ハートブレイク・ノクターン
ヘスペル・アトラースは、オルンダルゴ大陸北東部の砂漠で生まれた。
ケペウス砂漠と呼ばれる大陸最大の砂漠地帯は、地形と気候の厳しさを味方につけて、メアレスト帝国の天下統一を阻み続けた最後の土地だ。
そこには帝国による支配を嫌った亡国の民が続々と集まり、いくつかのオアシスを中心とした都市国家を形成していた。
元は家畜を率いて砂漠を転々とする遊牧民ばかりが暮らしていた土地に、百年近い歳月をかけて人が集まり、帝国の覇道に抗うための最後の砦を築いたのだ。
そんな都市国家群の東のはずれに、アルアギミムという街がある。
大洋と内陸とを隔てる褐色の山々、その麓に寄り添うように築かれたアルアギミムの狭い路地に、砂を蹴立てて走る足音と掠れた老婆の声が響き渡ったのは、今から二十六年前の未明のことだ。
「じ、邪眼が……邪眼が生まれた……!」
と、ようよう白み始めたばかりの空の下、寝静まる砂漠の街に喘ぐような老婆の悲鳴が頼りなく反響した。乾いた枯れ木のごとき肢体を包む衣服が血にまみれているのは、老婆が出産に立ち合ったばかりの産婆であるためだ。
「ああ、なんてこと……」
そしてつい今し方、産婆が血相を変えて飛び出していったある民家では、御産を終えたばかりの母親が顔を覆って泣いていた。産着にくるまれて泣く赤子は、彼女の傍らに置かれたまま抱かれもしない。何故なら彼は木素の強い緑の髪に、黒い瞳を持って生まれた邪眼の忌み子であったためだ。
「やーい、ヘスペル! 黒眼のヘスペル!」
のちにヘスペルと名づけられたこの赤子は、闇素に染まった瞳を持って生まれたがゆえに、どこへ行っても疎まれた。アゴログンドにおいて黒い髪や眼を持つ者は周囲に災いを振り撒くと信じられ、石を投げられるのが常なのだ。
息子を生んで間もなくアルアギミムを追放された両親は、別の地で我が子を隠して育て、息子にも髪で目を隠し、人目を忍んで生きるよう言いつけた。
すべての不幸の始まりである我が子を、それでも夫婦は愛そうと努力した。
しかし他者と助け合わなければ生きてはゆけない灼熱の地で、息子の秘密を隠し続けることはやはり難しい。おかげでヘスペルは何度も正体を暴かれ、そのたびに住む家を追われながら、とてもひもじい幼少期を過ごした。
そしてそんなことを繰り返しながら、ついに七歳を数えた頃。
度重なる心労と貧困で擦り切れた父が病に倒れ、ほどなく息を引き取ると、深い深い悲しみに顔を覆った母は慟哭しながら、立ち尽くす我が子に向かって言った。
「おまえなんか生まなければよかった」
と。
* * *
「お客さん──お客さん!」
という呼び声と、肩を揺すられる震動で目が覚めた。
「……ふぇ?」と間の抜けた声を上げながらテーブルに突っ伏していた顔を上げれば、すかさず男のため息が降ってくる。
「気持ちよくお休みのところすみませんがね。もう店じまいの時間なんですよ。そろそろお帰り願えませんか。生憎うちは宿屋じゃありませんので」
と、傍らに立ち尽くして言う無愛想な中年男は、まったく見覚えのない、しかしいかにも酒場の店主といった身なりの人物だった。男が肩から下げた白い前掛けには、この店の屋号と思しい文字列がゆるやかなアーチを組んで刺繍されている。
もっとも字の読み書きが不得手なヘスペルには、何と書かれているのかまでは分からなかったが。
「店じまい……?」
と男から告げられた言葉をへべれけのまま復唱し、寝ぼけ眼であたりを見回す。
前髪に覆われているせいでただでさえ暗い視界には、ほとんどの席の明かりが消えた酒場の景色はますます大きな闇溜まりに見えた。
が、今のヘスペルに分かるのはここがどこかの酒場らしいということと、どうやら自分は深酒が過ぎて、いつの間にやら眠りこけていたらしいということだけ。
ついでに言えば直前まで、ひどくなつかしくて苦い夢を見ていたような気もするが、ヘスペルは頭を振って瞼の裏にある過去の残像を追い払った。
「あー……えっと、すいません、長々と居座っちゃって……あのぉ、ところでご主人、こちらのお店で雑用係とかって募集してたりしませんか?」
「は? いや、今のところ人手は足りてますが……なんでまた?」
「あははは、いえね、ちょーど今、新しい働き口を探してるとこでしてぇ……ご主人さえよければお店で雇ってもらえないかなあ~な~んて~」
「はあ……そういうことでしたら口入れ屋を当たって下さいよ。ここは天下の帝都メアレスト、金が必要なら日雇いの仕事がいくらでも転がってるでしょう」
「あー……ははは……そう思ってた時期が僕にもありました……」
「とにかく、すみませんがうちは間に合ってますから。長く勤められるところをお探しなら余所を当たって下さい。なお本日のお代は一ドル二十セントになります」
「んん……はいはい、一ドル二十セント……一ドル二十セントね……」
果たして自分は何をいくら飲んだのだったか、やはりまったく記憶がないなと思いながらも、ヘスペルは言われるがまま財布を開き、テーブルの上で逆さまにして中の硬貨を振り出した。ところが何度財布を振ってみても、ほんの三枚ほどの一セント硬貨が虚しく天板を叩くばかりで、他にはいくらも落ちてくる気配がない。
「んん……?」
すっかり沈黙してしまった財布を不思議に思ったヘスペルは、疑問に目を眇めて財布の中を覗き見た。そしてそこにぽっかりと口を開けた深淵と見つめ合い、しばし考え込んだのちにようやく合点がいって声を上げる。
「……あ。そういや僕、昼間もヤケ酒して有り金使い果たしたんだった」
ほどなく雷のような怒号と共に、ヘスペルの身柄は野外へ蹴り出された。
「二度と来るな、この穀潰し野郎!」
と怒鳴られた上、うつぶせに倒れた背中に水まで撒かれたが、まあ、夜警に突き出されなかっただけマシな方だ。
全財産である三セントはもちろん根こそぎ取られたものの、一ドルと言えば帝都メアレストでは日雇い労働者の一日分の給金に相当する。それをたった三セントと罵声だけで免じてくれた店主の寛大さには、むしろ感謝するべきだろう。
『さっさと出ていけ、恩知らずの穀潰し野郎が!』
ところが怒り狂った店主の怒号は、ヘスペルの脳裏にまたしても嫌な記憶を呼び覚ました。おかげで石畳に顔をうずめたままぴくりとも動けずにいると、直後、背後の扉がけたたましい音を立てて閉じられる。
──倒れた拍子に打ちどころが悪くて死んでたらどうすんだ。
そしたらあんたは殺人犯だぞ。ちょっとくらい心配しろよ。
などと酔っ払いの思考回路で舌打ちしてから、ヘスペルはむくりと顔を上げた。そうしてよろよろと立ち上がり、すっかり人気も失せた未明の酒場街で笑い出す。
「あーあ、これでほんとに一文なしだ。ラドニアさん、怒ってるかなあ……」
と誰にともなく、強いて言うなら頭上で雲の狭間に見えつ隠れつしているふたつの月に聞かせながら、ヘスペルは千鳥足で歩き始めた。
もちろん行く宛などない。皇宮を出た日、ラドニアがギゼルに内緒で持たせてくれた十ドルはとうに使い果たしてしまった。
皇帝の奴隷となった日に財産の類はすべて没収されたはずなのに、一体どこに隠し持っていたのか、彼女は一ドル金貨を十枚もまとめて差し出してきたのだ。
「女はこういうときのために、隠し財産をいくらか用意してるものなの。もちろん誰にも知られないように、巧妙にね」
笑いながらそう言って、同じく衣服の他には剣も金も没収されてしまったヘスペルに、ラドニアはこっそりと金貨を握らせた。
「だけど、私がひと月に払うと約束した額には五ドル足りないわね。最後の最後で契約を反故にしてしまってごめんなさい」
言われてみれば確かにそうだ。ラドニアとの契約はヘスペルが護衛役を引き受ける間、ひと月につき十五ドルの報酬を受け取るというものだった。
帝都での一般的な労働者の月収がだいたい三十ドルくらいであることを思えば、月ごとの報酬がたった半分の十五ドルというのはずいぶん少ない。
けれどもそれは、契約中の衣食住にかかる費用はすべてラドニアが負担するという条件がついていたからで、つまりヘスペルは彼女に生活を賄ってもらいながら、毎月自由に使える金までもらえるという破格の待遇を受けていたのだった。
しかし今になって思い返せば返すほど、自分はそんな待遇で迎えてもらうにふさわしい働きができていただろうかと不安になる。
何しろヘスペルはお世辞にも腕のいい傭兵とは言えなかった。ラドニアには大抵のことなら自分で何とかしてしまえる器量があったし、四年間の旅の間で、ヘスペルの存在が役に立ったことなんて指折り数えるほどしかなかったはずだ。
なのにラドニアがヘスペルを雇い続けてくれたのは、とりあえず剣を佩いて突っ立っていれば、上背──ヘスペルが人生で唯一恵まれたもの──があるおかげで、そこそこ強そうに見えたから。
そういう護衛が傍にいるだけで、相手にするのも馬鹿馬鹿しいレベルの半端者は近寄ってこなくなる。ラドニアの望みはまさにそれだった。彼女は彼女の財産や体を目当てに寄ってくる邪な連中を楽に遠ざけたかったのだ。そいつらを追い払うために費やされる時間と労力とがあまりにも惜しかったから。
つまりヘスペルはろくに戦えずとも、ただの壁としてラドニアの傍らに存在しているだけでよかった。そう考えると幾分か気は楽だったが、やはり自分には過ぎたる待遇だったと気が咎める。ゆえにヘスペルも一度はラドニアの好意を断った。
もちろんそこには護衛としての役目を満足に果たせなかった罪悪感の他にも、男としての意地と見栄とが多分に介在していたことは言うまでもなかったが。
けれども結局ラドニアは、
「いいのよ、遠慮せずに受け取って。私はもう持っていても仕方がないし、いずれ見つかって没収されるくらいなら、あなたの今後に役立ててもらった方が報われるわ。それに、何の罪もないあなたを罪人に仕立て上げてしまったのは私だし……だからこれはお詫びと餞別。いつかもっと別の方法で償える日が来たら、そのときはお酒でも奢らせてね」
そう言って金貨を握らせた手を包み、ラドニアは笑ってくれた。
おかげでヘスペルはたまらなかった。
だってこの人はこの先も、一生自由のない奴隷として囚われのまま生きていくのだ。いくら彼女が自分で選んだこととは言え、そんなのはあまりにも理不尽ではないか。こんなにも聡明でやさしい女性が。ヘスペルが宮を追い出されるに至った理由を知っても、変わらず手を握ってくれた聖母のような女性が。
「ラドニアさん」
だからヘスペルはどうしても堪え切れなくなって、叫ぶように彼女を呼んだ。
驚いて目を丸くしているラドニアの細い手を今度はこちらから握り返し、決して離すまいと心に誓いながら言う。
「やっぱりラドニアさんも一緒に行きましょう。僕はこんなところにラドニアさんを置き去りにしていくなんて嫌です。絶対に嫌です」
「ヘスペル」
「僕、きっとラドニアさんをがっかりさせちゃいましたよね。すみません。でもあれはぶっちゃけ事故だったっていうか、とにかく竜とちゃんと向き合ってみて、僕には飼育員? とかいうのは向いてないんだってハッキリ分かりました。おかげで今回は失敗しちゃったけど、でも傭兵なら続けられます。実際、今までだって何とかやってこれたんだし。だからラドニアさん、どうかこれからも僕と一緒に──」
「ヘスペル、ごめんなさい。あなたの気持ちは嬉しいわ。でも、私は行かない」
「どうして」
「リュージとの約束がある。彼はブルーを救ってくれたわ」
「た……確かにそうかもしれないですけど! でも、ラドニアさんだって園の竜たちをもう充分元気にしてやったじゃないですか! だったら……!」
「ヘスペル、これは貸し借りの話じゃないの。リュージは希望を見せてくれた。彼と共に行けば、ずっと夢見てきたことが本当に叶うかもしれないってね。だから私は彼を助けたい。彼の計画に賭けてみたいの。それが、私がここに残る理由よ」
瞬間、ヘスペルは頭上に大きな割れものが落ちてきて、心と一緒に砕けてしまったような衝撃を覚えた。そのとき粉々になった破片は今も胸の内側に突き刺さり、絶えず血を流している。おかげでずっと息が苦しい。
どうせならさっさと肺を満たして、息の根を止めてくれたらいいのに。
けれども流れ出た血は肺には溜まらず、たださらさらと、ぽっかり開いた黒い穴から滴り落ちてゆくばかり。




