彼に必要だったもの
言われてみれば、カールはいつも檻の奥の方にいて、鉄格子にはあまり近づこうとしない。俺がそのことに気がついたのは、ヘスペルが宮を出ていってから三日が過ぎた頃のことだった。今日は昼過ぎからロレンソン博士を交えて、例の飼育用ガラスの検証が行われる予定だ。
バルトロマイの月、四日、土曜日。俺は早朝からいつものルーチンをこなし、現在、檻の隅で最後の肉塊に食らいついているカールの様子を観察していた。
今日は昼にも餌を使った実験を行うため、朝食はいつもより少なめだ。
本竜も途中でそれに気がついたのか、最後のひと切れを器用に咥え上げてばくばくと飲み込むと、ほどなく物足りなさそうに足もとの床を嗅ぎ回り始めた。
しかしやがて朝食を食い尽くしてしまったことを覚るやこちらを振り向き、まるで「今朝はこれだけ?」とでも尋ねるように「ギャッ」と鳴く。
俺はそんなカールの不満げな様子に、思わずふっと笑ってしまった。
人間相手にも物怖じせず、色んな仕草を見せるようになってきたな。
ちょっと前までは常にこちらを警戒して、気を張っているのが丸分かりだった。
人間が傍にいると露骨に同じ場所をうろついて「早くどこかへ行け」と言わんばかりだったし。あれは人間で言うところの貧乏ゆすり──いわゆる〝常同行動〟というやつで、生き物がイライラやストレスを感じているときに見られる行動だ。
けれども徐々に馴致が進み、檻内環境にもいくらか手を加えたことで、カールの常同行動の回数は目に見えて減りつつあった。
ヘスペルが世話をしているときにはお決まりとなっていた威嚇行為もこの三日確認されていないし、状況は順調に改善していると言える。
ただひとつ気になることがあるとすれば、先日ロレンソン博士が言っていたとおり、どうやら襟巻竜は金属を嫌う傾向があるらしいということだ。
今までカールがあまり鉄格子に近づきたがらないのは、単純に人間を警戒しているからだと思っていた。が、ある程度馴致が進んだ今もなお近寄らないところを見ると、本当に金属を避けているのではないかと思えてくる。
だとすれば事態は思いのほか深刻だった。
何せ肉食獣である竜の飼育には、どうあっても鉄の柵による囲いが欠かせない。
特に竜たちの寝床となる竜舎に鉄柵は必須だろう。
木や石などの素材では安全面に不安があるし、これから始まる条件づけ訓練も、猛獣が相手の場合は鉄柵越しに行うのが飼育のセオリーなのだから。
「……なあ、ジュンコ」
「何じゃ?」
「こないだギゼルが源素同士の相性について話してただろ。あの理屈についてはまあ何となく理解したんだが、例えば木属性の竜の寝室を全面金属張りにした場合、どういうことが起きるんだ?」
「うむ……そうじゃのう。木素と金素が互いに打ち消し合う性質を持つことを思えば、少なくとも木竜にとってそこは針の筵も同然じゃろう。数日も閉じ込められればまず間違いなく源素組成がバランスを崩し、何らかの変調を来すに違いない。まあ、現在の棲処のように、金属から充分に距離を置ける環境ならばさほど深刻な影響は出ぬじゃろうが、しかし決して居心地がよいわけでないことは確かじゃな」
「うーむ、やっぱりそうか……ならカールを始め、木属性の竜の檻には何か細工を考えた方がいいかもな。どれだけ効果があるかは分からんが、例えば柵に布とか樹皮とかを巻いて、金素の影響を緩和するとか」
「ほう。金素を嫌う木竜たちの心的負担を軽くするために、かえ?」
「ああ。ちょっとした工夫ひとつで竜たちが感じるストレスが軽減されるなら、それに越したことはないだろ。人間以外の生き物にとっても、ストレスは万病の因だしな。できれば園の竜たちには元気に長生きしてもらって、一匹でも多く子孫を残してほしいし……」
「なるほど、いかにもおんしらしい心がけじゃ。されど竜司よ、竜も人も生きておれば避けられぬストレスというものもある。そういうものとは早々に折り合いをつけねば、心労は増す一方じゃと思うがの」
「え?」
「しらばっくれるでない。いつまでこうして油を売っておるつもりじゃ。そろそろアルコル宮に戻ってラドニアに今朝のカールの様子を報告せねば、テリサとの定時連絡の時間が来てしまうぞえ」
と、呆れた様子で腕組みをしたジュンコにせっつかれ、俺は内心「うっ……」と呻いた。くそ……やっぱ炎王竜様は何でもお見通しってか?
おまけにイヴまで物言いたげにじーっとこっちを見てやがるし……ああ、もう分かったよ、戻ればいいんだろ、戻れば!
ヘスペルが宮を去って早三日。あいつが欠けても竜の園の運営は特にトラブルなく回っている。変わった点があるとすれば俺の睡眠時間がゴリッと削れたことくらいで、全体の業務に支障はない。ただ、ひとつだけ問題があるとすれば……いや、問題と言うほど深刻な話じゃない。というか、何なら何の問題もない。
そう断言できてしまうほどに、ラドニアが何も言ってこないこと。
それが目下唯一俺の頭を悩ます問題だった。何しろあいつはヘスペルと四年も旅した仲で、俺がやつを勝手に飼育員にし、勝手に追い出したことについて、本来なら非難のひとつやふたつ飛んできたとしてもおかしくはない。俺としても、どんな罵声が飛んでこようが甘んじて受ける覚悟はあったし、最悪ラドニアとの関係に修復不能な亀裂が走る可能性も考えていた。けれども当のラドニアは、
「ああ、別に気にしなくていいわよ、彼のことは。公子の話によれば、本人が竜の世話係なんてやりたくないと言ったのでしょう? なら私に止める権利はないし、そもそもヘスペルが宮に残ることについて、私はどちらかと言えば反対だった。だからこれでよかったのよ。ヘスペルもきっとそう思っていることでしょう──少なくとも今は、ね」
と言うばかりで、以降ヘスペルの話題には触れようともしなかった。
しかし最初にヘスペルが宮を出る話が持ち上がったときにはあんなに親身な意見を口にしていたラドニアが、急にヘスペルへの関心を失ったとは考え難い。
とすれば一連のラドニアの言動は俺に気を遣ってのことなのか、はたまたヘスペルに愛想を尽かしてしまったのか……まさかとは思うが、実はあいつには初めから大した興味も思い入れもなかった、なんてオチじゃないよな?
もしそうだとしたら、さすがの俺もヘスペルに同情するぞ。
だって、少なくともあいつはラドニアに──
「──それで? 他に何か変わった様子はなかったの?」
「……へっ?」
ところがそんな物思いに耽っていたら、いつの間にか意識が飛んでいた。
ふと我に返ってみると、目の前にはよく磨かれた眼鏡の向こうからじっとこちらへ視線を注ぐラドニアの顔がある。
そこで俺はようやく、ここがアルコル宮の一階にある書斎であること、そして自分は今、今朝のカールの観察結果を報告している最中だということを思い出した。
俺もヘスペル同様アゴログンド語、すなわち英語の読み書きができないために、カールの飼育日誌については引き続きラドニアに代筆を依頼しているのだ。
「え、あ、ああ、えーと、そうだな、今朝の報告はこれくらいだな! 他に特筆すべきことは何も……」
「そう。であれば順調ね。カールもこの三日間は特に問題行動もなく、落ち着いているようだし」
「お、おう……」
「今の状態なら、例の検証も滞りなく行えると思うわ。ただ、見慣れない人間はまだひどく警戒するでしょうから、だいぶ大人しくなったとは言え注意して。特にロレンソン博士は体が大きいから、カールが怯えるかもしれない。検証には私も立ち合うつもりだけれど、博士には事前に事情を説明して、なるべくカールの視界に入らないよう配慮をお願いするべきかも」
「そ、そうだな。博士もその辺の事情は察してくれるだろうから、検証前に話してみるよ。カールが警戒した状態だと、正確なデータが取れない可能性もあるしな」
と、何でもない風を装って返事をしたはいいものの。
俺は部屋の片隅からじとーっと注がれるあからさまな視線に気がついていて、気まずさを押し殺しつつちらとそちらへ目をやった。そこには案の定、竜医の仕事場と化した書斎の一角に集まり、白い目で俺を見ている雌竜どもがいる。
言わずもがなイヴ、ジュンコ、ブルーの三匹だ。
いや、ブルーまでそんな目で俺を見るってどういうことだよ。
ジュンコのやつが何か吹き込んだのか? まあ、雌竜と言っても、そもそも炎王竜として復活したジュンコにはオスメスの区別はないらしいけどな……。
「あ、あー、ところでラドニア、ブルーの容態はもうだいぶいいのか? 見たところ体重も戻ったみたいだし、腹の傷の抜糸も済んだんだろ?」
「ええ、彼女ももう問題ないわ。治りかけの傷が何かの拍子に開くといけないからもう二、三日は安静が必要だけれど、本人はとても元気だし、餌ももう固形のものを与えてる。ただ食欲が回復した分、今度は食べすぎていないか注意を払わないとね。竜にとっても肥満は大敵だから」
「そ、そうか。そりゃよかった。けど、ほら、あれだ……本当に何も問題ないか? その……要はヘスペルのやつが急にいなくなって、寂しがったりしてないかってことなんだけど……」
と、我ながらヘタクソな切り出し方だと呆れつつ、俺はついに三匹の竜の無言の圧力に耐えかねてヘスペルの名を口にした。というかさっきジュンコにも言われたが、やっぱりこのまま何事もなかったかのようにラドニアと接するのは俺には無理だ。こいつがもし俺に気を遣って口を閉ざしてるんだとしたら、なおさら。
「あ~、つまらん、つまらんの~。やはりいくら書物を睨んでみても、文字というのは難解すぎて理解不能じゃ~。のう、イヴ、ブルー。わしらはここにおっても退屈じゃから、竜司の用事が済むまで一緒に外で遊ばぬか?」
「おそと! イヴ、おそと、いく!」
「ピャッ!」
ところが俺がついに腹を決め、ヘスペルの話題に触れたと知るや突然ジュンコがそんなことを言い出した。あいつもあいつでわざとらしいにもほどがあるのだが、あれでも一応ジュンコなりの気遣いのつもりなのだろう、イヴとブルーを先導すると仲良く書斎をあとにする。残ったのは当然、俺とラドニアのふたりだけ。
幸い……と言うべきか、監視役も今朝方、急に屋敷に呼び出されたとかで一時的に不在にしており、当分邪魔が入る心配もなかった。すると不意に机を挟んで向き合ったラドニアが下を向き、笑い出す。それを見た俺がどうしたのかと目を丸くすれば、ラドニアは軽く口もとを押さえて「ごめんなさい」と謝った。
「笑うところじゃないのかもしれないけれど……ジュンコって本当に不思議な子よね。普段から妙にマセてて、背伸びした言動をする子だとは思ってたけど、今のも私たちに気を遣ったつもりなのかと思うと可笑しくて」
「おっ……おぉ、そうだな……あいつときどきマジで変なこと言い出すからな……俺も人のこと言えたもんじゃないが、やっぱ母大樹の森で行き倒れてたやつってのは、どっかしら頭のネジが飛んでるのかも」
「あら、確かにあなたも時折不思議なことを口走るけど、ネジが飛んでるってほどじゃないわ。まだ締め直せば何とかなるわよ」
「おい。一応慰めてくれてるんだよな?」
「いいえ。慰めるどころか、むしろ褒めてる。あなたは本当によくやっているわ、リュージ。失った記憶の回復もままならないまま、理不尽な理由で奴隷にされて、しかも竜の保護政策なんて無理難題を押しつけられたのに文句も言わず、泣き言も言わず、常に目の前の問題と全力で向き合っている。園に連れてこられた竜たちは確かに不運ではあるけれど、不幸ではないわ。だってこんなにも真剣に自分たちを想ってくれる人間と出会えたのだから」
と、まったく予想もしていなかったラドニアの答えに、俺は束の間ぽかんと呆気に取られてしまった。けれども数瞬ののち、自分が何と言われたのかを脳がようやく理解して、みるみる頬に熱が集まってくる。
「お、おい……俺なんかおだてたって何も出ないぞ。というか俺はだな、おまえと一度、ちゃんとヘスペルの話をしようと……」
「あら、あなた、意外と褒められ慣れてないのね」
「話を逸らすな! この歳になると人を褒めて伸ばす方に回るから、若い頃に比べて耐性がなくなってるだけだ!」
「え? 〝若い頃〟って、今も充分若いと思うけど……」
とラドニアに怪訝な顔をされ、俺はまたしても迂闊な失言をしてしまったことに気がついた。ええい、それもこれもいい歳こいたおっさんを女どもがからかうからだぞ! 何度も言うように、ジュンコは正確には女じゃないけど!
「まあ、そうムキにならないでちょうだい。今のはヘスペルの件も含めて褒めたのよ。あなたは彼のために、できるだけのことをしてくれたわ。あとのことは本人次第っていう私の気持ちにも嘘はない。もちろん本音を言えば、もう少し円満にお別れしたかったけれど……ヘスペルにはあなたのように、正面からぶつかってきてくれる人が必要だったの。今の今まで、彼の前にはそういう人が現れてはくれなかったから」
ところが俺が直前の失言をどう誤魔化したものかと頭を抱えていると、またもラドニアの口から予想だにしていなかった言葉が零れた。ゆえに驚いた俺が顔を上げれば、ラドニアはいつかと同じ微笑とも苦笑とも取れる表情を浮かべて言う。
「そうね……私の口から勝手に話してしまっていいものかどうか、悩みどころではあるけれど、あなたには一応話しておくわ。昔ヘスペルが聞かせてくれた、彼の生い立ちをね」




