日常に潜む影
フレディはアリスター博士が培養した三十代目のスライムだ。
同じ親から分裂して生まれた個体にマイヤースというのがいる。
瓶に貼られたラベルを見ないと、どっちがどっちなのか見分けはつかない。
とは言え同じ親から分裂したということは、フレディとマイヤースはまぎれもない同核族。地球人にも馴染みのある言い方をすれば兄弟というわけだ。
そしてスライムたちは言葉を話す知能を持たない代わりに、同核感応を使って親兄弟と会話する。博士は彼らのこの能力に着目し、長年研究を続けてきた。
たとえばテレパシーが届く最大距離はどのくらいなのか、とか。スライムたちはテレパシーによってどの程度まで複雑なやりとりが可能なのか、とか。
その過程で培養されたスライムたちは、代を重ねるごとに知能が発達していき、ついには人間の姿を真似て声帯を模造するまでになった。
目や耳や鼻といった感覚器官を持たない彼らが、どうやって人の形や声の高低を感じ取り、模倣しているのかは分からない。けれども博士はこの能力をさらに発展させ、簡単な調教によってスライム電話とも呼ぶべき技術を獲得した。
フレディたちに電話の真似ごとをさせるのは簡単だ。合図の笛を吹いたらテレパシーによる通信を開始し、うまくできたらご褒美の餌を与える。
いかなる動物の調教にも共通する、条件づけのトレーニング。
これによってフレディやマイヤースの代のスライムたちは当たり前にテレパシー通信をするようになった。博士は彼らが獲得したこの能力を利用して、帝都へ戻る俺たちとの連絡役になってもらおうと提案したわけだ。
「テレパシートレーニングを積んだスライムたちは、餌を獲得するためにはトレーニングを成功させなければならないと学んだためか、代を重ねるごとに交信可能距離が伸びていっています。現在はおよそ三〇〇キロ離れた地点からでも交信が可能であることが分かっているので、ぎりぎり帝都と研究所をつなげる距離です。というわけで、わたしたちの連絡役として一旦フレディをお預けするので、毎日決まった時間に連絡を取り合うようにしましょう。そうすればスライムたちもその時間を餌の時間だと認識できますから」
──というわけで初の出張を終えて帝都メアレストへ戻ってきた俺の眼前には、アリスター魔獣研究所から預かってきたスライムのフレディがいる。
一応瓶が割れてフレディが逃げ出すとか、そういった不測の事態に備えてもう一体、マイヤースも預かってきているがそちらはラドニアの担当だ。
スライムたちに与える固形飼料については材料や作り方を記したレシピをもらってきたから、そいつを参考に手作りすることになった。
帝都に戻ってきてからの初通信もうまくいったので、当面はこれで博士とも連絡を取り合える。まったく、電話もメールもない世界で生物の持つ能力を使って人とやりとりすることになるとはな。異世界での生活ってのは驚きの連続だ。
アリスター魔獣研究所のあったバナトの町から、再びペガサスに乗ってメアレストへ舞い戻った翌日。どうにか約束の期日内に帰り着き、フリーダに絞め殺される未来を回避した俺は現在拠点となっているアルコル宮で博士との定時連絡を終え、ギゼル経由で入手した手帳に交信記録をつけていた。
最初は埃まみれだったアルコル宮も竜の園で働く奴隷たち──という呼び方はなんか嫌だから今後は飼育員と呼ぼう──を総動員した大掃除のおかげで、すっかりかつての小宮殿としての姿を取り戻している。宮の二階にはもともと寝室や客室として使われていたらしい部屋がいくつかあって、うちひとつが俺の個室だ。
アルコル宮は周囲を雑木林に囲まれ、晴れた日にはちょっとした森林浴が楽しめそうな立地のため、俺は窓から林を望める角部屋を寝室兼執務室にした。
前世で勤めていた九木山動物園も山の中だったから、緑が見えるとやっぱ落ち着くんだよな。これだけ林が近ければ部屋から野鳥観察なんかもできそうだし。
「ブルー、ブルー、ブルー!」
「ピャッ!」
うーん、しかし文字を書くのにいちいちインクをつけなきゃならんってのは結構面倒だな。やっぱ筆記用具は羽根ペンじゃなくて鉛筆がいいとゴネてみるべきか?
などと俺が眉をしかめてペン先を睨んでいる傍らで、人間様の苦労など知る由もない竜二匹がはしゃいでいた。と言っても一方は半人半竜なので〝匹〟と数えるべきか〝人〟と数えるべきか、依然として悩ましいところだが。
「おい、イヴ。ブルーはまだ療養中なんだ、あんまりちょっかいかけて疲れさせるなよ。それでなくとも今は大事な時期なんだから」
「?」
「まあ、一緒にはしゃげるくらい元気になったのはよかったけどな……痛み止めもよく効いてるみたいだし、あとは無事に卵が孵ってくれりゃ万々歳か。異世界に来て最初に取り上げる竜の子は、ぜひ〝ブルー〟の子であってほしいもんだ」
と、俺がブルーの名を某ヴェロキラプトルと重ね合わせて感慨に耽っている間にも、イヴがスプーンで救った鶏肉のすり身を物欲しそうに見上げたブルーが、クッションの敷かれた編み籠から首を伸ばしてバクッと餌に食らいついた。
気づいたイヴが途端に「むー!」と抗議すれば、ブルーは愉快そうに鳴きながら羽毛竜の象徴である青い翼を羽ばたかせる。
現在ラドニアは宮を離れて竜たちの診察中。ゆえに俺がブルーを預かり、術後の容態を見守りつつ朝飯をやっているところだった。博士とは毎日十時と十八時に連絡を取り合う約束を取りつけたので、ブルーの餌づけもその時間に合わせることにしたのだ。スライムたちにも同じ時間に餌をやらなきゃならないからな。
とは言え今朝はイヴがブルーに餌づけをしたがったので「おまえが食うなよ」と念を押しながら、消化しやすいようすり身にした鶏肉を預けた。
やはりイヴはこの頃しきりに俺たちの行動を真似たがる。
しかし言葉の方は相変わらず未発達で、簡単な語彙がいくつか増えただけ。
こうなるとアリスター魔獣研究所でブルーの心情を代弁したときのアレは何だったのかと改めて首を傾げざるを得ないが……まあ、けどおかげでブルーとはすっかり仲良しみたいだからよしとするか。
ブルーも手術当日はさすがにぐったりしていたものの、昨日今日と順調に元気を取り戻し、食欲も旺盛すぎるくらいに回復していた。
産卵のために一ヶ月も絶食していたことを思えば当然だが、腹の傷はまだ縫合された状態だというのに元気すぎる。
それだけラドニアが調合した鎮痛剤がよく効いているのだとしても、傷が裂けないか心配だからもう少し安静にしてくれ。ブルーには一日も早く傷を治して、研究所に預けてきた卵を自分で抱いてほしいしな。
「しかし魔法ってーと、ホイミとかケアルみたいな傷を癒やす系の術もあるのかと思ったが、さすがにそこまで都合のいいもんじゃあないんだな……そもそも竜術を使える人間が減ってるってのも気になるし、調査したいことが山積みだ……」
と部屋の隅で戯れるイヴとブルーを眺めながら、俺は大理石っぽい何かでできた円卓に肘を乗せ、ペン先でガリガリと頭皮を掻いた。
セント・ソフィア宮殿に来た直後はイヴのことだけでも頭を抱えてたのに、この世界は知れば知るほど謎が深まっていく。竜や魔獣といった生き物のことはもちろん、魂だとか氣だとかいう未知のパワーについてもいまいちよく分からないし、当たり前の顔をして英語を使うアゴログンド人の起源も不明。
でもって俺は一度気になったことはとことんまで調べないと気が済まないタチだから、こうなるとあれもこれもすべてを解き明かしたくなってくる。だから頭がパンクしないように、こうして園の運営日誌兼覚書きをつけ始めたんだけどな。
「んん……まあ、今は考え込んでてもしゃーないか。まずはできることから順に手をつけていかないと、な」
ほどなく俺はパラパラと見返していた手帳を閉じて、ようよう椅子から腰を上げた。ひとまずデスクワークは一旦ここまで。博士との定時連絡も済んだことだし、俺もラドニアを追って園の様子を見に行くとするか。
やっぱり俺は根っからの飼育員で、いくら園長と同等のポジションに着いたからと言って椅子の上でじっとしてるのは性に合わない。
前世で飼育係長や課長への昇進を断り続けたのも、後方支援に回るのではなく、生涯動物飼育の最前線に立っていたかったからだ。
ゆえにアゴログンドでもその信条を曲げる気はない。肩書きはどうあれ俺も飼育員のひとりとして園の竜たちと向き合い、世話をしていくつもりだ。
実際問題、園に今いる奴隷身分の飼育員たちはみんな竜に恐怖や嫌悪感を持っていて、嫌々世話をしてるって感じだからな。それこそ園長の俺が手本を見せて、まずは現場の人間の意識改革から始めなきゃならん。
動物園の運営ってのは、動物と飼育員の信頼関係がなきゃ成り立たないからな。
「よし、イヴ。そろそろ園に移動するぞ。おまえも来るだろ?」
「……! リュージ、そと?」
「ああ、外だ。ブルーの飯は……よし、ちゃんと全部食わせたみたいだな。んじゃブルーはラドニアの部屋のケージに戻すとして、フレディはなるべく日当たりのいいとこに置いといてやってくれって博士に頼まれたからな。日中は窓辺に置いとくか。しかしスライムって暗くてジメッとしたとこにいるもんじゃないのかね……」
などとぼやきつつ、ざっと出発の準備を整えた俺は、最後に皇属竜狩猟団の外套を羽織り、ブルーの乗った籠を抱えて部屋を出た。
ゆくゆくは園の関係者であることがひと目で分かる作業着を発注する予定だが、今は持ち合わせの服がこいつと簡素すぎる奴隷服しかないので仕方がない。
イヴも帝都に戻ってきてからは、袖口や首もとがピッタリとしていたメイド服ではなく、エレノアが俺たち不在の間に作ってくれたワンピースを好んで着ていた。
まあ、ワンピースと言っても年頃の女子が想像するような洒落たものではなく、何の刺繍も柄もない生成りの布を一枚接ぎ合わせただけのあまりに質素な代物だ。
唯一腰のあたりを締めるために巻いた麻紐のリボンがちょっとおしゃれに見える程度だな。けれどもイヴはワンピースの方が断然着やすく動きやすいからか、一度メイド服を脱いだら二度と着たがらなくなってしまった。
それはそれでちょっと残念……などとは、俺は一切思っていない。
神に誓って。これっぽっちも。
「んじゃな、ブルー。俺たちが戻るまで大人しく休んでるんだぞ」
「ピィ!」
かくして部屋を出た俺とイヴは、ラドニアの部屋に設置された箱型ケージに籠ごとブルーを入れてやり、しっかり鍵をかけてアルコル宮をあとにした。ギゼルは宮に来たばかりのラドニアの見張り、ヘスペルはラドニアを見張るギゼルの見張りとして共に園にいるはずだから、宮はしばらくブルーとスライムたちの貸し切りだ。
──だから俺たちは知らなかった。
無人となったアルコル宮に、ある女がこっそりと忍び込んでいたなんて。




