スライムのみぞ知る
フリーダ・ゴンデシャルは今も不信を拭えずにいた。
ヤマタ・リュージ。覚醒した母大樹の森で記憶がないまま目覚めたというあの男のことが、未だにどうも気にかかる。
やつをフーヴェルオと引き合わせ、竜の園の管理を任せてはどうかと提案したのは間違いだったかもしれない。竜毒を無効化できる能力を見て、竜使いの末裔ではないかと安易に飛びついたのがいけなかった。
本人が「母大樹の森で目覚めるまでの記憶がない」と言うものだから、これは利用できると思ってしまったのだ。
フーヴェルオがどれほどの資金と時間を注ぎ込んでも一向に軌道に乗らない竜の園の運営を、何とか成功させなければならないという焦りが判断を誤らせた。
ギゼルの報告によれば、リュージの特殊能力は竜使いの血によってもたらされたものではなく、母大樹の森の氣に長時間晒されたがゆえの源素変異の可能性がある……とラドニア・クリソプルが指摘していたらしい。
長年帝国に逆らい続けた罪人の証言など怪しいものだが、しかしクリソプルの闇医者としての経歴は長く、腕も確かという噂だ。
正式な医師免許こそ持たないとは言え、各地を流浪して様々な症状を訴える人間を見てきたことは事実だろうから、やつの意見も一考の余地はあると思われた。
だが仮にクリソプルの説が正しいとして、ならばヤマタ・リュージとは何者だ?
依然としてやつの監視につけているギゼルからは、相変わらず不可解な言動が多く、記憶喪失の話もどこまでが事実なのか判断がつかないと報告があった。
アゴログンドの人間ならば誰でも常識として知っていることを何も知らず、そのくせ竜や魔獣については妙に偏った知識の片鱗を見せる。実際、リュージは魔獣研究の権威であるテリサ・アリスターとも対等に議論を交わし、竜や魔獣の生態、習性、能力を利用した問題の解決に何度も寄与したと聞いた。
それは竜の園の管理者としてはむしろ歓迎されるべき能力だ。
リュージは竜毒が効かないことを差し引いても、どうやら竜に強い興味と愛着を持っているらしく、園の管理を任せる人物としては申し分ない。
しかしギゼルが持ち帰ったリュージの『ドラゴン・パーク計画』なるものを知ったとき、フリーダはぞっと背筋が冷えるのを感じた。
少なくともやつはただの記憶喪失者などではない。根拠は何もないものの、長年竜を追って野山を馳せるうちに身についた野生の勘がそう言っている。
ヤマタ・リュージは危険だ。
放っておけば、いずれフーヴェルオの計画の妨げになるかもしれない、と。
(だが陛下には──時間がない)
ゆえにフーヴェルオはもうしばらくリュージを泳がせると言った。
やつの能力と情熱は、うまく利用できるうちは役に立つ。ならば使えるだけ使ったのちに、邪魔になるようなら頃合いを見て排除すればよかろう、と。
しかしもしやつを排除する時期を見誤ったら? ひょっとするとリュージもまたフリーダたちを欺き、皇家に取り入って利用しようと企んでいるのかもしれない。
ゆえにフリーダは一刻も早く見定めなければならなかった。
ヤマタ・リュージの正体と目的を。
「……」
ヨハネの月三十日の水曜日、午前十時過ぎ。
アルコル宮を囲う雑木林に身を潜め、様子を窺っていたフリーダは、リュージがイヴと名づけた半人半竜の少女を連れて宮を離れたのを確認した。
事前に竜の園の視察と偽ってギゼルと接触し、宮には現在リュージとイヴのふたりしか残っていないとの情報を得ている。
とすれば今、アルコル宮は無人だ。潜入するチャンスはここしかない。
フリーダは皇宮で管理されている離宮の鍵束を手に、誰にも気取られることなくアルコル宮へ侵入した。完璧に気配を殺し、されどあくまで堂々と。
入り口の扉を音もなく閉じて錠を下ろし、宮内が本当に無人かどうか慎重に気配を嗅ぐ。こうしていると、やはり己は生まれながらの狩人なのだと実感した。
とは言えギゼルあたりがフリーダのこの行動を知れば、きっと「皇属竜狩猟団の団長が自らなさることではない」と苦言を呈されることだろう。
それでもフリーダはやらねばならなかった。
これは他人には決して任せられない仕事なのだ。
何故ならフリーダには秘密がある。
数いる部下の中で最も信頼に値する従弟にすら気取られてはならない秘密が。
(……ここがリュージの部屋だな)
玄関広間から白亜の階段を上がり、かつての客室が並ぶ廊下を最奥まで進んだ突き当たり。宮の北と東に面するその部屋をリュージが自室に選んだことも、フリーダはギゼルから聞いていた。無用心なことに部屋の鍵はかかっていない。
見られて困るものなど何もないとでも言いたいのだろうか。
確かにリュージがセント・ソフィア宮殿へやってきたのはつい半月前のことだ。
それを思えばまだ決定的な情報を得るには時期尚早と言えるのかもしれない。
しかし何かひとつでもいい。あの男の正体を探るための手がかりがあれば……。
「……む?」
リュージの気性と身分にはまったく似つかわしくない瀟洒な内装。百年前の皇妃が療養のために使っていたと言われるその部屋には目を引くものがふたつあった。
ひとつは窓辺に置かれたガラス瓶。
中で赤い核を微か明滅させているアレはスライムか。
そう言えばギゼルが、しばらくはテリサ・アリスターが発見したスライムの交信能力を利用して、研究所にいる彼女と連絡を取り合うことになったと言っていた。
ならばアレはアリスター魔獣研究所からの借り物。別段気にする必要はない。
問題は光合石の円卓に置かれたままになっている一冊の手帳だ。フリーダは音もなくそれに近づき、革を加工して作られた上質な表紙を開いてみる。
そしてすぐに息を飲んだ。
──なんだこれは……!?
そう叫びそうになったのをぐっとこらえ、目の前で開かれた紙面を凝視する。
──まったく読めない。
字が汚いとか、綴りが間違いだらけだとか、そういう類の話ではない。
恐らくリュージが記したと思しい手帳の中身は、フリーダの知らない文字で埋め尽くされていたのである。
「まさか……暗号か?」
かつて高名な竜術師たちが、自らの研究を盗まれぬために暗号を使って手記を残したという話を昔、どこかで聞いたことがある。
あるいはこれはそんな偉人たちの逸話を真似たのだろうか。AからZまで、たった二十六文字しかないアルファベットとは完全に異なる複雑怪奇な文字の羅列。
一体何種類の文字を組み合わせているのか、一文字一文字が形も複雑さも違っているのが特徴的だ。しかし中でも比較的簡易な形状の文字には曲線が多く、上級の竜たちが使う古竜文字ともまた違う。
アレは竜が岩や地面に爪で刻みつける文字だから、直線の組み合わせのような単純な形状のものが多いのだ。とするとあの男は、まさかこれほど膨大な種類の文字を自力で創作したというのか? いや、あるいはこの暗号文字を創り出した者は別にいて、その者との間でだけ通じる文書を作成している……?
(どちらにせよ……やはりやつは、ただの記憶喪失者ではない──)
たった半月余りの間に、やつひとりでここまで難解な暗号を考えられるものか。
とすればやはりリュージは記憶喪失のふりをしているか、背後にやつとつながる何者かが潜んでいるのか。あるいはその両方という可能性だって充分にある。
フリーダはぎりと歯噛みすると、謎の文字が記されたページを一枚破り取った。
とにかくこれはリュージの虚言を暴く証拠として取っておかねば。
当人もページが破られたことにはすぐに気づくだろうが、フリーダが宮へ忍び込んだことは誰も知らない。ならば犯人として特定されることもないだろう。
むしろリュージも暗号の一部を盗まれたと知れば、焦って尻尾を出すかもしれない。フリーダはさらに部屋をあさり、他にめぼしいものがないのを確かめると、ほどなく宮をあとにした。収穫は少なかったが、暗号の存在を突き止めただけでもかなりの成果だ。この件はただちにフーヴェルオへ報告しなければ……。
「……リュージ。貴様に陛下の邪魔はさせんぞ」
たとえやつが何者であろうと関係ない。
フーヴェルオの悲願の成就を阻む者は、誰であろうとも排除する。
人類と竜の共存など、所詮は夢物語だ。リュージが何のためにドラゴン・パークなどという大それた計画を持ち出したのかは分からない。
しかし目的が何であれ、やつがフーヴェルオの覇道の妨げになるのなら……。
「行こう、グラニ」
林に隠していた愛馬の綱を解き、フリーダは暗い覚悟と共に鞍を跨いだ。左頬に走る三本の古い傷痕に指を這わせ、あの日の誓いをもう一度魂に刻みつける。
──すべてはフーヴェルオ三世陛下のために。
そうして開かれた瞼の奥で、金の眼が決意に燃えていたことを、窓辺に佇むスライムだけが知っている。




