閑話⑤ 一人前のメイド
――あの夜から3年の月日がたった。
アンナとサラは、2人で1階の廊下の窓際に立っていた。
この日は、アンナにとって『メイド』としての最終試験の日だった。
これに合格すれば、正式に一人前になる。
サラは窓枠へ指を這わせ、汚れが残っていないかを念入りに確認していた。
「……」
指先を確認する。
埃はないし、洗剤の跡もない。そして、窓枠の金属部分には錆の兆候すら見られなかった。
「……素晴らしい!!! 合格よ!! ちゃんと錆びないように配慮した成分の洗剤も使えているわね!」
「ありがとうございます」
アンナは静かに頭を下げる。
「あなたから教わった洗剤魔法で調合してみました。窓枠の材質にも合わせています」
「さすがね! これでアンナも完全に一人前ね!」
サラは嬉しそうに笑った。
そう言ったあと、サラは少しだけ寂しそうな表情を浮かべる。
「……少し寂しくなるけれど、これからは1人でやっていくことが多くなると思うわ」
「……心得ています」
アンナは頷いた。
「あなたには、リズとコレットの『教育』もありますからね。私ができる仕事は、私が引き受けるべきでしょう」
「それもあるんだけどね」
サラは人差し指を頬に当てる。
「アンナには、特別にやってもらいたいことがあるの」
「何でしょうか?」
「先月お生まれになった、ソック・ブライド様の――」
サラはにっこりと笑った。
「『専属メイド』よ♪」
「……専属メイド?」
「そう!」
サラは大きく頷いた。
「これまでは私が主にお世話していたんだけど、さすがにきつくてね……」
「ソック様の面倒は、これから全部アンナに任せようと思うの」
「分かりました。引き受けましょう」
アンナは迷うことなく答えた。
「やったぁ!」
サラは嬉しそうに両手を上げる。
「これで私も少し楽になるわ~!」
「……それほど大変なのですか?」
「赤ちゃんのお世話って、本当に大変なのよ?」
サラは苦笑した。
「お腹が空けば泣くし、眠くても泣く。服が汚れれば着替えさせなきゃいけないし、夜中に目を覚ますことだってあるんだから」
「なるほど」
「しかも、何を求めているのか分からない時が一番大変なの!」
「……それは確かに難しそうですね」
数百年生きてきた大精霊アンナにとっても、人間の赤ん坊の世話は未知の領域だった。
こうして――アンナはソック・ブライドの『専属メイド』となったのだった。
◇◇◇
それからのアンナは、目が回るほど忙しくなった。
「ソック様、起きましたか?」
朝になれば、まだ生まれて間もないソックの様子を確認する。
泣けば抱き上げるし、お腹が空けばミルクの準備をする。
服が汚れれば着替えさせる。眠くなれば、ゆっくりと背中をさすって寝かしつける。
「……よし。眠りましたね」
小さな寝息を確認し、アンナはそっとベッドから離れる。
しかし、仕事はそれだけではない。
ソックの様子を逐一確認しながらも料理、掃除、洗濯、裁縫の仕事を、1人でこなしていく。
サラから教わった魔法も、今ではすっかり自分のものになっていた。
「この洗剤の濃度なら、汚れは落としつつ生地を傷めませんね」
アンナは洗濯物を確認しながら呟く。
かつては、サラに教えてもらわなければ何もできなかった仕事も、今では自分で判断できる。
それは、アンナがメイドとして完全に一人前になった証でもあった。
一方、サラも忙しかった。
コレットとリズの教育に加え、アーノルドとナザリーのサポート、魔石のメンテナンス等をやっていた。
そのため、2人が一緒に行動する機会は、少しずつ減っていった。
「アンナ、今日も頑張ってね♪」
「はい。サラも無理をしないように」
「お互い様ね!」
廊下ですれ違う。
そんな短い会話だけで、1日が終わることも珍しくなくなった。
それでも、アンナは時々サラの様子を気にしていた。
――あの夜のこと。
洗面所で苦しそうに何かを吐き出していたサラ。
あれが何だったのか。あの時、確かに血のように見えた。
魔力の流れも、一瞬だけ感じた。
だが――。
あれ以来、サラが同じような行動をすることは一度もなかった。
体調を崩していたり、苦しそうな姿を見せることもない。
ましてや、何かを吐き出すようなこともなかった。
(……やはり、私の気のせいだったのでしょうか)
アンナは、いつしかそう考えるようになっていた。
大精霊である自分が見間違えるなど、少しばかり奇妙ではある。
そして、サラ自身も何も語らない。
ならば――。
「……まあ、問題ないでしょう」
アンナは勝手にそう結論づけていた。
そして日々の仕事に追われるうちに、あの夜の記憶は少しずつ薄れていった。
今日はどの料理を作るか、どの部屋を掃除するか。
洗濯物はどれだけ残っているか、ソックの体調に変化はないか。
そんなことを考えているうちに、1日の大半が過ぎていく。
そして、時々ラース経由で頼まれる大精霊としての仕事もソックを抱きかかえながらこなしていた。
気が付けば、サラの異変について考えることすらなくなっていた。
そして、2人は、ほとんど顔を合わせることもなくなっていってしまったのだ。
ただ、月日だけが静かに流れていくーー。




