たとえ小さな虫ケラだろうとも(★)
「僕、さ……ここを出る前、ラドニアさんに言ったんだ。あの人があんまりあんたの肩を持つもんだから、ちょっと……カッとなっちゃって。人を殴って従わせようとするやつをなんでそこまで信用できるんですか、騙されてますよ、ってね」
最初の謝罪のひと言から、どれくらいの沈黙が流れただろうか。しばらくうつむいたまま黙りこくっていたヘスペルが、ようやく向かいで口を開いた。
初夏の陽射しが差し込む角窓の向こうを、オスのルリビタキに似た鳥が囀りながら飛んでいく。その声を聞きながらヘスペルが喋り出すのを待っていた俺は杯を傾けつつ、なおも黙って続きを促した。
「そしたらラドニアさんは、今まで見たことないくらい冷たい顔してさ。こう言ったんだよ。〝ヘスペル。あなた本当に、リュージがそんな理由で殴ったと思ってるの?〟って。正直あのときは、あ、終わったな、って思った。ラドニアさんに今度こそ本気で失望されたのが分かったから」
「……」
「だけど僕は、おかげで余計ヤケクソになっちゃって……ラドニアさんがなんであんたをかばうのかも理解できなかったし、理解したくなかった。だから皇宮を飛び出したんだ。もう二度と戻ってくるつもりもなかった。恥ずかしいやら悔しいやらわけが分かんないやらで、ラドニアさんに会わせる顔がなかったしね」
「なら、どうして今になって戻ってくる気になったんだ?」
「さっきラドニアさんが言ってたろ。……やっと分かったからだよ。あんたが僕を殴った理由が」
「ほう」
「僕は、あんたも……どうせ他のやつらと同じなんだと思ってた。だから役立たずで愚図で疫病神の僕を追い出したかったんだろうって……でも、違った。あれは僕があんたの信頼を裏切ったから怒ったんだろ。あんたは最初からちゃんと〝僕〟と向き合ってくれてたのに」
「そうだな。少なくとも俺はラドニアから聞かされるまで、おまえが黒眼人だってことにも気づいてなかったからな」
と、俺が笑ってそう答えれば、ヘスペルはますます肩身が狭そうにうつむいた。
そんなヘスペルの様子に気づいたイヴが隣から手を伸ばし、いつかのようにぽんぽんと肩を叩いてやっている。まあ、実際、俺が事前にヘスペルの眼の色に気づいていたら、今回のようなすれ違いは起こらなかったのだろう。
気づいたところで、地球生まれの俺にはヘスペルの壮絶な生い立ちを想像することは難しかっただろうが、せめて「おっ、何だよ、俺たち黒眼仲間じゃん!」みたいなひと言でもかけてやれてれば、もっと早くに分かり合えたかもしれない。
そこについては完全に、園長としての自覚が足りなかった俺の落ち度だ。ゆえに俺は杯を置き、円卓の向こうで縮こまっているヘスペルを正面から見据えた。
「なあ、ヘスペル。俺はさ、ラドニアと一緒に旅をして、たくさんの竜を見てきたおまえなら、きっといい飼育員になってくれるはずだと期待してたんだよ。おまえが一生奴隷のままでもいいから園に残って、竜たちのために働きたいって言ってくれたときも、正直めちゃくちゃ嬉しかったしな。けど……」
「……けど?」
「い、いや……だとしてもカッとなってぶん殴ったのは、さすがに大人げなかったなーと反省してる次第でして……あれに関してはさすがに、俺に全面的な非があったと思ってる。だからこうしてちゃんと謝る機会をくれたおまえには感謝してるんだ。あのときはほんと……悪かったな」
「リュージ、」
「いやはや、けど俺も本気で人を殴ったのって初めてでさ。殴った方もあんだけ痛えなら、殴られた方はもっと痛かったよな。ってわけで、その……も、もし口で謝罪するだけじゃ足りなければ、俺のことも遠慮なくぶん殴っていただいて……」
「いや、殴るわけないだろ。そんなことしたらいよいよラドニアさんに愛想尽かされるに決まってる。それじゃ恥を忍んで戻ってきた意味がないじゃんか」
「あ、そ、そう?」
「そうだよ。第一ここであんたを殴ったりしたら、僕は今度こそ正真正銘のクソ野郎だ。そういう自分にうんざりするのはもうたくさんなんでね」
そう吐き捨てるが早いか、ヘスペルは再び杯を掴むと、一気に中身をぐいーっと呷った。お、おい、さすがにその飲み方はまずいんじゃないかと思ったら案の定、ヘスペルの顔がみるみる上気していくのが分かる。いくら酒に強かろうと、まったく薄めていない蒸留酒を一気飲みすりゃああなるのは当然だ。
俺なんか杯の中身を半分干しただけでもそこそこキてるのに──と慌てたのも束の間、ヘスペルはこちらに制止する暇を与えず、空になった杯をダンッと卓に叩きつけた。相変わらず鼻から上がモジャモジャの前髪に覆われているせいで判然としないものの、心なしか目が据わっている……ような気がする。
「お、おい。ヘスペル、おまえそんな飲み方して大丈夫か?」
「大丈夫じゃない」
「へっ?」
「リュージ。あんたの言うことは全部図星だ。だから僕も余計に腹が立ったんだ。あんた、あの日僕に言ったろ。〝自分の家の中で起きてることに向き合いもせず、知らんぷりしてるようじゃ、いつか取り返しのつかないことになる〟って」
「お、おう……確かに言ったような気もするが、それよりおまえ、呂律が……」
「ああ、まったくそのとおりだよ。あんたに言われてようやく気づいた。僕はずっと逃げてたんだ。両親が心の底では僕を愛してないってことに薄々気づいていながら、毎日愛してるふりをしてくれる両親に甘えて向き合おうとしなかった。僕だって好きでこんな眼に生まれたわけじゃないんだから、毎日石を投げられて苦しんでるのは僕だって同じなんだからって言い訳してね」
「ヘスペル、」
「だけどきっと両親の目にはそんな僕が、疫病神のくせに当たり前の顔して子供の立場を振り翳す図々しいガキに見えてたはずで……だからふたりの心は余計に僕から離れていった。僕が本当にすべきだったのは、もっと父さんや母さんの苦しみに寄り添って、一緒に乗り越えようと努力することだったんだ。なのに僕は、僕をこんな風に生んだのは両親なんだから、ふたりが僕を助けるのは当然だし、僕らを取り巻く問題もふたりが解決するべきだと思ってた。心のどこかで、ずっと……そう思ってたんだよ」
「……親と正面から向き合った結果、面と向かって〝おまえを愛してない〟って言われるのが怖かったからか?」
そう尋ねながら、俺はイヴから酒瓶を受け取り、その中身を空になったヘスペルの杯に注いだ。さっきみたいな飲み方はもうするなよと警告したいところだが、今のこいつにはたぶん、酒の力が必要だ。何しろヘスペルは今、これまで直視することを避けてきた本当の自分と向き合い、そいつを言語化しようとしている。
無意識の思考や願望に言葉を与えるという行為は、何かを乗り越える上で実は結構重要だ。目に見えないもの、触れられないものと戦えと言われたところで、対抗できるわけがないのは自明の理だからな。
「……当時の僕には分からなかったけど、たぶんそうだと思う。あの頃の僕は、ただ……怖くて怖くてたまらなかったんだ。息をするだけで精一杯なくらい傷だらけの心臓が、今度こそ粉々に砕けてしまったらどうしようって……そうなったら自分がどうなるか、子供心にも何となく分かってたから」
「……」
「傭兵団を追い出されたときも同じさ。僕は団長以外の誰も信じられなかった。黒眼人の自分を受け入れてくれる人なんているわけない、団長が変わってるだけだと決めつけて、他の誰とも向き合おうとしなかった。みんな同じ屋根の下で暮らした仲間だったのに……歩み寄ってもみないうちから拒絶されることを怖がって、自分からみんなを拒絶したんだ。みんなが僕に冷たいのは、団長に気に入られた僕に嫉妬してるからだと思い込んで、見下してた時期さえあったよ。だから僕もみんなから見下されて、拒絶された。自分の行いが自分に返ってきただけだったのさ。なのに僕は何もかも周りのせいにして、被害者面して泣き喚いて……ほんと、自分でもどうしようもないクソ野郎だと思うよ」
「……なるほどな。だから俺がおまえを殴ったのも、自分が要らない存在だからだと思い込んだってわけか。誰もそこまで言ってないのに自分で自分を否定して、そいつを他人のせいにする。自衛の策としては矛盾してるようにも思えるが、まあ、確かに他人に傷つけられるよりは自分でやっちまった方が手加減できるし、傷も浅くて済むからなあ」
「……うん」
「つまり今日までおまえに石を投げてたのは、おまえ自身でもあったってことだ。自分で自分を愚図でのろまな役立たずだと決めつけて、そのせいで本当にそういう人間になっちまった。まあ、もちろん、おまえをそんな風に洗脳した周りにも問題はあるんだが」
「……うん」
「だけどおまえは、それが間違いだってことにちゃんと気づいた。なら、今日から変われるよな」
俺がそう問いかけても、ヘスペルは顔を上げなかった。ただうつむきながら唇を噛み締め、膝の上に置いた拳を震わせているのが分かる。すると何かを感じ取ったらしいイヴが、心配そうにヘスペルの横顔を覗き込んだ。
ああ、気持ちは分かるが大丈夫だぞ、イヴ。こいつはきっと這い上がれる。
何せ人生最大の勇気が要ったであろう最初の一歩を踏み出して、自分の足でここまで帰ってきたのだから。
「り……リュージ、は……」
「おう」
「リュージは……こんな僕でも、変われると思う?」
「変われるだろ。というか何ならもう変わってる。今のおまえは傭兵のヘスペルでも奴隷のヘスペルでもない、竜学者のヘスペルなわけだし」
「……でも、まだ見習いだよ」
「見習いだろうが何だろうが、変わるために自分で選んだ道だろうが。ならもっと胸張って誇りに思え。そいつはおまえがおまえを諦めなかった証なんだからな」
「僕が……僕を、諦めなかった……?」
「おう。だって本気で生きるのに嫌気がさして、何もかもどーでもよくなってたらわざわざ恥かいてまでここに戻ってきてないだろ。俺の知る限り、人間は生物の中で唯一自殺できる生き物なわけだし」
と、俺が再び杯に口をつけつつそう答えれば、途端にヘスペルの口もとが強張った。けれども何も言わないのは、恐らく自殺という単語が脳裏を掠めた経験も一度や二度ではないからだろう。
だがそれでもヘスペルは〝生きる〟という選択肢を選び続けたからここにいる。
単純に死ぬのが怖かったとか、世の中の理不尽に対する怒りがそうさせたとか、ひょっとすると後ろ向きな理由で選んできた道なのかもしれないが、この際そこはどうでもいい。ただ何度打ちのめされようと、生きるのを手放さなかったこと。
それができたこいつにはやっぱり信じる価値があると、俺はそう確信した。
「ちなみに、ヘスペル。おまえ、ハエってなんで存在してるか知ってるか?」
「……え?」
「ハエだよ、ハエ。汚物とか生ゴミとかをほったらかしにしてるとブンブン寄ってくるアレ。ぶっちゃけあいつらって、人間からすると目障りなだけじゃないか? 不快だし、不潔だし、何となく死を連想させて不吉だし」
「ま、まあ、確かにハエは昔から闇素を運ぶ不浄な生き物だって言われてるし、そんなのがなんで今も滅びずに生き残ってるのかって言われると不思議だけど……」
「だよな。けどやつらが絶滅しないのにもちゃんと理由がある。というのは、ハエが自然にとってなくてはならない存在だからだ」
「なくてはならない、って……あんな小さい虫ケラが?」
「むしろ小さい虫ケラじゃなきゃ務まらないこともあるんだよ。あいつらはな、動物の糞や死骸なんかを食うことで、対象を細かく細かく分解する働きを担ってるんだ。で、そうやって体内に取り込んだものをハエよりもさらに小さい……人間の肉眼では見えないくらい小さい生き物でも食えるサイズにして排泄してる。でもってそいつを食って生きる極小サイズの生き物たちが、ハエからもらった栄養を土に還して草木を育ててるんだ。つまり何が言いたいかっていうと、ハエがいなけりゃ野山はそこらじゅう糞まみれってことで──そう考えりゃ、この世に意味のない命なんかひとつもないってこと」
と俺が話を締め括れば、モジャモジャのカーテンの向こうでヘスペルが黒い目を丸くしたのが分かった。ゆえに俺もニッと笑い、気楽に杯を掲げてみせる。
「あんな虫ケラにさえ生まれた意味があるんなら、黒眼人にだって黒眼人にしかできない仕事があるんだろうさ。特にヘスペル、おまえは今日まで散々世間に痛めつけられてきた分、弱者が感じる痛みや苦しみを誰よりも深く理解できる。そいつは何不自由なく生きてきた人間には成し得ない、おまえだけの能力だ。要するにおまえは、他ではなかなか得られない特別な人材なんだよ。だから俺もできれば手放したくない。その能力、今度こそ竜たちのために存分に揮ってくれ」
人類の一方的な都合で嫌悪され、絶滅の危機にまで追いやられたアゴログンドの竜たち。傷つき怯える彼らに寄り添う人材として、ヘスペル以上の適任者はメアレスト帝国広しと言えどそうはいないだろう。
だからこそ俺はやっぱり、こいつにカールを任せてみたい。
人類と竜族の記念すべき架け橋となる、最初のアゴログンド人として。
俺がそんな願いを込めて贈った言葉は、今度はちゃんと届いたようだった。何しろヘスペルの顔面は、気づけば滂沱たる涙に濡れてくしゃくしゃになっている。
そうして震えるヘスペルの肩を、やっぱりイヴがぽんぽんと叩いてやっていた。
ほっと安堵したような、嬉しそうな笑みを湛えて。
▼ルリビタキ
アジア地域の高山地帯に生息するスズメの仲間。体長約14cm。美しい瑠璃色の羽毛を持ち、日本ではオオルリ、コルリと共に「瑠璃三鳥」とも呼ばれている。
ただし羽根が青いのはオスのみで、メスはウグイスに似た地味な色合い。
日本では冬になると市街地などでも見られるようになる身近な野鳥で、豊橋総合動植物公園(愛知県豊橋市)では飼育下での様子を観察することができる。
参考・画像引用元:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%93%E3%82%BF%E3%82%AD
https://natureland-nose.com/bird/news_bird/2846/




