見たものは書け…か。
切符は四枚になった。
四枚目は編集長のぶんで、取材班の実態を確かめると言って、一年後の秋のホームに鞄を提げて現れたのである。
谷口さんは杖をついたまま丁寧に頭を下げた。
「谷口と申します。帽子を担当しております」
編集長は彼女を見て、私の肩の猫を見た。
タンゴは口を結び、髭一本動かさなかった。
列車に乗ってからも、一言も喋らなかった。
ただ、編集長が席を立った隙に、私の耳元で囁いた。
「あの男の前では、当分ただの猫でいる。一度赤を入れられた身だ」
今年の行き先は、北の港町だった。
地図の上で猫が座った場所に、谷口さんが、ああ魚箱ね、と懐かしそうに言った町である。
翌朝五時、私たちは魚市場の隅にいた。
水銀灯の下に銀色の魚が並び、競り人のだみ声と長靴の音が、濡れたコンクリートに跳ね返っている。
編集長は腕を組み、赤鉛筆を耳に挟んでいた。
タンゴが空の魚箱に飛び乗った。
私が一歩出ようとすると、杖が私の足の前に差し出された。
「今日は入らないでおきましょう」
谷口さんはそう言って、別の箱に腰を下ろした。
猫が立ち上がったとき、ちょうど岸壁の向こうから朝日が射した。
私はそれまで、この踊りをちゃんと見たことがなかったのだと思う。
はじめの二年は手帳を構えていたし、この一年は足の運びを数えていた。
何も持たずに見る踊りは、まるで別のものだった。
煤けた茶色だと思っていた背中が、光を受けて、燠のように赤く透けている。
前足がひとつ弧を描くと、その形が消えるより先に次の弧が重なり、帽子の羽根だけが遅れて、すべての動きをなぞった。
小さな体の周りの空気に、とろみがついたように見えた。
美しい、と書けば済む話だが、私はそのとき、言葉を探すことさえ忘れていた。
だみ声が途切れた。
箱を抱えた若者が通路で足を止め、競り人の手が宙に上がったままになり、仲買人たちの帽子がひとつ、またひとつとこちらを向いた。
誰も口をきかなかった。
魚の上の氷が、ぴしり、と鳴った。
そのとき、空いた拍に、どん、と長靴が落ちた。
隣の男の長靴がそれに続いた。
どん、と鳴るたびに足の数が増え、やがて魚市場じゅうが、猫が空けた場所だけを正確に踏み始めた。
当の男たちは、自分の足を不思議そうに見下ろしている。
「空けておくとね、人は入りたくなるのよ」
谷口さんが、楽しそうに杖の先を揺らしながら言った。
私は編集長を見た。
耳にあったはずの赤鉛筆が手の中にあり、その尻が、手帳の表紙をこつこつと打っていた。
拍は合っていた。
猫が礼をしたのは、十分を過ぎてからだった。
市場長が我に返って鐘を鳴らすと、男たちは照れくさそうに目を逸らし、何事もなかったように声を張り上げ始めた。
ただ、箱を抱えた若者が通りがかりに、秋刀魚を一尾、魚箱の端にそっと置いていった。
タンゴはそれを見下ろし、帽子の傾きを直した。
「ちょうどよい広さだった」
編集長の手から赤鉛筆が落ちた。
それはコンクリートの上を転がって、排水溝の縁で止まった。
彼は拾わなかった。
「今、喋ったか」
「取材班です」
私は答えた。
編集長はしばらく魚箱の上の猫を見つめていたが、やがて深く息を吐くと、私の胸ポケットからボールペンを抜き取った。
「来月から連載の題を変える」
「うちは紀行で、童話じゃないのでは」
「ああ、紀行だ。見たものは書け」
彼は手帳の余白に、長い題を一行で書きつけた。
踊る喋る猫と男の秋旅行計画。
「男、というのは私ですか」
「猫より先に書く理由があるなら言ってみろ」
反論は思いつかなかった。
魚箱の上で、取材班の主任が秋刀魚を頭から食べ始めていた。




