空間にいる俺たちは、あれからずっと時が止まったまま動けないでいた。
最近、ミレイを見ていると俺はひどく懐かしく感じるようになった。そしてそれと同時に、心臓にちくりと針が刺されたかのようなわずかな痛みを感じるのだった。チャンネル争いをしたとき、バイクで二人乗りをしたとき、他にもふとしたことで、前にも似たようなことがあったような…、と感じることが増えた。だから、俺はミレイとは以前どこかで会った奴なんだろうと、そうだったらいいと、そう考えるようになっていた。
俺がそう感じるようになってから、ミレイにも変化があった。
「あー!これバイ○ハザードですか?あ、もう9まで出てるんですね!」
「テメェ…俺は今履歴書書いてんだよ。気が散るようなこと言うんじゃねぇ。」
「いいなーいいなー、最新のバイ○ハザード見てみたいですね~。いいな~…。」
「…アァァァもううるっせーな!テメェがんなこというからやりたくなっただろうが!くっそ、ストレス発散にいっちょやるか…。」
履歴書そっちのけで久しぶりにゲームをつけた。バイ○ハザードシリーズはバイクの次に好きなものだ。久々にゾンビを銃で撃ちまくるとものすごくすっきりした。隣に座るミレイも「いけいけ!」「あぁ危ないっ!」「あぁ~やられる!」と興奮してテレビ画面に食いついていた。誰かに見られながらやるとこちらもがぜんやる気が出てきて、ボスを倒し高得点をたたき出した時は二人してガッツポーズしていた。
前にも、誰かと一緒に二人でプレイしてガッツポーズをしたり、俺がその誰かに「へたくそ」と操作を教えてやったりした…気がする。というより、多分したんだろう。そんな風感じた時は大抵、頭の中にかかっていたモヤが消えてなくなるような感覚に陥っていた。
そのまましばらくゲームを続けていると、あれほどうるさかったミレイが急に静かになった。気になって隣を見ると、ミレイが笑っているのに、泣きそうな表情をしている。
(またあのツラしてやがる…。)
そう、俺が昔の記憶を思い出すような出来事があると、きまってミレイは悲しむような切ないような、それでいてそんな表情をしながら笑うのだった。しかもその表情は、最近になってよく見かけるようになっていた。そしてそんな表情を見かける度に、俺の心臓はズキリ、と痛むのだ。
(…いい加減、白黒はっきりさせたほうがいいか…。)
「おい、お前、ちょっとそこ座れ。」
うどんを食べ終わったその日の晩、俺はミレイを定位置に座らせて、自身はテーブルをはさんで真向かいにあぐらをかいて座った。テーブルの上にいつも置いている煙草は引き出しにおさめている。今日は集中してとことん話し合いたい。
「な、なんでしょうか。テレビ、つけないんですか?」
「今日は見たい番組やってねぇし。それより俺はテメェに聞きてーことがあんだよ。」
「な、なんですか改まって。」
「今日の議題は、テメェの正体についてだ。一問一答方式でいく。答えづらいこともあるだろうが、正直に話せよ。いいな?」
ミレイがここに来てから、俺は今まで一度もミレイ自身について深く尋ねたことがない。というか、あまりミレイに関心がなかったというほうが正しいだろう。どうして俺の所へ来たのか、どうして俺を知っているのか。いつも聞くのはそれだけで、ミレイ自身について俺は全く聞いたことがなかった。だからこの機会に聞いてみようと思ったのだ。
ミレイも俺の様子に何かを感じたのだろう。しばらく戸惑った顔をしていたが、うん、と頷いてから、ビーズクッションの上で姿勢を正して正面から俺を見た。
こうして改めて見てみると、本当にミレイは幽霊であると認識させられる。普段話している時はそのことを忘れるくらいだ。半透明で、宙にただよう小さな体。その体の向こうの景色が薄らと見える、童顔であっても割と整った顔色はベッドのスーツに劣らず白かった。
「分かりました。話せることは話します。」
「…じゃあまず、お前の名前は?」
「…一之瀬、小春…です。えっと漢字は…。」
―一之瀬小春、と書くようだ。聞きとりながら俺が紙にメモをした。ここにきてやっとミレイの名前を知り、口には出さず「小春、」と呼んでみたものの、その名前に俺は覚えがなかった。名乗った後に俺の様子をじっと見ていた一之瀬は、俺が何も変わりがないのを確認すると、安心したのと悲しみをにじませた表情になった。それを見て、また少し心臓が痛くなり、心の中がザワザワとする。
「ん…じゃあ次。お前、5年前に死んだんだよな。…なんで、死んだ?」
これは聞くべきかどうかひどく悩んだ。でも、俺に関係有る無しにただ純粋になんで一之瀬は死んだのか気になっていたのだ。
二十歳という若さでどうして一之瀬は死んだんだ?
「…私…、私は…、」
一之瀬はうつむいて、口を開いたり閉じたりを繰り返した。やはり聞かない方が良かったのかもしれないが、でもやっぱり気になる。俺は何も言わずじっと一之瀬を待った。やがて一之瀬は、ぽつり、とつぶやいた。
「―自殺、したんです。」
「…じ、さつ?」
「そうです。私は、自殺したんです。家のマンションから、七階から飛び降り自殺したんです。」
「…んで、そんなこと…。」
心臓がひどくうるさくてたまらない。もしかすると…、と思っていたが、まさか本当にそうだったなんて。しかも、飛び降り自殺なんて。
「…私のせいで、私の大切な人が死にかかったんです。」
それから一之瀬は、ずっと心にためていたものを吐き出すかのように、その時のことを話してくれた。自分には大切な人がいて、その大切な人と出かけた時に事故にあったということ。急いでいたから、点滅する横断歩道を走って渡ろうとした所へ車が突っ込んできて、自分をかばってその大切な人が車にひかれてしまったこと。そのせいで、大切な人が意識不明の重体になってしまったこと。
「…あの時、私が信号をちゃんと待っていれば、いや、急いでお店に行こうとしなかったら…。ううん、違う、そもそも私が一緒にいなかったら…。」
「…っ!おいッ、ちょっと待て、一旦落ちつけ!」
「私、本当に大好きだったんです。なのに、私のせいで…、あんなにいっぱい血が…。」
「―一之瀬ッ!」
思わず一之瀬の肩を掴もうとしたけれど、俺の手は何も掴むことなく一之瀬の肩を通り抜けただけだった。中途半端になった手に、自然と力が入る。
「…すみません取り乱したりして。…もう、大丈夫です。」
「…いや、俺も…、悪かった。興味本位で聞いちまって。」
「私は弱くて、最低な人間でした。…その人は私をかばってくれたのに、私はその厚意を自殺という形で無駄にしてしまったんです。自殺する前も自殺してこうして幽霊になった今も、すごくすごく後悔してます。私のせいであの人が死にかけたんだ、って。どうして自殺なんかしたんだろう、ちゃんと生きなかったんだろう、って。」
「もう、いい。もうそれ以上言うな。もう分かったから、」
「でも…だから、なんでしょうね。私が今こんな姿でいるのは。…チャンスをくれた人がいるんです。」
「…チャンス?」
一之瀬はそれから再び口を閉じてしまった。ただ、自殺をして後悔した一之瀬に、もう一度何かのチャンスが与えられたらしい、ということは分かった。
口を閉ざして考え込む一之瀬に、もう自分を責めるな、とは言えなかった。何も知らない俺が言っていいことじゃないと思ったから。かと言って、こういう場面で気のきいた言葉なんて浮かばないし柄じゃない。だから、俺はただひたすら一之瀬が落ち着いて顔を上げるの静かに待った。
「…あ、はは…、なんかその、どんよりした空気作っちゃってすみません。えーと、気を取り直して、次の質問どうそ。」
「…ん。じゃ、次の質問な。…そうだな、じゃお前、何が好きなんだ?」
「はい?」
「別に食べ物でも、趣味でも、何でもいい。お前の好きなもん、教えろよ。」
「好きな、もの…ですか?う~ん、そうですね…。」
少しライトな話題に変えようと思って、そんなことを聞いてみた。すると一之瀬は少し考えた後、「あっ、写真…!」と言った。
「あン?写真?」
「私、小さい頃から写真を見るのも撮るのも大好きだったんです。高校生になった時に写真部に入って、大学も写真のサークルに入ったんですよ。」
「へぇ、お前大学通ってたのか。」
「はい。いつもカメラを首からさげて構内徘徊して、人ばっかり撮ってました。」
「隠し撮りかよ。」
「そのほうがみんないい顔してるんですもん。」
―私、先輩の写真もいっぱい撮りましたからね!先輩コレクションは私の宝物です!
―テメェ、ざけんじゃねぇ!
突然、頭の中でそんな声が響いた。一つは俺の声で、だとすれば、もう一つは…誰のだ?
頭の中で、もやが少しずつ晴れていく。前にも同じような会話を誰かと、した。
―また写真撮ってんのかよ、不審者。
―あ、城戸先輩!スキあり!
―勝手に撮ってんじゃねぇ!
―痛い痛い!暴力反対です!…あっ、あの人いい表情!
―言ってるそばから隠し撮りかよ。
―だって、そのほうがみんないい顔してるんですもん。素の表情ですから。私、先輩の写真もいっぱい撮りましたからね!先輩コレクションは私の宝物です…。
―テメェ、ざけんじゃねぇ!
―そうだ先輩、じゃあ隠し撮りしませんから、ほら寄って寄って!
―は?何すんだよ。
―はい、ピース!
「…松春、さん?」
心配そうな顔で一之瀬が俺を窺うのをよそに、俺の頭の中で当時のやり取りが再生されていく。始めはもやもやとして聞きとりにくかった一つ一つの言葉が次第にクリアになっていく。そうだ、俺はそいつをよく知っていた。よく、知っていたのだ。そしてそれは、今目の前にいる一之瀬と大きく関わっている、そう確信した。
「なぁ一之瀬、お前って…。」
「…あの…、松春さん申し訳ないんですけど、私ちょっと疲れてしまったので、今日はもう休ませてもらってもいいですか?」
「…は?」
突然何を言い出すのかと思ったら、これだ。全力でゴールを目指しているのに、向かい側から突然ラリアットを食らわされたかのような話の折り方だ。一之瀬は話が核心のところまでいくとこうやってごまかそうとするのだ(前科あり)。こっちはもう少しで何か、何か思い出しそうだというのに。
とはいえ、一之瀬は自分の死を俺に話してくれたのだ。だから本当は俺が気遣って休ませてやるべきはずだった。けれど、俺自身も一之瀬に話を聞くことで忘れていた記憶がよみがえってきていて、しかも俺と一之瀬の関係がもう少しで掴めそうなのだ。ここで終わらさせるのもスッキリしない。
腹の底からふつふつと、何かが煮えたぎり始める。
「待てよ、もう少し付き合え。なんか今、俺、思い出してんだよ。それに、お前のさっき言ってた事故って、」
「…今日は、もう話したく、ないんです。」
「…んでだよ!ここまできてそれはねぇだろ!」
ダンッとテーブルをたたくと、一之瀬は少し驚いて俺を見た。その瞳には悲しみと動揺が広がっている。それを見て余計にいらだちが増してしまう。
この時の俺はひどくいらだっていた。いつもなら煙草を吸って抑えるが、今日は吸わずに話し合いに集中しようとしたことが、返って裏目に出てしまったようだ。ぐしゃぐしゃと頭をかいて一呼吸置き、一之瀬をじっと見据えると、同様に一之瀬も俺を見つめていた。
「…テメェ、前もそうだったろ。なんで俺のこと知ってんのかって聞いたとき、なんだかんだうやむやにしやがってよ。こっちはな、色々ごちゃごちゃしてるからスッキリさせてぇんだよ、分かるか?いやそりゃテメェには辛い話をさせたし、悪かったとは思ってる。でもな、いい加減テメェが一体何者なのか知りてぇんだよ。いっつも笑いながら辛そうなツラしやがって。なんなんだよ、言えよ…!」
声を荒げそうになるのを必死に抑え、真剣に一之瀬に訴えた。ただ、知りたい。一之瀬が一体何者で、俺とどういう関係だったのか。ここまで話をしておいて、どうして隠そうとする?俺はどうしても一之瀬の口から直接聞きたかった。
しかし、それでも一之瀬は静かに話したくないのだと首をふるふると振っただけだった。それを見た瞬間、とうとう俺の堪忍袋の緒が、ブチっと音をたてて切れた。
「…あぁそうかい。もういい分かった。話したくねぇのに無理やり聞き出そうとして悪かったな!」
一気に脱力し、いらだちは頂点に立った。
あぁなんかもうどうでも良くなってきた。なんで俺、一人でこんな熱くなってんだろう。もうやめよう、面倒くさい。いいじゃねぇかもうどうでも。一之瀬は俺の知り合いじゃないと言っているのだから、もうそれでいいじゃねぇか。一之瀬が俺とどんな関係だったなんてもう、いいじゃねぇか。
家の鍵とバイクのキーを持って立ち上がり、玄関に向かった。「こんな時間にどこへ?」と後ろから一之瀬が追いかけてきたが、俺は無言で靴を履いてドアを開けた。
「松春さん、あの…、…ごめんなさい。」
そう謝る一之瀬の声はひどく頼りなくか細くて、いらだって爆発しそうな頭を少しだけ冷静にさせる。
「…ちょっと頭冷やしてくる。そのうち帰るから、付いてくんな。」
「…わかりました。…行ってらっしゃい。」
俺は振り返ることなく玄関の扉を閉めた。
結局バイクで少し離れた公園へ行き、自販機で買った煙草を吸いながらベンチに座って夜空を見上げていたらイライラしていたものが小さくしぼんでいった。冷静になって考えてみれば、俺は一之瀬のことをただ単に興味本位で知りたかったのではないということに行き着いたのだ。
(はー…、まじかよ…。)
両手で顔を覆い、うなだれる。認めたくない。認めたくないが、多分そういうことなんだろう。
(だってよ…あんな顔何度もされりゃ、気になるだろ…。)
どうしてそんな辛そうな顔するんだ、普通に笑えよ。さみしそうな目を俺に向けるくらいなら、俺に話せよ。どうしてお前は俺のこと知っている?知り合いじゃないならどうしてあんなに世話を焼く?俺の知ってる奴なんだろう?どうしてそこまでして隠そうとする?
一之瀬が俺の知り合いかどうかじゃなくて、そうであって欲しいと思っているからこそ、聞きたいのだ。そして、ただの知り合いじゃなかったらもっといい、そう思っているから認めようとしない一之瀬に腹が立ったのだ。
俺はぐるぐると考え続けてそのまま公園で一眠りし、結局朝方になって家に帰ることにした。
謝るべきか否か…迷いながら玄関を開け、こっそりと開けて忍び足で部屋に入ってみた。しかし。
「…は?」
俺の部屋は以前のように誰もおらずガランとしていて、静かだった。いつもの場所に一之瀬がいない。念のためどの部屋も、押し入れの中も、冷蔵庫だって開けてみたが、一之瀬の姿はどこにも見当たらなかった。
その日を境に、一之瀬は俺の前から姿を消した。一之瀬がうちに来てからかれこれ五ヶ月が経ったときだった。




