↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
踊る喋る猫と男の秋旅行計画  作者: みなと劉


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/12

残すところ7つの秋

 物置は港の裏の坂の途中にあった。

 漁網と錆びた碇のあいだを抜けると、奥の棚に桐の箱がひとつ、皮の破れた三味線と並んで置かれていた。

 蓋には墨で、口上、と書いてある。

 陽太がそれを下ろそうとすると、背後で声がした。

「開けるな」

 タンゴは敷居の外に座り、一歩も中へ入ろうとしなかった。

「開けてやんな、坊主。どうせいつかは開くんだ」

 犬に促されて陽太が蓋を取ると、樟脳の匂いが立ちのぼった。

 中には紺の中折れ帽が収まっていた。

 耳を通す穴はない。

 大きさは、人の頭のものだった。

「踊りに、歌に、語り。三つ揃って橘一座の看板よ。そいつは人間用だ。旦那、被ってみな」

 犬が顎でこちらを示した。

 私が帽子に手を伸ばすと、敷居の向こうで猫が腰を浮かせた。

「やめてくれ」

 耳を疑った。

 この猫が私に、命令以外の形で物を言うのは初めてだった。

 けれども、見たものは書けと言われている。

 見なければ書けないのが、私の仕事だった。

 帽子は計ったように頭へ収まった。

 喉の奥が熱くなり、背筋が勝手に伸び、胸がひとりでに膨らんだ。

 口が開いた。

「とざあい、とうざあい」

 私の声ではなかった。

 物置の梁を震わせる張りのある声が、私の喉を使っていた。

「このたびの興行、皆々様のお引き立てをもちまして、残すところ七つの秋と相成りましてございまする」

 次の瞬間、茶色いものが顔に飛びついてきた。

 額に熱い線が走り、帽子が床へ転がった。

 タンゴはその上に四つ足で乗り、毛を逆立てて息を切らしていた。

 波の音だけが、坂の下から上がってきた。

「七つとは、何の数だ」

 ようやく出た自分の声は、ひどくかすれていた。

 犬は目を細めて、床の帽子を見た。

「毛玉はな、それを聞きたくなくて、箱に近寄らなかったのよ。座長があれを被って、残り一つと言った次の秋が、昭和六十一年だ」

 谷口さんが小さく息を吸った。

 あの年の座長が舞台の袖で帽子を握りしめていた姿を、覚えているのだという。

 誰の秋なのかを、口上は言わなかった。

 私は杖を握る谷口さんを見て、白く濁った犬の目を見て、帽子の上で震えている猫を見た。

 それから、血のにじむ自分の額に触れた。

 誰も次の言葉を口にしなかった。

 こつん、と杖が床を打った。

 谷口さんは片手の指を一本ずつ折り、足りないぶんをもう片方の手で数えて、顔を上げた。

「七つ。あら、ちょうどよいじゃないの」

 猫の耳がわずかに動いた。

「だって、ひとつ残らず計画が立てられるでしょう。あの年のわたしたちは、ひとつしかなかったのよ」

 陽太が桐の箱の蓋を閉め、紺の帽子はもとの棚に戻された。

 犬は港まで見送りに来て、船が出るときに一声だけ、長く節をつけて鳴いた。

 帰りのフェリーで、私は額に絆創膏を貼った。

 タンゴは手すりの下に座って、島へ来てから初めて海を見ていた。

「爪を立てたことは詫びない」

「それでいいよ」

 私が答えると、猫はしばらく黙って、遠ざかる島を眺めていた。

 船の尾に、白い航跡が長く伸びていた。

「七年あれば」

 タンゴは前を向いたまま言った。

「君の半拍も、どうにかなるだろう」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。