捨てる神あれば
宮を出てから何日が過ぎたのか、それすらもう分からなかった。
自ら動く気力もない。ただどこかのゴミ捨て場から拾ってきた空き缶を足もとに置いて、人どおりの多い通りの端に座っているだけ。帝都メアレストには、同じようなやり方で通行人の慈悲を待つ物乞いが他にもぽつぽつといた。
大抵は片足がなかったり、耳目が不自由だったりして、どうしても仕事にありつけない人々ばかりだったが。
「……おなか減ったなあ……」
眼前を滔々と流れてゆく人波を見るともなしに眺めながら、ぼそりと呟く。
別に空腹を訴えて哀れみを乞おうとしたわけではない。
ただヘスペルのことなどまるで見えていないかのように、平気な顔で通りすぎてゆく人々に気づいてほしかっただけだ。自分はまだここにいると。
それでちょっとでも一瞥をくれたり、立ち止まってくれたりする人がいれば、自分がまだ息をしていることを実感できるような気がした。無論、現実は先帝よりも遥かに非情で、ひと目見ただけでは生きているのか死んでいるのかも分からない襤褸切れのような男を気にかけてくれる者など、ひとりとして居はしなかったが。
「お金……じゃ、なくてもいいから……誰か、仕事、恵んでくれないかなあ……」
少なくともヘスペルは五体満足で、ひと切れのパンと一杯の飲み水さえもらえれば何とか立ち上がり、働ける自信がある。賃金はどれだけ安くても構わない。
日に三十セントでももらえれば、喜んで働くと聖母に誓えた。
けれども帝都には口入れ屋と呼ばれる人夫の斡旋所のようなところがあって、大抵の求人はそこで募集がかけられ、仕事を求める労働者に割り振られるという仕組みができあがっている。人を求める側も、仕事を求める側も、互いの欲しいものを迅速に見つけ出すことができる極めて合理的なやり方だ。そして口入れ屋は上前を撥ねる。まったく上手い商売を考えつく輩がいるものだった。しかしヘスペルは、帝都の労働者の生命線とも言うべきその口入れ屋に出入りすることができない。
何故なら宮を追い出された翌日に、早速仕事を探して口入れ屋を訪ねたら、思わぬ過去と遭遇してしまったから。
「……ヘスペル? おまえ、ヘスペルか?」
聞き覚えのある声にそう名前を呼ばれたのは、一体何日前のことだったか。
とりあえず帝都で一番大きな口入れ屋の扉を叩いたヘスペルを待っていたのは、かつて田舎の小さな傭兵団に所属していた頃の傭兵仲間だった。
そして彼らとの再会は、考え得る中で最悪の不運だったと言っていい。
何故ならあの傭兵団の生き残りは、みんなヘスペルの正体を知っていた。
知っていたから追い出した。
義理人情に厚く、親分肌で、誰からも慕われていた団長。
彼の命を唐突に奪い去った病は災厄をもたらす邪眼の子ども──つまりヘスペルが運んできたものに違いないと、彼らは固く信じたから。
「だから俺たちは反対だって言ったんだ! いくらおやっさんが世話好きだからって、黒眼人のガキまで拾うなんて……!」
あの日の怒声と罵声とが、がらんどうになったヘスペルの頭に反響する。
今になって思えば馬鹿げた話だ。団長が亡くなったのは、ヘスペルが彼に拾われてから十年以上が過ぎたあとのことなのに。なのにこの黒眼が病の原因だって?
どいつもこいつも迷信深いにもほどがある。
まあ、あまりに突然すぎた団長の死を、それによって引き起こされた小さな傭兵団の分裂を、誰かのせいにしてしまいたかった気持ちは分かるけど。
──だって、僕も悲しかった。悲しくて悲しくてたまらなかった。
団の皆は最後までヘスペルを気味悪がっていたけれど、彼は、おやっさんだけはいつだってヘスペルの味方だった。父が病に斃れたあと、ほどなく母が失踪し、ひとりぼっちで泣いていたヘスペルを拾い育ててくれた彼は、ヘスペルにとって最初で最後の家族だった。孤独で非力な少年に生きる術を与えてくれたのも、人は決してひとりではないと教えてくれたのも、みんなみんなあの強くて温かい人だった。
だからヘスペルには皆の悲しみが分かった。ひとつの小さな家のようだった傭兵団にとって、偉大な団長の死がもたらしたものはあまりにも重すぎた。
でも、だからと言って数年ぶりの再会を果たすなり、公衆の面前であんなことを叫ぶのはさすがに常軌を逸している。
「おい、黒眼人だ、こいつは黒眼人だぞ! 近づけば病を伝染される! みんな、死人を出したくなかったら気をつけろ!」
果たして彼らはそんなにも自分が憎かったのか。罵声の限りを尽くし、力づくで叩き出しておいてなお自分を憎み続けていたのか。おかげで黒眼の浮浪者の話はたちまち帝都中に広まり、ヘスペルはどの口入れ屋にも入れてもらえなくなった。
アゴログンドにおいて黒髪や黒眼を持って生まれることはそれだけで罪なのだ。
生きていてはいけない。ましてや平穏な生活を望むなど痴がましい。
世界がそう言っている。自分を指さして嗤っている。
ヘスペル。おまえが生きていてもいい場所なんてあると思ってたのか?
これでやっと分かったろう? そんな場所はないんだよ、この世のどこにも。
「……でも、ラドニアさんは……」
耳鳴りの狭間に聞こえる幻聴に、掠れた声で反論しようとする。
ラドニア。ラドニア。ラドニア。彼女は自分を差別しなかった。
自分が黒眼人であることを知っても、涼しい顔で「だから?」と言った。
医者である彼女は知っていたのだ。黒髪人や黒眼人がいるだけで病をもたらすなんて迷信は、かつて大陸で猛威を振るった黒の会の凶行が人々に植えつけた恐怖の名残に過ぎないと。だからラドニアはヘスペルを恐れなかった。
受け入れてくれた。ずっと傍にいさせてくれた。
だから彼女を守りたくて守りたくて仕方なかった。なのに、
「──クリソプルさんがどうかされましたか?」
と、またしても幻聴が言う。……いや、待てよ。〝クリソプルさん〟?
幻聴は彼女をそうは呼ばない。なら今の声は?
たったひとつの素朴な疑問が、ヘスペルの魂に小さな小さな火を入れた。
おかげでどうにか視線をもたげることができる。
直後、ヘスペルの視界いっぱいに飛び込んできたのは、
「ワンッ!」
犬、だった。否、より正確には淡い風色の毛むくじゃらだった。そいつがいきなり眼前を覆って何も見えない。ただ鳴き声で辛うじて犬だろうと分かっただけだ。
でもってそいつはべろべろと、何の断りもなしにヘスペルの顔面を舐めてくる。
なんということだろう。ただでさえ数日風呂にも入れず、全身垢まみれだというのに、それをさらに唾液まみれにされた。こんなひどい仕打ちがあるだろうか。
いや、待て、ひょっとすると自分は今度こそ本当に死にかけていて、今にも犬に食われそうになっていたりする、のか──?
「こら、シリウス! いきなりお顔を舐めたりしたら失礼でしょう、お座り!」
ところが己の生死も定かならぬヘスペルが、されるがまま顔中を舐め回されていると、不意に幼さの残る少女の声が響いた。
かと思えば死にかけのヘスペルにのしかからんばかりの勢いだった犬が「キューン……」と鳴いて、反省したように引き下がる。
「あ、ああぁ、す、すみません、うちのシリウスが……! 大丈夫ですか?」
そうしてようやく毛むくじゃらが取り除かれた視界に、今度は丁寧に折り畳まれた木綿のハンカチが差し出された。けれどもそれを受け取る前に、ヘスペルはハンカチを乗せた白い手を、その手から伸びる腕を辿り、ゆっくりと目線を上げる。
「あ……」
やがて前髪のカーテンの向こうに見えた見覚えのある顔に、ヘスペルは短く声を上げた。するとラドニアのものとはまた趣の違う、丸くて大きな眼鏡をちょっと傾けてみせた彼女が、伽羅色のおさげを揺らして笑う。
「お久しぶりです、アトラースさん。わたし、テリサです。バナトの町でお会いした、魔獣学者のテリサ・アリスターです。え、えっと……わ、忘れられてたりしませんよね?」




