大使館からの脱出
ニルキス国の王都マチルダであっても、静かな朝を迎えていた。
サースベリー会館の一室では、カリカリと羊皮紙へ何かを書き込む音だけが響いている。
「ルカ、一睡もしないのか?とっくに日付は変わって朝になってるぞ」
「まあ、やることがたくさんあるからね。究極的には全く寝なくてもいいのだけれど。兄さんこそ全く寝ていないようだけど?」
俺は目を細めた。ルカの魔力は全くと言っていいほど減衰しておらず、疲労も見えない。
まるで――『全盛期の自分』を永遠に維持し続けているかのようだった。
「とても寝れる気分じゃないね」
「あら、そう。今日も公務があるから――途中で寝ないでね♡」
「ああ」
うなずきながらも、俺は静かに待ち続けるーーその時を。
瞬間、廊下の向こうから慌ただしい足音が響いた。
「ルカ姫殿下はどこだ!!早く伝えなければ!!」
「大変なことになったぞ!」
ルカは眉をひそめると立ち上がった。
「何事よ?」
部屋の扉を開き、近くにいた衛兵へ声をかける。
「ひ、姫殿下!!大変です!移送中のリアラ様が何者かに攫われたようです!大使館も襲撃にあっているとのこと!」
「……。事情は大体わかったわ。私が直接向かいます。足手まといだから兵は下がらせなさい」
「は、はい! すぐに!」
俺は静かに笑みを浮かべた。
どうやらアンナとセレスティナはうまくやってくれたようだ。
そんな俺を、ルカは鋭い視線で見つめる。
「まあ、何か企んでいるだろうなとは思っていたけれど。大方、あの忌々しいメイドが絡んでいるのでしょう」
次の瞬間、ルカの姿が掻き消えた。気付いた時には俺の目の前に立っている。
そして再び手錠がはめられた。
「くっ……!速すぎだろ……!!」
「一緒に来てもらうわ――兄さん。《テレポーテーション》」
視界が白く染まり、一瞬で俺とルカは大使館の廊下へと転移していた。
着地と同時に俺は静かにルカを見つめた。
そして深く息を吸って言い放つ。
「ルカ。俺を連れてきたのは、失敗だったな」
「どういう意味――」
言いかけたルカの声が止まる。
その真紅の瞳がわずかに細められた。何かを察知したのだろう。
普段なら余裕を崩さない彼女の表情から、ほんの僅かに笑みが消える。
それは動揺と呼ぶには小さすぎる変化。
「『結界』起動!!」
ゴゴゴゴゴゴゴ――!!
轟音とともに大使館全体が震えた。
床下を何かが駆け巡るような振動。
壁という壁に魔法陣が浮かび上がり、膨大な光が天へ向かって噴き上がる。
そして――
大使館を覆い尽くす巨大な結界が出現した。
「――兄さん。いつから?」
珍しく感情を押し殺した声だった。
「フィリアを幽閉するためにこの『大使館』へ来た時さ。その時にはもう仕込んでいた。この大規模結界の『種』をな」
ルカの視線が周囲を走る。
床、壁、天井ー-。
そしてようやく気付いたのだろう。
この建物そのものが、すでに結界術式の一部へと変えられていたことに。
「学園で研究していた時限式結界術式だ。あらかじめ結界の核となる『種』を設置しておく」
俺は静かに続ける。
「その種は建物の構造を解析し、自らを同質化させる。まるで建物の一部であるかのようにな。さらに空気中から魔力を回収し続け、内部で循環・蓄積する。時間をかければかけるほど巨大な結界を展開できるってわけだ」
「あとは俺の合図で一気に展開し、核分裂させる!!」
そして俺はルカを真っ直ぐ見据えた。
「ーーお前を捕まえるためにな」
ルカは終始無言だった。
だがその瞳の奥で、静かな怒りが宿っていた。
「この結界の効果はたった1つ。お前を拘束するために、全ての魔力を注ぎ込んでいる!」
ルカは身動きが取れない状態のまま小さく笑った。
「対象の『限定』ね。そうすることで威力を底上げする――か。やるじゃない兄さん。ドキドキしちゃう♡」
「お前はおそらく――『時』に関する能力を持っている」
ルカの瞳が僅かに細められる。
「魔法というより、もっと上位の『権能』に近い力だ。学園結界の機能を『遅く』したり、俺を捕らえる時にロースベルクの街中で周囲を静止させたりできたのも、それで説明がつく」
俺は言葉を続けた。
「ラースが言いかけていたのは『時の大精霊』のことだったんだ。お前にはその力がある。だけど、常時効力を発揮する結界で拘束し続ければ、いくらお前でも自由には動けない」
最も――『巻き戻し』を使われたら終わりだ。
だけど、今まで一度も使ってこなかったし、今も使わない。
ならば何らかの制限がある。そう割り切るしかない。
ルカは無言で俺を見つめる。その美しい顔に浮かんでいるのは微笑みだけ。
しかし、指先1つ動かせない状態でいた。
それでも――。
ミシッと結界の一部から嫌な音が響いた。
その『嫌な音』はどんどん広がっていく。
まるで見えない怪物が内側から檻を押し広げているかのようだった。
「……っ」
俺は歯を食いしばる。
凄まじい抵抗力だ。1日かけて仕込んだ大規模結界。
空気中の魔力を回収し続けて完成させた最高傑作。
それでも保ってあと数分だった。
俺はさらに魔力を流し込むが、自分の身体も限界へ近付いていた。
頭痛、吐き気ー-そして全身を襲う倦怠感。
視界すら少し霞み始める。
ルカを拘束しているとはいえ、俺自身は手錠によって自由に動けない。
焦燥が胸を締め付けていく。
何か。何か方法はないのか。
失敗すれば――。
アンナ、セレスティナ、フィリア、リアラ。
そしてエレーナも。
全員死ぬかもしれない。
そんな状況だったからだろう。
転生してからのこの身体は、本能的に選択していた。
前世の俺なら絶対に選ばなかった、あまりにも危険で、無謀な選択を。
気付けば、俺は魔力で刃を生成していた。
そして――。
ザシュッ!!
自らの右腕を切断した。
「――ッ!!?」
激痛で視界が真っ白になる。
痛覚軽減魔法をかけていたにもかかわらず、脳が悲鳴を上げる。
切断された腕と共に手錠が床へ転がった。
俺自身も何故そんな行動を取ったのか分からなかった。
ただ、目の前の妹に影響されたのかもしれない。
どれだけ理不尽でも、どれだけ不可能でも。
最後まで貫く『意志』を。
俺は持たなければならないとーーそう直感したのだ。
その瞬間だった。
ほんの一瞬だったが、ルカの顔色が初めて青ざめた。
そして辛うじて動かした指先から一筋の光が放たれる。
光は俺の切断面へ触れ、失われた右腕が元通りになっていた。
再生ではない。『巻き戻った』のだ。
「……」
ルカの表情が苦悶に歪むと同時に凄まじい怒りが伝わってきた。
今まで感じたことのないほどの怒り。
屋敷全体が激しく振動する。
壁が軋み、天井が震える。
ルカは静かに口を開いた。
「兄さん――」
その声は静かだったが底知れなく冷たい。
「それは駄目よ」
真紅の瞳が俺を射抜く。
「一生綺麗な兄さんでいなきゃ駄目」
ゾクリと背筋が凍った。
「今から、私が永遠に捕まえないといけないかしら?」
俺は反射的に駆け出した。
目的地は1つしかない、地下牢だ。
階段を飛び降りるように駆け下りる。
地下牢へ辿り着くと、見張りの兵士を部分結界で即座に拘束した。
そして、その最奥にフィリアはいた。
拘束具に繋がれたままぐったりとしている。
「フィリア!!」
俺が叫ぶと、フィリアはゆっくり顔を上げた。
「ソック……?」
「転移だ!!早く!!!大使館の外へ!!」
「でも、転移無効の結界があるんじゃ……?」
「僕の結界で上書きしてるから大丈夫だ!!いいから早く!!!」
俺自身でも驚くほど声が切迫していた。
余裕など欠片もない。
顔から血の気が引き、今にも倒れそうな表情をしていたのだろう。
フィリアはすぐに状況を察して表情を引き締める。
そして叫んだ。
「《テレポーテーション》!!」
俺はすぐにその手を掴んでー-空間がねじれた。
気付けば、俺たちの身体は大使館上空へ放り出されていた。
「うわあああああああああっ!!?」
凄まじい風圧。
地面がどんどん近付いてくる。
「落ちる落ちる――――!!」
その時、空から3つの影が飛来した。
「ソック様――――!! ご無事でしたか!」
「アンナ!」
「ソック!無事か!?」
アンナの後ろに少年を背負ったセレスティナがいた。
「セレスティナ!!無事だったか!背負っているのはリアラさんか!?」
「ああ!無事救出できたぞ!」
セレスティナは力強く頷いた。
「あとはエレーナ王女と国王陛下だ!」
「よかった……!」
安堵したのも束の間。
俺は振り返りながら叫ぶ。
「でも今は一刻も早く離れよう!!」
ドゴォォォォォォォォンッ!!
凄まじい轟音が響き、大使館を覆っていた巨大結界が崩壊する。
光の破片が空へ舞い上がり、建物の外壁には無数の亀裂が走る。あちこちから悲鳴とざわめきが広がっていく。
そして、俺たちは朝陽に染まる空を飛び続けた。迫り来る最悪の追跡者から逃れるために。




