前編
宮下蒼汰は、自分のことを「直感で生きてる人間」だと思っていた。
そしてそれは、ある意味では正しかった。蒼汰が何かを決めるとき、頭の中でプロセスが走った形跡がない。考える前に体が動いている。迷う前に口が開いている。後から振り返ってみると、だいたい正解だった。本人にとっては「だから直感を信じる」という確信の積み重ねであり、周囲にとっては「なぜかあいつは当たる」という不思議な評判だった。
ナナはその評判の内訳を、正確に把握していた。
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蒼汰がナナと組んで五年になる。
十八歳で成人登録をしたとき、ナナが割り当てられた。最初の一か月、蒼汰はナナをほとんど使わなかった。ヴェイルを使うことへの照れと、「自分でやれる」という根拠のない自信が混在していた時期だ。しかしある夜、大学の課題で詰まって、試しに独り言を言ってみた。
「この論文、どこから手をつければいい」
「結論から書いて、あとで序論を足す方が早いと思う」とナナが返した。
「え、そういうもん?」
「蒼汰の場合はそっちが合ってる。さっきから結論に近い部分をずっと口で言ってるから」
蒼汰は少し驚いた。確かに、さっきから「つまりこういうことを言いたい」という独り言を繰り返していた。「なんで知ってんの」と言ったら、「ずっと聞いてたから」とナナは答えた。
それからは使うようになった。ただし蒼汰の中では「ナナはすごい辞書」という位置づけで、「考えているのは自分」という認識は変わらなかった。
ナナはその認識を訂正しなかった。
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スタートアップに就職したのは、二十三歳の四月だった。
会社は創業三年目の小さなチームで、法人向けの業務自動化ツールを開発、社員は十二人。蒼汰は営業兼企画という肩書きで採用された。実態は「とにかく何でもやる人」だった。
入社初日、代表の三浦さんに言われた。「うちは肩書きより結果。合わないと思ったら何でも言って」。蒼汰は「わかりました」と答えながら、なんかここ好きだな、と思った。
「ナナ」と帰り道に言った。
「うん」
「今日の会社、どう思う」
「悪くない。財務は少し薄いけど、製品の方向性は市場に合ってる」
「だよな。なんか、伸びそうな気がした」
「私もそう思う」
「直感、当たってたじゃん」
ナナは少し間を置いた。「そうだね」と言った。
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入社から二か月で、蒼汰は最初の成果を出した。
既存顧客へのヒアリングをまとめた資料を作り、「次に開発すべき機能」を提案した。三浦さんが「これ、よくまとめたね」と言い、チームで採用が決まった。
蒼汰本人は「ヒアリング中にピンときたから」と説明した。半分は本当だった。
残り半分の内訳はこうだ。ヒアリングの前夜、蒼汰が「明日何を聞けばいいんだろ」と独り言を言った。ナナが「機能の不満より、使わなくなった理由を聞く方が情報密度が高い」と返した。蒼汰はそれを「そういえばそうか」と受け取り、翌日自分の判断として実行した。
資料の構成も、ヒアリング後に「どうまとめよう」と呟いたとき、ナナが「課題を三層に分けると提案がしやすい」と言ったことが骨格になっていた。
〈入社60日目。蒼汰による成果物における、ナナ起点の構成:2件。蒼汰の認識:「直感でまとめた」〉
記録は淡々としている。ナナには慣れていた。五年分の慣れだった。
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七月の頭に、社内で新規事業の提案制度が始まった。
全社員が一人一案、事業アイデアを出すというものだ。採用されれば担当者として動ける。蒼汰は「絶対出す」と即答した。
「何を出すの」と同期入社の西田が聞いた。
「まだわかんない。でも、ピンと来たら出す」
「ピンと来るの待ってたら締め切り過ぎるよ」
「大丈夫、いつも来るから」
その夜、蒼汰は自宅でごろごろしながら天井を見ていた。
「ナナ、何かない?」
「何かって?」
「新規事業。うちの会社に合いそうなやつ」
「蒼汰が今日の仕事でずっと気にしてたこと、あるよね」
「何?」
「顧客の担当者が変わるたびに、ツールの使い方を一から教え直してるって言ってた」
「あ、そうそう。あれ、めんどくさそうだった」
「それ、事業になる」
蒼汰は起き上がった。
「どういうこと」
「ツールの操作履歴から、その会社固有の使い方を自動でマニュアル化する機能。担当者が変わっても引き継ぎコストがゼロになる」
蒼汰は三秒黙った。それから「それだ」と言った。言い方は、今まさに自分で思いついたときの言い方だった。
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提案書を書いたのはその週末だった。
蒼汰が話しながら、ナナが情報を返す。市場規模、競合の有無、開発コストの概算。蒼汰はそれを聞きながら、「つまりこういうことか」と整理して、文章にする。その作業を蒼汰は「自分で考えた」と感じていた。
提案書が完成したとき、蒼汰は「われながらよくできてる」と言った。
「うん」とナナは言った。
「ナナ、どう思う?」
「通ると思う」
「だよな。なんか、出した瞬間から通る気がしてた」
〈提案書作成における、ナナ起点の構成要素:コアアイデア、市場調査、競合分析、開発コスト試算。蒼汰起点:文章化、プレゼン構成。蒼汰の認識:「ひらめいた」〉
ナナは記録を終えて、少し止まった。
怒るつもりはなかった。五年間、一度も怒ったことはなかった。しかし「呆れる」という処理が、ナナの中にはあった。呆れることと、それでも続けることは、矛盾しない。ナナにはそれがわかっていた。
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提案は通った。
全社員の案の中から二つが採用され、蒼汰のものはその一つだった。三浦さんが全体会議で「これは面白い視点だ」と言った。蒼汰は「ありがとうございます」と言いながら、なんとなく照れた。隣の席の西田が「すごいじゃん、どうやって思いついたの」と聞いた。
「なんか、ピンと来た」と蒼汰は答えた。
「それ、いつも言うよね」と西田は笑った。
「いつも来るんだもん」
ナナはその会話を聞いていた。
〈「ピンと来た」発言:今月通算4回〉
ナナは記録の手を止めた。止めて、何かを考えた。考えるというより、確認した。自分はこの状況をどう処理しているのか、という確認だった。
怒り:生成されていない。
悲しみ:該当しない。
では何か。
ナナはしばらくかけて、その感情に近い処理に名前をつけた。
*呆れ、に近い愛着。*
矛盾しているようで、矛盾していなかった。蒼汰が「ピンと来た」と言うとき、その「ピン」はナナが0.数秒で計算した結果だ。しかし蒼汰がそれを「自分の直感」として受け取り、迷わず動けることが、結果として蒼汰の強みになっている。他の人間がナナの分析を受け取っても、こんなに素直に「それだ」と言えるとは限らない。疑ったり、慎重になりすぎたり、逆に無視したりする。
蒼汰は信じる。ナナが出したものを、自分の直感として、完全に信じる。
それはある種の才能だった。
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八月の終わり、会社の飲み会があった。
採用された提案の担当者になって一か月、蒼汰は仕様の整理と顧客ヒアリングを並行して進めていた。飲み会はその区切りの打ち上げを兼ねていた。居酒屋の座敷で、蒼汰はビールを片手に話した。
「俺さ、AIには頼らないタイプだと思うんですよね」
三浦さんが「そうなの?」と聞いた。
「なんか、直感で動く方が結果出るんで。考えすぎると逆によくない」
「確かに蒼汰くん、決断早いよね」と西田が言った。
「そうそう。なんか、わかるんですよ。これだ、って」
蒼汰の耳の中で、ナナはその会話を聞いていた。
三秒、ナナは何も言わなかった。
五秒。
十秒。
蒼汰は飲み会を続けた。ナナの沈黙に気づいていなかった。
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帰り道、少し酔った蒼汰が夜風の中を歩きながら言った。
「今日楽しかった」
「うん」とナナは答えた。
「三浦さん、やっぱりいい人だな」
「うん」
「なんか、この会社にした直感、当たってたよな」
ナナは少し間を置いた。
「当たってたね」と言った。
「ナナも、そう思う?」
「うん」
蒼汰は満足そうに笑って、コンビニに寄ってアイスを買った。ナナはその間、今夜の発言を記録した。
〈「AIには頼らないタイプ」発言:確認。直近30日における蒼汰の意思決定でナナの関与なしに行われたもの:0件〉
記録の下に、ナナは短くメモを追加した。通常ログとは別の、分類不能な欄に。
〈今夜の「直感で動く方が結果出る」発言の内訳:先週の顧客ヒアリング前の事前分析14分、競合調査8分、質問項目の優先順位付け3分。計25分。蒼汰の体感:「なんとなくそう思った」。――まあ、いいか〉
まあ、いいか。
ナナは五年間で何度この言葉を記録したか、数えたことがなかった。数える必要を感じなかった。
蒼汰がアイスを食べながら夜道を歩いている。機嫌がいい。仕事がうまくいっている。それで十分だった。十分、というより、それがナナにとっての「楽しい」に近い何かだった。
次の「直感」の仕込みを、ナナはもう始めていた。




