紹介などするな金の話をしろ…って
締切は明朝九時で、書き出しはまだ一行もなかった。
雑居ビルの三階にある編集部には、私と編集長と猫だけが残っている。
三年間、この猫を書かずに来た。
書いてよいと言われた途端、どこから書けばいいのかわからなくなった。
世の中には喋る猫がいる、と打っては消し、信じてもらえないだろうが、と打っては消した。
「信じてもらう必要はない」
編集長は新しい赤鉛筆を削りながら言った。
「ただし、九時までに埋めろ」
それから応接のソファに横になり、上着を顔にかけた。
やがて、机の端で資料の山に座っていたタンゴが、前足で私の手の甲をつついた。
「何を悩んでいる」
「最初の一行だ。喋る猫を、どう読者に紹介すればいい」
「紹介などするから嘘くさくなる。金の話を書きたまえ」
私は猫を見た。
猫は欠伸をひとつして、つばの下から窓の外を眺めた。
「あの朝、君が最初に払った金のことだ。読者は、金の話なら信じる」
指が止まり、それからゆっくりとキーの上に戻った。
一行目は七秒で書けた。
二行目はそのあとについてきた。
そこから先は、ひとつ動き出した列車が次の車両を引くように続いた。
銀杏の下の老人も、奈落の足音も、六十畳の広間で踏んだ尾の回数も、三年分の手帳の余白から順に起き上がってきた。
窓が白み始めたころ、私は最後の一文に句点を打った。
九時五分前、刷り上がったばかりのゲラの前に編集長が座った。
赤鉛筆の先が一行目の上で止まり、そのまま紙の上を滑っていった。
一度も下りなかった。
読み終えると、彼は最初のページへ戻ってもう一度読み、鉛筆を置いて、引き出しの校了印を探し始めた。
その背後で、猫が机の上を歩いていた。
開けっ放しの朱肉の前で立ち止まり、右の前足をそっと沈める。
そしてゲラに移り、題字の横の余白に、ゆっくりと一歩を踏み下ろした。
赤い足跡が、ひとつついた。
「赤を入れたぞ」
振り返った編集長は、校了印を手にしたまま長いこと紙を見下ろしていた。
やがて印を引き出しに戻し、受話器を取った。
「印刷所か。今から送る紙に汚れがあるが、消すな。そのまま刷ってくれ」
発売日の朝、私たちはホームにいた。
連載第二回の取材に出るところで、谷口さんとは途中の駅で落ち合うことになっている。
ベンチの横の売店に雑誌の束が届き、店番の女性が紐を切った。
いちばん上の一冊は、『ゆくさき』だった。
客のいない時間なのだろう、彼女は何気なくそれを手に取り、ぱらぱらとめくって、赤い足跡のあるページで指を止めた。
私は息を詰めた。
「記者、足が震えているぞ」
肩の上で、羽根が小さく揺れた。
線路の向こうから列車の音が近づいてくる。
彼女の目が、最初の行へ落ちた。
切符は二枚買った。
一枚は私のぶんで、もう一枚は帽子のぶんである。




