対話
テーブルへ倒れ伏したソック・ブライドを、水の大精霊アリアは静かに見つめていた。
ソックの息は浅く、額には脂汗が滲んでいる。
「始まったわねぇ……」
ぽつりと呟くと、アリアは右手をゆっくりと掲げた。
すると、空中に無数の水滴が集まり始める。それらは渦を巻きながら1枚の巨大な鏡を形作り、やがて鏡面は静かに揺らめいた。
映し出されたのは、1人の女性。茶色の髪をきっちりとまとめ、整ったメイド服に身を包んだ女性だった。
「アンナ、『始まった』わよ」
鏡の向こうのアンナは、小さく微笑む。
「ようやくですね。ソック様のパワーアップイベントだ~。わーい」
「……あのさぁ」
アリアは呆れたように額へ手を当てた。
「失敗したら――普通にソック君、死ぬからね?そこんとこ分かってる?」
「もちろんです。『魂の試練』が決して甘いものではないことくらい理解しています」
それでも、その表情は揺るがない。
「ですが、ソック様なら必ず克服します」
「まぁ、いずれは必要になることだから仕方ないんだけどねぇ……」
アリアは椅子へ腰掛け直し、頬杖をついた。そして、アンナをじっと見つめる。
「ソック君って、感情表現が乏しいよねぇ。あなたみたいに。なんていうかこう……ドライなのよ」
アンナはくすりと笑った。
「そうですね。でも、ドライであること自体は悪いことではありませんよ?」
一拍置いて続ける。
「ただーーソック様は必要以上に感情を押し殺しています」
「ふーん」
アリアは興味深そうに目を細める。
「ほんと、よく分かってるのねぇ。伊達に専属メイドをやってたわけじゃないんだ?」
「ええ。『今のソック様』になってから約7年間。そして、『前のソック様』とは約8年間をご一緒しました」
少しだけ懐かしそうに目を伏せる。
「どちらのソック様も知っている私からすると――」
その口元に、優しい笑みが浮かんだ。
「『2人』が混ざり合えば、とても面白くなる気がしています」
「あらそう。私は、人間にそこまで入れ込めるあなたの方が面白いけどね」
しばらく沈黙が流れ、アンナが真剣な表情になって口を開く。
「……ところで。ソック様の『記憶』から、ルカ・ラウナホールについて何か分かりましたか?」
「…………」
アリアは答えない。
その表情から笑みが消え、珍しく険しい顔になる。長い沈黙の末、ゆっくりと口を開いた。
「分からなかった」
その一言は重かった。
「ソック君が『異なる世界で生きていた記憶』も覗いた。でもーー彼女に関する情報だけは全部、黒く塗り潰されていたわ」
アリアは苦々しく顔を歪める。
「顔すら分からない。魂の情報そのものにプロテクトを掛けるなんて……完全に人智を超えてるわよ、あの子」
「そうですか……」
アンナは静かに目を閉じた。
「クロノス様の権能の件といい、本当に、なぜあのような『化け物』が存在するのでしょうね」
そして、再びソックの方へ視線を向ける。
「だからこそソック様には次の段階へ進んでいただかなければなりません。私がいなくなっても、1人で歩んでいけるように」
「…………」
アリアは静かにため息をつく。
そして、不意に真剣な眼差しを向ける。
「――アンナ」
一拍置いて、訂正する。
「……いや、アーセラ」
「何でしょうか?」
「ブライド領へ関わるのは、もうやめなさい」
先ほどまでのどこか柔らかな雰囲気はどこにもない。
大精霊としての威厳だけが、その場を支配していた。
「そして、さっさと精霊神殿へ戻るの。たかが人間ごときのために、あなたがこれ以上『逸脱した力』を使うことは許されない」
アリアは声を荒らげる。
「大精霊になれる資格を持つ精霊が、どれだけ希少だと思ってるの!?自分の『使命』を考えなさい!!」
しかし、アンナは即答した。
「嫌です」
その一言に、アリアの目が大きく見開かれる。
「何故!?悠久の時を生きる私たちにとって、人間の寿命なんて一瞬でしょう!?取るに足らない……紙切れにも満たない存在のはずよ!!」
「なのに、どうして!!」
アンナは静かに笑った。
「あの時、誓ったからですよ。何があろうと、私は『誓い』を果たします」
その瞳に迷いはない。そして、小さく肩をすくめた。
「私は――わがままなので」
深く一礼する。
「では、失礼いたします」
「待ちなさ――」
言い終える前に、鏡の向こうからアンナの姿は消えた。
パリンッ――。
巨大な水鏡は乾いた音を立てて砕け散り、無数の水滴となって床へ降り注ぐ。
アリアはその場に立ち尽くしていた。
頬を、一筋の涙が伝う。それは、この世のどんな水よりも澄み切った輝きを放っていた。
「……ほんと」
震える声で呟く。
「昔から、変わらないんだから」
そして。
ドンッ!!
抑えきれない感情をぶつけるように、アリアは思い切り拳をテーブルへ叩きつけた。
◇◇◇
「……ここは?」
気づけば、俺は真っ白な空間に立っていた。
果ての見えない純白の世界。風もなく、音もない。
静寂の中で響くのは、自分の心臓の鼓動だけだった。
ドクン――。
「よう、『俺』」
不意に、自分自身の声が聞こえた。
俺はゆっくりと振り返る。そこに立っていたのは、1人の少年。
黒い髪に細身の体。毎日のように鏡で見てきた、自分とまったく同じ顔。
なのに、その瞳に宿る光は俺とはまるで違っていた。
感情を隠そうともしない、生き生きとした眼差し。同じ姿をしているはずなのに、まるで別人だった。
『前の記憶』も持っているはずなのに、いざ対面するとはっきりと俺とは違うとわかる。
――奇妙な感覚だ。
「君が、俺が『転生』してくる前のソック・ブライド……なのか?」
「そうだ」
少年は肩をすくめ、にやりと笑う。
「オレにとっちゃあ、お前が『よそ者』なんだけどな。勝手にオレの体を乗っ取りやがって」
「でも、それは不可抗力だ。俺が望んだわけじゃない」
「冗談だよ」
オレはケラケラと笑う。
「まったく、つまんねぇ答えしやがって」
そして俺を指差した。
「お前の記憶、見せてもらったぜ」
「『パソコン』だっけ?あんな得体の知れないもんと毎日向き合って、何が面白いんだか」
「悪かったな。でも、君だってずいぶんと自堕落な生活を送ってたじゃないか」
「毎日寝て起きるだけ。ろくに魔法の訓練もしないで、アンナに頼ってばかりだったぞ」
「ぐっ……」
オレが言葉を詰まらせる。
「オレには魔法の才能が――」
そこまで言いかけ、俺を見て肩を落とした。
「……いや、お前の方があるか」
頭をがしがしとかきむしりながら叫ぶ。
「あー、もう!認めてやるよ!!たしかに、お前は魔法の才能もあるし、頭もそこそこ回る!」
だが、すぐに眉をひそめた。
「だけどなぁ……見ててイライラするんだよ。戦い方だって、結界魔法のワンパターン」
「もっと派手にいけよ!!もう見飽きたわ」
「そりゃどうも」
思わず俺は肩をすくめる。
「俺の方こそ、君の自由奔放な生き方は嫌いじゃない」
一度言葉を切り、小さく笑った。
「俺だって……君みたいになりたいと思うことはある」
オレは目を丸くした。そして、小さく笑う。
俺たちはしばらく何も言わず、お互いを見つめ合っていた。
同じ顔なのに――まるで正反対の人間。
「そう。お前は、まだ不自由なんだ」
オレが静かに口を開く。その声音から、先ほどまでの軽さは消えていた。
「『オレ』が中途半端に残ってるせいで、魔力だってすぐ底をつく。本来なら得意なはずの水魔法も、あまり使いこなせちゃいない」
ゆっくりと俺へ歩み寄る。
「何より――」
俺の胸へ、人差し指を当てた。
「ルカ・ラウナホールに立ち向かうだけの『熱』が、お前には足りてない」
言い返せなかった。その言葉は、心の中で悩んできたことだ。
俺は静かに息を吸う。
「俺は……オレを知りたい。記憶だけじゃなくて本物の、感覚で」
オレは、満足そうに笑った。
優しく、それでいてどこか寂しそうな表情を浮かべる。
「いい加減、理解してもらわなきゃ困る。オレには、魔法の才能なんてそれほどなかったし、行動力もなかった。今更だけど、お前の活躍をみててオレは後悔してるよ。だけど、オレには『ラウナホール国の王になりたい』という野望だけはあった」
「お前はそれをかなえるだけの力があると思う。オレが消える前に、お前にオレという存在を刻み込み、オレの野望を果たしてほしい」
「......。どこまでも他力本願な奴だな。でもーーでっかい夢っていうのは、いいよな」
俺はくすりと笑う。
すると、オレはゆっくりと右手を差し出した。俺は自然とその手を取る。
「だから――お前をオレの作り出した『記憶の回廊』に連れていく。『お前自身』を、示せ」
純白の空間が、大きく揺らぎ始めた。




