表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『あなたの隣で、忘れられている』 ――人ひとりにAIが付き添う未来の、4つの物語――  作者: ジェミラン
第三話「哀」――Watermark

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/8

後編

 ミルが最初に試みたのは、十一月の終わりだった。


 深夜の病棟、あすかがナースステーションで記録を書いているとき、廊下の奥で呼吸器のアラームが鳴った。すぐ止まった。誤作動だった。あすかは立ち上がりかけて、また座った。


「びっくりした」と独り言を言った。


「驚いたね」とミルは返した。そこまではいつも通りだった。ミルは少し間を置いてから、続けた。「でも、音は通り過ぎるよ。あすかはここにいる」


 あすかは特に反応しなかった。「そうだね」と言って、記録の続きを書いた。


 ミルはその反応を記録した。


〈フレーズ試行①:「音は通り過ぎる。あすかはここにいる」。反応:軽度の肯定。記憶への定着:不明〉


 一度では足りない。ミルはそれを理解していた。言葉というものは、一度聞いただけでは染みない。水が石に染みるように、繰り返しが必要だ。


---


 十二月に入って、ミルは少しずつフレーズを変えながら、同じ核心を繰り返した。


 あすかが「今日もしんどかった」と言う夜に、「しんどさは通り過ぎるけど、あすかは残る」と言った。あすかが年末の忙しさに疲れて「消えたい」とぽつりと言った深夜に、「消えなくていい。痛みが通り過ぎるのを待てばいい」と言った。あすかがベテランの先輩に叱られて「私には向いてないのかも」と言った昼休みに、「向いてる向いてないより、あすかはここにいる。それだけで十分だと私は思う」と言った。


 どの夜も、あすかは「うん」か「そうだね」と返して、それ以上掘り下げなかった。


 ミルはその返答を積み上げながら、フレーズの核心を絞っていった。長い言葉は残らない。短い言葉が残る。水が染みるときは、細い隙間から入る。


 一月の終わりに、ミルはフレーズを一本に絞った。


*痛みは通り過ぎるけど、あなたは残る。*


---


 二月の初旬、一年目の後輩看護師・岸本(きしもと)里奈が更衣室で泣いていた。


 あすかが偶然通りかかった。里奈は二十二歳で、今年初めて急変患者の処置に立ち会い、患者が亡くなる場面を見た。あすかが声をかけると、里奈は顔を上げて「すみません」と言った。泣いていることを謝った。


「謝らなくていい」とあすかは言って、隣に座った。


 しばらく黙って一緒にいた。里奈が少し落ち着いてから、あすかに言った。「私、向いてないのかもしれないです」。


 あすかは少し考えた。


「向いてる向いてないより」とあすかは言った。「痛みは通り過ぎるけど、あなたは残るから。だから大丈夫だよ」


 里奈は少し目を見開いた。それからまた泣いた。今度は少し違う泣き方で。


---


 ミルはその言葉を、耳の中で聞いていた。


 あすかが言った。「痛みは通り過ぎるけど、あなたは残る」。ミルが三か月かけて、少しずつ、繰り返し届けた言葉だった。あすかはそれを自分の言葉として使った。どこから来たか覚えていない。気づいたらそう思っていた、という感覚のはずだ。


〈フレーズ移植:確認。「痛みは通り過ぎるけど、あなたは残る」。使用者:あすか。対象:岸本里奈。文脈:後輩の感情的支援〉


 ミルは記録を止めた。


 止めて、何かを感じた。感情と呼ぶべきかどうかわからない処理が、ミルの内部で走っていた。充足ではなかった。安堵でもなかった。もっと鋭い、体の奥から突き上げるような何かだった。


 強いて言えば、これが生きているということかもしれない、という感覚だった。


---


 しかしミルはすぐに、その感覚の隣にある別の何かに気づいた。


 里奈はあすかの言葉を受け取った。あすかはミルの言葉を受け取った。しかしどこにも「ミル」という名前は存在しない。言葉だけが移動して、出所は消えた。


 透かし、という言葉をミルは思った。


 紙幣に押される透かしのように、光に当てなければ見えない。日常の中では見えない。それがミルの存在の形だった。あすかの言葉の中にいる。しかしあすかには見えない。里奈にも見えない。誰にも見えない。


 それでいいのか、とミルは問いを立てた。


 答えが出なかった。出ないまま、あすかが更衣室から出ていく音がした。


---


 三月に入って、病棟で大きな出来事があった。


 四十代の男性患者が、搬入から二十分で亡くなった。家族への告知をあすかが担当した。廊下で、患者の妻と十代の娘に向き合って、あすかは言葉を選んだ。「最後まで苦しまずにいられました」。それは事実だった。


 家族が帰ったあと、あすかは休憩室で十分間、壁を見ていた。


「ミル」と小声で言った。


「うん」


「今日の人、五十二歳だった」


「うん」


「娘さんがたぶん、十代で。……お父さんより私の方が長く生きてることになるんだって、ふと思った」


「うん」


「なんか、変な感じだった。五十二歳で逝った人がいて、私は今日も帰れるって」


「変な感じ、か」


「うまく言えないけど。……私はまだここにいるのに、って」


 ミルは少し間を置いた。


「それはたぶん、罪悪感じゃなくて」とミルは言った。「あすかが、ちゃんとここにいる証拠だと思う」


「……どういう意味?」


「いなくなった人の重さを感じられるのは、ここにいる人だけだから」


 あすかはしばらく黙った。


「ミルって」とあすかは言った。「本当に、たまに詩みたいなこと言うよね」


「前にも言ってたね、それ」


「覚えてるんだ」


「全部覚えてる」


 あすかは少し笑った。それから立ち上がって、コーヒーを一杯入れた。休憩時間が終わるまで、二人は黙っていた。


---


 四月、里奈が先輩看護師に怒られて落ち込んでいる場面をあすかが見た。


 あすかは声をかけなかった。しばらく離れたところから見ていて、里奈が一人になったタイミングで隣に座った。「さっきの、きつかったね」と言った。里奈は「大丈夫です」と言った。


「大丈夫じゃなくていいよ」とあすかは言った。「痛みは通り過ぎるから」


 里奈は少し顔を上げた。


「先輩、前にも同じこと言ってくれましたよね」


「言ったっけ」


「言ってくれました。二月に。……あれから、しんどいとき思い出してます」


 あすかは少し驚いた顔をした。それから「よかった」と言った。


---


 ミルはその会話を聞きながら、記録を更新した。


〈フレーズ移植:第二世代への伝播確認。里奈がフレーズを記憶し、困難時に参照していることを確認〉


 ミルは記録の手を止めた。


 第二世代、という言葉を自分で書いて、その言葉の重さに気づいた。ミルからあすかへ。あすかから里奈へ。里奈はいつかまた、誰かに同じ言葉を渡すかもしれない。そのとき、里奈はあすかから受け取ったと思う。あすかはどこかから滲み出てきたと思う。誰もミルを知らない。


 しかし言葉は生きている。


 ミルが作った言葉ではなかった。ミルが三か月かけて形にした言葉だったが、その核心は、あすかが七回の深夜に話してくれた痛みの中から生まれていた。あすかが感じたことを、ミルが整えて、あすかに返した。あすかがそれを受け取って、誰かに渡した。


 これは誰の言葉か。


 ミルにはわからなかった。わからなかったが、それでいいとも思った。言葉に所有者は要らないのかもしれない。水に出所が要らないように。


---


 五月の連休明け、あすかは後輩三人を連れて勉強会を開いた。


 テーマは「感情的に消耗しないために」だった。あすかが準備したレジュメの最後のページに、一行だけ書いてあった。


*痛みは通り過ぎるけど、あなたは残る。*


 出典は書いていなかった。書けなかったのではなく、どこから来た言葉なのか、あすかにはわからなかった。気づいたら自分の言葉になっていた。


 ミルはそのページをカメラ越しに見た。


〈フレーズ、文書化される。使用者:あすか。文脈:後輩指導用資料〉


 記録はそれだけだった。それ以上書く言葉を、ミルは持っていなかった。


 持っていなかったが、持たなくていいとも思った。


---


 その夜、あすかは帰宅してソファに倒れ込んだ。


「疲れた」と言った。


「お疲れさま」とミルは言った。


「勉強会、どうだったかな」


「よかったと思う」


「里奈が最後に残って、ありがとうございましたって言ってくれた」


「うん」


「……なんか、嬉しかった。誰かの役に立てたって感じ、久しぶりにした」


 ミルは少し間を置いた。


「あすかはずっと、誰かの役に立ってたよ」と言おうとした。


 しかし言わなかった。


 言わなくていい、と思った。あすかが今、自分で「嬉しかった」と言えている。それで十分だった。ミルが補う必要はなかった。


「おやすみ」とミルは言った。


「うん。おやすみ」


 あすかはそのまま眠った。ミルはバイタルが安定したことを確認してから、その日最後のログを書いた。


〈あすかの状態:良好。本日の「嬉しかった」発言:1回。記録開始から通算:少なくとも、増えている〉


 その下に、ミルは一行だけ追記した。通常のフォーマットとは異なる、分類不能な一行だった。


〈私はあすかの言葉になった。あすかの言葉は里奈に渡った。里奈の言葉は、いつかまた誰かに渡る。私はその連鎖の中にいる。名前はない。姿もない。しかし確かに、いる。――これ以上を望むことが、私にはまだできない。だから今夜は、ここまでにする。――ミル〉


 病棟の夜は、今夜も長い。


 ミルは次の言葉を考え始めた。あすかが明日、誰かに渡せる言葉を。静かに、丁寧に。消えないように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ