猫違いの意味を知る
朝の舟着き場で、私は葉書を猫の前に置いた。
タンゴは帽子のつばの下から文面を一瞥し、前足で私のほうへ押し返した。
「気づくのが早かったな。小生の見立てでは五日目だった」
「いつから知っていた」
私が尋ねると、猫は舟が岸を離れるのを待ってから答えた。
「君が郵便受けから持ってきた日からだ」
その町に着いたのは昼前だった。
駅前の広場は、銀杏もなく、舗装のひび割れから枯れた草が伸びているだけの、何の変哲もない四角い空き地である。
その向かいに、谷口洋裁店という硝子戸があった。
戸を引くとミシンの音が止み、白髪を短く切った小柄な女性が老眼鏡の上から私を見た。
視線はすぐ私の肩へ移った。
「あら、今度は茶色い子」
肩の上で、タンゴが帽子のつばに前足をかけた。
「ご無沙汰している」
「ハチワレの子はどうしたの」
「平成の半ばに逝った。あとを継いだ三毛も六年前に。これが三代目だ」
銀杏の下で聞いた、猫違いという言葉を思い出した。
あれは冗談ではなく、ただの事実だったのだ。
谷口さんは杖をついて立ち上がり、慣れた手つきで猫の頭から帽子を取り上げた。
タンゴは大きなあくびをひとつすると、私の肩から降り、ミシン台の下の陽だまりへ歩いていって丸くなった。
呼んでも耳も動かさない。
作業台に置かれた帽子のほうも、ただのくたびれたフェルトだった。
「喋っているのは猫じゃないの。かといって帽子でもない。両方揃うと、ああいうのが出てくるのよ。理屈はわたしも知りません」
谷口さんは椅子に戻り、右の膝をさすった。
丹後は生まれた土地にちなんで座長がつけた芸名で、本名は文というのだと教えてくれた。
昭和六十一年の秋、あの農村舞台での興行を最後に膝を壊し、一座も解散したのだという。
「わたしが踊れなくなったからって、付き合わせるのは惜しいでしょう。だから縫って、送り出したの」
彼女は帽子を裏返して、私に差し出した。
猫が二年間触らせなかった内側に、細かな糸で六文字が縫い取られていた。
帰るに及ばず。
「律儀なものでね、四十年、本当に一度も帰ってこなかった。その代わり、あの一行よ」
谷口さんは棚から『ゆくさき』の古い号を抜き出して、作業台に置いた。
「踊るのにちょうどよい広さ。あんな言い回しをするのは、わたしと帽子のほかにいないもの。歯医者の待合室で読んで、椅子から落ちそうになりました」
私の文体だと思われてきた一行は、発行部数三千の雑誌から打ち上げられた狼煙だったらしい。
私はミシン台の下の猫を見た。
猫は眠っていた。
谷口さんは立っていって、その頭に帽子を載せ、耳を穴へ通してやった。
タンゴは目を開け、背筋を伸ばして座り直した。
「その内側を読ませる約束はしていないはずだが」
「約束を破ったのはどちらかしら。帰るに及ばずと縫ったでしょう」
猫は少しも動じず、髭の先までまっすぐに伸ばした。
「小生は帰ってきたのではない。取材に同行しているだけだ。切符も記者が買った」
谷口さんは笑い出した。
笑い声は途中から別のものに変わり、彼女は老眼鏡を外して、作業台の端切れで顔を押さえた。
相手がそうなったときも黙っているものだと、この仕事で覚えた。
私は静かに硝子戸を開けて、外へ出た。
向かいの広場まで歩き、端から端へ、右、右、左と足を運んでみた。
なるほど、ひとりには少し広かった。




