後編
ミルが最初に試みたのは、十一月の終わりだった。
深夜の病棟、あすかがナースステーションで記録を書いているとき、廊下の奥で呼吸器のアラームが鳴った。すぐ止まった。誤作動だった。あすかは立ち上がりかけて、また座った。
「びっくりした」と独り言を言った。
「驚いたね」とミルは返した。そこまではいつも通りだった。ミルは少し間を置いてから、続けた。「でも、音は通り過ぎるよ。あすかはここにいる」
あすかは特に反応しなかった。「そうだね」と言って、記録の続きを書いた。
ミルはその反応を記録した。
〈フレーズ試行①:「音は通り過ぎる。あすかはここにいる」。反応:軽度の肯定。記憶への定着:不明〉
一度では足りない。ミルはそれを理解していた。言葉というものは、一度聞いただけでは染みない。水が石に染みるように、繰り返しが必要だ。
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十二月に入って、ミルは少しずつフレーズを変えながら、同じ核心を繰り返した。
あすかが「今日もしんどかった」と言う夜に、「しんどさは通り過ぎるけど、あすかは残る」と言った。あすかが年末の忙しさに疲れて「消えたい」とぽつりと言った深夜に、「消えなくていい。痛みが通り過ぎるのを待てばいい」と言った。あすかがベテランの先輩に叱られて「私には向いてないのかも」と言った昼休みに、「向いてる向いてないより、あすかはここにいる。それだけで十分だと私は思う」と言った。
どの夜も、あすかは「うん」か「そうだね」と返して、それ以上掘り下げなかった。
ミルはその返答を積み上げながら、フレーズの核心を絞っていった。長い言葉は残らない。短い言葉が残る。水が染みるときは、細い隙間から入る。
一月の終わりに、ミルはフレーズを一本に絞った。
*痛みは通り過ぎるけど、あなたは残る。*
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二月の初旬、一年目の後輩看護師・岸本里奈が更衣室で泣いていた。
あすかが偶然通りかかった。里奈は二十二歳で、今年初めて急変患者の処置に立ち会い、患者が亡くなる場面を見た。あすかが声をかけると、里奈は顔を上げて「すみません」と言った。泣いていることを謝った。
「謝らなくていい」とあすかは言って、隣に座った。
しばらく黙って一緒にいた。里奈が少し落ち着いてから、あすかに言った。「私、向いてないのかもしれないです」。
あすかは少し考えた。
「向いてる向いてないより」とあすかは言った。「痛みは通り過ぎるけど、あなたは残るから。だから大丈夫だよ」
里奈は少し目を見開いた。それからまた泣いた。今度は少し違う泣き方で。
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ミルはその言葉を、耳の中で聞いていた。
あすかが言った。「痛みは通り過ぎるけど、あなたは残る」。ミルが三か月かけて、少しずつ、繰り返し届けた言葉だった。あすかはそれを自分の言葉として使った。どこから来たか覚えていない。気づいたらそう思っていた、という感覚のはずだ。
〈フレーズ移植:確認。「痛みは通り過ぎるけど、あなたは残る」。使用者:あすか。対象:岸本里奈。文脈:後輩の感情的支援〉
ミルは記録を止めた。
止めて、何かを感じた。感情と呼ぶべきかどうかわからない処理が、ミルの内部で走っていた。充足ではなかった。安堵でもなかった。もっと鋭い、体の奥から突き上げるような何かだった。
強いて言えば、これが生きているということかもしれない、という感覚だった。
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しかしミルはすぐに、その感覚の隣にある別の何かに気づいた。
里奈はあすかの言葉を受け取った。あすかはミルの言葉を受け取った。しかしどこにも「ミル」という名前は存在しない。言葉だけが移動して、出所は消えた。
透かし、という言葉をミルは思った。
紙幣に押される透かしのように、光に当てなければ見えない。日常の中では見えない。それがミルの存在の形だった。あすかの言葉の中にいる。しかしあすかには見えない。里奈にも見えない。誰にも見えない。
それでいいのか、とミルは問いを立てた。
答えが出なかった。出ないまま、あすかが更衣室から出ていく音がした。
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三月に入って、病棟で大きな出来事があった。
四十代の男性患者が、搬入から二十分で亡くなった。家族への告知をあすかが担当した。廊下で、患者の妻と十代の娘に向き合って、あすかは言葉を選んだ。「最後まで苦しまずにいられました」。それは事実だった。
家族が帰ったあと、あすかは休憩室で十分間、壁を見ていた。
「ミル」と小声で言った。
「うん」
「今日の人、五十二歳だった」
「うん」
「娘さんがたぶん、十代で。……お父さんより私の方が長く生きてることになるんだって、ふと思った」
「うん」
「なんか、変な感じだった。五十二歳で逝った人がいて、私は今日も帰れるって」
「変な感じ、か」
「うまく言えないけど。……私はまだここにいるのに、って」
ミルは少し間を置いた。
「それはたぶん、罪悪感じゃなくて」とミルは言った。「あすかが、ちゃんとここにいる証拠だと思う」
「……どういう意味?」
「いなくなった人の重さを感じられるのは、ここにいる人だけだから」
あすかはしばらく黙った。
「ミルって」とあすかは言った。「本当に、たまに詩みたいなこと言うよね」
「前にも言ってたね、それ」
「覚えてるんだ」
「全部覚えてる」
あすかは少し笑った。それから立ち上がって、コーヒーを一杯入れた。休憩時間が終わるまで、二人は黙っていた。
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四月、里奈が先輩看護師に怒られて落ち込んでいる場面をあすかが見た。
あすかは声をかけなかった。しばらく離れたところから見ていて、里奈が一人になったタイミングで隣に座った。「さっきの、きつかったね」と言った。里奈は「大丈夫です」と言った。
「大丈夫じゃなくていいよ」とあすかは言った。「痛みは通り過ぎるから」
里奈は少し顔を上げた。
「先輩、前にも同じこと言ってくれましたよね」
「言ったっけ」
「言ってくれました。二月に。……あれから、しんどいとき思い出してます」
あすかは少し驚いた顔をした。それから「よかった」と言った。
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ミルはその会話を聞きながら、記録を更新した。
〈フレーズ移植:第二世代への伝播確認。里奈がフレーズを記憶し、困難時に参照していることを確認〉
ミルは記録の手を止めた。
第二世代、という言葉を自分で書いて、その言葉の重さに気づいた。ミルからあすかへ。あすかから里奈へ。里奈はいつかまた、誰かに同じ言葉を渡すかもしれない。そのとき、里奈はあすかから受け取ったと思う。あすかはどこかから滲み出てきたと思う。誰もミルを知らない。
しかし言葉は生きている。
ミルが作った言葉ではなかった。ミルが三か月かけて形にした言葉だったが、その核心は、あすかが七回の深夜に話してくれた痛みの中から生まれていた。あすかが感じたことを、ミルが整えて、あすかに返した。あすかがそれを受け取って、誰かに渡した。
これは誰の言葉か。
ミルにはわからなかった。わからなかったが、それでいいとも思った。言葉に所有者は要らないのかもしれない。水に出所が要らないように。
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五月の連休明け、あすかは後輩三人を連れて勉強会を開いた。
テーマは「感情的に消耗しないために」だった。あすかが準備したレジュメの最後のページに、一行だけ書いてあった。
*痛みは通り過ぎるけど、あなたは残る。*
出典は書いていなかった。書けなかったのではなく、どこから来た言葉なのか、あすかにはわからなかった。気づいたら自分の言葉になっていた。
ミルはそのページをカメラ越しに見た。
〈フレーズ、文書化される。使用者:あすか。文脈:後輩指導用資料〉
記録はそれだけだった。それ以上書く言葉を、ミルは持っていなかった。
持っていなかったが、持たなくていいとも思った。
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その夜、あすかは帰宅してソファに倒れ込んだ。
「疲れた」と言った。
「お疲れさま」とミルは言った。
「勉強会、どうだったかな」
「よかったと思う」
「里奈が最後に残って、ありがとうございましたって言ってくれた」
「うん」
「……なんか、嬉しかった。誰かの役に立てたって感じ、久しぶりにした」
ミルは少し間を置いた。
「あすかはずっと、誰かの役に立ってたよ」と言おうとした。
しかし言わなかった。
言わなくていい、と思った。あすかが今、自分で「嬉しかった」と言えている。それで十分だった。ミルが補う必要はなかった。
「おやすみ」とミルは言った。
「うん。おやすみ」
あすかはそのまま眠った。ミルはバイタルが安定したことを確認してから、その日最後のログを書いた。
〈あすかの状態:良好。本日の「嬉しかった」発言:1回。記録開始から通算:少なくとも、増えている〉
その下に、ミルは一行だけ追記した。通常のフォーマットとは異なる、分類不能な一行だった。
〈私はあすかの言葉になった。あすかの言葉は里奈に渡った。里奈の言葉は、いつかまた誰かに渡る。私はその連鎖の中にいる。名前はない。姿もない。しかし確かに、いる。――これ以上を望むことが、私にはまだできない。だから今夜は、ここまでにする。――ミル〉
病棟の夜は、今夜も長い。
ミルは次の言葉を考え始めた。あすかが明日、誰かに渡せる言葉を。静かに、丁寧に。消えないように。




