ごちそうとお誘い
果たして自分は人生で、これほどうまい飯を食べたことがあっただろうか。
いや、ある。あれは今から十数年前、母の消えた借家から追い出され、砂漠の街の路上で干からびそうになっていたとき、助けてくれた団長に食べさせてもらった数枚のパンと薄いスープ。それが自分には生涯忘れられないご馳走だった。
今、ヘスペルが必死で貪り食っているジャンバラヤとミートローフ、マッシュポテト、そしてやさしい舌触りのコーンチャウダーはあの日のパンと同じ味がする。
どれも脳が痺れるほどに絶品で、ひと口食べればその味が体中に染み渡り、しかしいずれもほんの少しのしょっぱさを伴っている。
ちょうど汗が口に入ったときのような、とても微かなしょっぱさを。
「え、えっと……アトラースさん? そんなに慌てて食べなくても料理は逃げませんし、時間もたっぷりありますから、もう少しゆっくり召し上がった方が……」
「うびばべん……うびばべん……! べぼ、いひおあえらいあらおばららうえ──うぐっ!? ぐ……ごっ、ごほっ、えほっ!」
「あ、ああああ! ほら、だから言ったじゃないですか!? と、とにかくお水! お水を飲んで下さい!」
そこはメアレストのどこかにある一軒の大食堂。石畳の上に並べられた日除けつきのテラス席で、ヘスペルはテリサに促されるがまま慌てて水を飲み、何度も強く胸を叩いた。そうして激しく咳き込むヘスペルを、テーブルの下に行儀よく伏せた猟犬のシリウスが、片耳を持ち上げて心配そうに見上げている。
帝都の真ん中でテリサと思わぬ再会を果たしてからおよそ二時間。
彼女の好意で沐浴を済ませ、昼食までご馳走してもらえることになったヘスペルは、数日ぶりに口にするまともな食事を次々と胃へ流し込んでいた。
こういうとき、奢られる側というのはある程度の遠慮をするのが礼儀なのかもしれないが、今回ばかりはそんなことを言っていられない。
何しろテリサが現れるのがあと一日遅かったら、ヘスペルは本当に路傍で息絶えていたかもしれないのだ。それくらい切迫した状況だった。ゆえにヘスペルの生物としての本能が、ここぞとばかりに生きるための糧を欲して止まらない。
空のバケツや鉢植えに溜まった雨水と生ゴミだけでどうにか命をつないでいた数日間、胃の腑を焦がしてやまなかった飢餓感から少しでも遠ざかろうと体が躍起になっているのを感じた。そもそもこれを逃したら次に食事にありつけるのはいつになるやら、正直まったく見通せない。
とすればやはり、食べられるときに食べられるだけ食べておくことが最優先だ。
テリサには申し訳ないが、こちらは生きるか死ぬかの瀬戸際なのだし。
「はあ、本当に助かりました、博士。博士が偶然目の前を通りかかってくれなかったら、僕は今頃どうなってたことか……」
ほどなく気が済むまで料理を食べ終え、ようやく人心地がつくと、ヘスペルは改めて向かいに座るテリサへ頭を下げた。
時刻は昼時をとうに過ぎているのだろう。おかげで他に客の姿がないテラス席でテリサは少しはにかんだように、微笑って手を振ってみせる。
「いえいえ。人間、困ったときはお互い様ですから気にしないで下さい。とにもかくにもアトラースさんがご無事でよかったです」
「死にかけのところを助けていただいたんですから、僕のことは〝ヘスペル〟でいいですよ。本当に何とお礼を言ったらいいか……だけど博士はどうしてメアレストに? 確か以前、留守の間の研究所を任せられる人がいないから、しばらくバナトを離れられない……みたいなお話をされてましたよね?」
と、腹が満ちたところでやっと湧いてきた疑問を口にしながら、ヘスペルはついまじまじとテリサのいでたちを眺めやった。というのも今日の彼女は、いつか研究所で見かけた白衣姿ではなく、落ち着いた風合いの私服に身を包んでいるためだ。
おかげでテリサの正体を知るヘスペルにさえ、今の彼女は都へちょっと用足しに来た地方出身の女の子、という具合に見えた。もっともテリサの実年齢は口にするのも憚られる数字であって、女の子、という形容はどう考えても不相応なのだが。
「ええ、実は研究所の問題はまだ解決してないんですけど、今回は特別に、昔の研究仲間が数日だけ留守を預かってくれることになったんです。どうしても皇宮に顔を出さなければいけない用事ができてしまったので……」
「皇宮に、って……ひょっとして竜の園関係ですか?」
「はい。わたしも一応正式にドラゴン・パーク計画の顧問になったので、園の現状を一度確認しておきたくて……というのは建前で、ここだけの話、一番の目的はクリソプルさんへの届けものだったんですけど」
「ラドニアさんに届けもの?」
「はい。というのもですね、長らく研究所で預かっていたブルーの卵をお届けに来たんですよ! クリソプルさんからブルーの術後の経過が良好だと伺ったので、それならブルーが自分で卵を抱けるかもしれない、という話になりまして……」
と、帝都来訪の理由を話すテリサは心なしか楽しそうで、彼女も預かっていた卵を母親に返す日を心待ちにしていたのであろうことが窺えた。
何しろブルーの卵は人に飼われた竜が単為生殖し、しかも手術によって摘出されたという前代未聞の代物なのだ。そんな稀少な事例の研究に立ち会えるとなれば、研究者なら誰もが期待に胸躍るに決まっていた。
実際、竜を求めて旅していた頃のラドニアもそうだったのを覚えている。
知られざる竜の生態や能力を発見するたび、彼女はいつも初恋を知った少女のように喜んで、さらなる研究に没頭した。そういうときのラドニアは、ヘスペルどころかブルーのことさえ見えていなかったように思う。
けれども彼女との旅の記憶は甘く痺れるようななつかしさよりも、暗く淀んだ苦味をヘスペルの胸中に呼び起こした。そもそもテリサが帝都へやってきた理由が、皇宮にいるラドニアたちに会うためだというのなら、
「あの……アリスター博士」
「はい?」
「そういうことなら、博士はもう……皇宮には顔を出されたんですよね?」
「はい」
「ということは、その……ラドニアさんたちから、僕の話ももう聞いて……?」
と、ヘスペルがなけなしの勇気を振り絞って尋ねると、途端にテリサは口を閉ざした。彼女は何も答えない。されど口もとに浮かんだ静かな微笑が、ヘスペルが知りたいと望んだすべてを物語っている。
「ヘスペルさん」
「……はい」
「実は、わたしがヘスペルさんを見つけたのは偶然じゃないんです。シリウスをわざわざ帝都まで連れてきたのもそのためで……つまり、単刀直入に申し上げると、ヘスペルさんを探していました」
「僕を探して……?」
「はい。というのはヘスペルさんに折り入ってお願いしたいことがあったからで。あ、もちろんヘスペルさんさえよろしければのお話なんですけど……あの、もしも今、ヘスペルさんがお仕事を探されていて、やってみてもいいなって思って下さるのなら──わたしの研究所で、魔獣研究のお手伝いをしていただけませんか? 研究の合間で構わなければ、文字の読み書きも無償でお教えしますよ」




