谷口さんとタンゴ
その晩は洋裁店の二階に泊めてもらった。
階下の灯りは遅くまで消えず、ふたつの声が低く続いていた。
片方は、私の聞いたことのない調子で笑っていた。
翌朝、広場には霜が降りていた。
谷口さんは杖をついて出てきて、私は言われるまま折りたたみ椅子を運んだ。
帰りの列車まで一時間ある。
手帳の五日目の欄は、空白のままだった。
彼女は椅子に座らず、四角い空き地をひととおり見渡した。
「ちょうどよい広さね」
広間で聞いた節回しの、これが本物だった。
猫の口真似がどれほど正確だったかを、私はそのとき知った。
「おいで」
肩の上の重みが消えた。
タンゴは霜の上に降り立ち、後ろ足で立って、彼女のほうへ前足を差し出した。
谷口さんは左手を私の腕に掛けた。
「右が利かないの。貸してくださいな」
猫が一歩目を踏んだ。
右、右、左と運んで、拍が空く。
そこへ彼女の杖の先がこつんと落ち、半拍遅れて私の靴が落ちた。
「遅い遅い、だいぶ遅い」
谷口さんは楽しそうに言った。
だが杖が手前を打ち、靴が後ろを踏むと、四十年の穴はほつれた縫い目のように両側からかがられていった。
腕に掛かる重みは、思っていたよりずっと軽かった。
時計を見るのは忘れた。
最後に猫は片足で回り、帽子に前足をかけて一礼した。
いつもなら誰もいない線路へ向けられるその礼が、今朝は向きを違えていた。
谷口さんは椅子に腰を落とし、白い息を弾ませた。
「三人だと、少々狭いわね」
「記者が大股なのだ」
猫はもう私の肩に戻っていた。
彼女は手を伸ばして帽子の傾きを直し、耳の穴の縁を親指で一度なぞった。
別れの言葉は、ふたりとも口にしなかった。
原稿は三日で書いた。
最後の一文は、この町の駅前は三人で踊るには少々狭い、とした。
編集長から電話があり、三人って誰だと訊かれた。
取材班です、と答えた。
うちに取材班はないと言われたが、赤は入らなかった。
アパートに帰って以来、茶色い猫は窓辺で煮干しを食べて眠っている。
ある晩、私は箪笥の上の帽子を下ろして、裏返してみた。
猫は片目を開けただけだった。
帰るに及ばず、の縫い取りの隣に、まだ色の褪せていない糸で一行増えていた。
取材はこの限りにあらず。
年の暮れに、長野から二枚目の葉書が届いた。
膝の先生から、舟と列車くらいなら構わないと許しが出たという。
来年の秋はどちらへ、とあった。
机に地図を広げると、帽子を被っていない猫が紙の上を歩いてきて、どかしても同じところへ戻って座った。
尾が地図の端を、とん、とん、と打っている。
たまたまかもしれない。
私は新しい手帳を開き、右端に欄を一本引いた。
切符は三枚買うことになるだろう。




