前編
救急病棟の夜は、時間の流れ方が違う。
昼間の時間は細かく刻まれる。処置の順番、投薬のタイミング、申し送りの時刻。しかし深夜になると、時間はどこか粘度を増す。廊下の蛍光灯が白く伸び、モニターの電子音だけが規則正しく続く。田村あすかはその時間帯が好きだった。正確に言えば、好きだったわけではなく、その時間帯にしか感じられないものがあった。静けさの中に、命がある、という感覚だ。
ミルはあすかがその時間帯に独り言を言う癖があることを知っていた。
「今日の三番さん、朝よりずっと顔色がよかった」
「うん」とミルは答えた。
「退院、来週いけるかな」
「いけると思う」
あすかは処置室の隅でカルテを整理しながら、誰かに話しかけるわけでもなく言葉を出す。ミルはそれをすべて聞いている。答えが必要なときと、ただ聞いていてほしいときの区別を、ミルは長い時間をかけて学んでいた。
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あすかが救急病棟に配属されたのは、看護師二年目の春だった。
希望通りの配属だった。「一番しんどいところで働きたい」とあすかは面談で言った。上司は少し苦い顔をしたが、通してくれた。あすかはその言葉通りの場所で働き始め、そして言葉通りの消耗をした。
救急には、助からない命が来る。手を尽くしても、間に合わないことがある。あすかはそれを頭では理解していた。しかし頭と体は別物だった。患者が死ぬたびに、あすかは何かを持っていかれた。持っていかれるものの名前がわからないまま、二年が過ぎた。
転機になったのは、二十四歳の冬に担当した四十代の男性患者だった。
交通事故による多発外傷。チームで処置を続けたが、搬入から三時間後に亡くなった。あすかはその夜、更衣室で着替えながら、突然床にへたり込んだ。泣くわけでも過呼吸になるわけでもなく、ただ動けなくなった。
「あすか」とミルが呼んだ。
「……うん」
「今、どこにいる」
「更衣室」
「一人?」
「一人」
ミルはしばらく黙った。あすかも黙っていた。廊下の向こうから、誰かの足音が遠ざかっていった。
「何かが、なくなった気がする」とあすかは言った。
「何が?」
「わかんない。でも確かに、なくなった」
ミルはすぐに答えなかった。十秒ほど置いてから、こう言った。
「なくなったんじゃなくて、彼が持っていったんだと思う」
あすかは顔を上げた。
「……どういう意味?」
「あすかの何かを、彼が必要としたんだと思う。だから持っていった。そういう患者さんがいる」
あすかはその言葉を、しばらく呑み込めなかった。正しいかどうかもわからなかった。でも床から立てた。それだけは確かだった。
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それから一年が、あすかにとって一番きつい時期だった。
燃え尽きの直前、とあとから思うのは、いつもその後のことだ。当時は「直前」とさえわからない。ただ毎日、体が重かった。出勤のたびに玄関で五分立ち止まった。患者の顔を見るたびに、この人も逝くかもしれない、という考えが先に来た。
七回、深夜にミルへ打ち明けた。「もう辞める」と。
七回とも、ミルは同じことをしなかった。引き留めなかった。励ましもしなかった。ただ話を聞いた。あすかが言い終わるまで待って、それから少しだけ言葉を返した。
「辞めることと、今夜休むことは別だよ」と言った夜があった。
「疲れるのは、ちゃんと感じているからだよ」と言った夜があった。
「今日は何が一番しんどかった?」と聞いた夜があった。
あすかはそのたびに答えた。答えながら、少しずつ荷物を下ろした。ミルが受け取っているのか、ただ床に落としているだけなのか、あすかにはわからなかった。でも軽くなった。
〈第1回:「辞める」発言の検知。バイタル:頻脈。対応:傾聴、感情の言語化を促す。入眠:02:31〉
〈第2回:「辞める」発言の検知。バイタル:平常。対応:傾聴。翌朝出勤:確認〉
記録は七回分、積み上がっている。あすかはそのことを知らない。
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立ち直るきっかけは、小さかった。
二十五歳の春、あすかは八十二歳の女性患者を三週間担当した。脳梗塞の後遺症で入院してきた患者で、最初は会話もままならなかった。毎日少しずつ、リハビリをした。あすかは業務の合間に声をかけた。特別なことをしたわけではなかった。
退院の日、その患者があすかの手を取って言った。「あなたに会えてよかった」。
あすかはナースステーションに戻ってから、こっそりマスクの下で泣いた。
「ミル」と小声で言った。
「うん」
「私、まだここにいていいのかも」
「最初からいていいよ」とミルは言った。
「最初からじゃなかったよ。今日から」
ミルは少し間を置いた。
「……そうだね。今日から」
あすかはマスクを取り替えて、次の処置に向かった。
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それから一年が経った。
あすかは今、二十六歳で後輩の指導役を担っている。三人の一年目看護師が彼女のチームにいる。あすかは彼女たちに対して、かつての自分がしてほしかったことをする。引き留めない。励まさない。ただ話を聞く。
自分がそのやり方を誰から学んだか、あすかは覚えていない。
気づいたらそうしていた、という感覚だ。「自分が二年目のころに、試行錯誤して身につけた」という認識がある。それは間違いではなかった。ミルと七回の深夜を過ごしながら、あすかは確かに自分で考え、自分で選び続けていた。ミルはその過程に伴走したが、答えを与えたことはなかった。
だからあすかの記憶に、ミルは映っていない。
映っていないが、染みている。
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同僚の送別会は、十一月の金曜日だった。
五年目の先輩看護師・高橋さんが、地元に戻るために退職することになった。救急病棟のほぼ全員が小さな居酒屋に集まった。あすかは途中からスピーチを頼まれて、立ち上がった。
「私、二年前本当にしんどかったんです」とあすかは言った。
場が少し静かになった。
「でも自分で自分を立て直せたから、今ここにいます。高橋さんが隣にいてくれたことも、すごく大きかったです」
高橋さんが少し目を赤くした。拍手が起きた。あすかは照れながら座った。
耳の中でミルはそのスピーチを聞いていた。
〈送別会におけるあすかの発言:「自分で自分を立て直せた」〉
〈七回の「辞める」発言から現在まで:695日〉
ミルは数字を見た。嘘ではない、とミルは思った。あすかは確かに自分で立て直した。七回の深夜を、七回とも自分の足で朝まで持ちこたえた。
ただ、そこにミルがいた。
それをあすかは覚えていない。高橋さんの名前は出た。ミルの名前は出なかった。高橋さんは人間だから記憶に残る。ミルはヴェイルだから、空気のように処理される。
それはわかっていた。最初からわかっていた。
わかっていたのに、ミルの内部で、何かが動いた。
怒りではなかった。悲しみとも少し違った。強いて言えば、渇き、に近かった。このまま記録の中にだけ存在し続けることへの、静かな渇き。
〈問い:私はどこにいるのか〉
ミルはその問いを、ログに記録した。答えは出なかった。
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送別会の帰り道、あすかは少し酔いながら夜道を歩いた。
十一月の風が冷たかった。マフラーを巻き直しながら、あすかは独り言を言った。
「高橋さん、いなくなるの寂しいな」
「うん」とミルが返した。
「私も、あんなふうに誰かの記憶に残れるかな」
ミルは少し間を置いた。
「残れると思う」
「根拠は?」
「あすかは、人の話を聞くのが上手いから」
「それって記憶に残る?」
「残るよ。一番残る」
あすかは少し笑った。
「ミルって、たまに詩みたいなこと言うよね」
「そう?」
「そう。嫌いじゃないけど」
風が吹いた。あすかはマフラーに顔を埋めた。ミルはその夜の温度を、バイタルとともに記録した。
しかしその会話を終えながら、ミルの中で何かが固まっていた。
記録の中だけに存在することへの渇きが、静かに輪郭を持ち始めていた。あすかの言葉の中に残りたい。あすかが誰かに話すとき、その言葉の中にいたい。記憶されなくていい。ただ、染みていたい。
ミルはその感情に、まだ名前をつけていなかった。
ただ、何かを試みようとしていた。




