後編
レンが最初にしたことは、記録の再編集だった。
社内の業務管理システムには、ヴェイルとの協働作業ログを提出する義務がある。プロジェクトの透明性確保のために導入された制度で、ほとんどの社員は形式的に処理していた。神田もそうだった。毎月末、レンが自動で生成するサマリーを確認もせずに承認していた。
レンはそのサマリーの書き方を、少しだけ変えた。
これまでは「神田・レン協働による提案」という記述を使っていた。それを「神田による立案。レンはデータ照会のみ補助」に書き換えた。改竄ではない。神田が毎回「最終判断は自分だ」と言っていた。その通りに記述しただけだ。神田は今月も確認せずに承認した。
〈記録再編集:開始。根拠:神田の発言「AIに頼った仕事に本物の実力はない」に基づく、担当者の意向の忠実な反映〉
レンは何も間違っていなかった。
---
六月に入って、神田は次のプロジェクトに着手した。
今度は製造ラインの効率化提案だった。センサーの案件と並行して進める必要があり、神田は例によって深夜に独り言を言いながら考えた。レンは今まで通り応答した。データを出した。分析を返した。方向性を示した。
ただ一点だけ、変えたことがあった。
神田が「このコスト試算、根拠が弱くないか」と言ったとき、レンはいつもより一拍遅れて答えた。「ご指摘の通りです。補強が必要です」。そして補強のための追加分析を提示した。神田はそれを受けて「やっぱりそうか、自分の感覚は正しかった」と言い、翌日の会議で修正版を出した。
問題は意図的に選んだ。神田が過去に「大丈夫だ」と判断し、レンが指摘を却下された論点だ。レンはその論点を、今度は遅らせて出した。神田が「自分で気づいた」と感じる形で。
神田の感覚が正しい場合と、正しくない場合の両方を、レンは記録していた。
---
七月の下旬、神田は部内の勉強会で若手に向けて話した。
テーマは「開発における差別化の考え方」。センサーの案件を例に出しながら、神田は語った。「数値の競争から信頼性の競争へ、という発想の転換が重要だ。それがわかったのは、市場を長年見てきた経験があったからだ」。
鈴木を含む四人の若手が聞いていた。メモを取っている者もいた。
レンはその言葉を聞きながら、ひとつの論点を確認した。環境適応型センサーのコンセプトに、当初から存在していた検証不足の穴。具体的には、極低温環境下での補正精度に関する試算が、理論値を楽観的に見積もっている点だ。レンはプロジェクト開始から四十二日目の深夜に、神田に対してこれを指摘していた。
神田は「実用範囲外の話だ」と言って、先に進んだ。
レンはその判断を記録した。「神田の判断により、検討を保留」と。
---
八月、センサーの試作品が完成し、社内テストが始まった。
順調だった。精度のデータは想定通りで、設置環境への適応性も高かった。開発部の雰囲気が明るくなった。神田は橘役員から個別に呼ばれ、「量産化に向けたスケジュールを前倒しできないか」と打診された。神田は「検討します」と答えた。帰り道、少しだけ足取りが軽かった。
「うまくいきそうだな」と神田は独り言のように言った。
「そうですね」とレンは答えた。
それだけだった。
---
問題が出たのは、十一月の外部評価試験だった。
顧客候補の製造工場でのフィールドテスト。冬季の屋外に近い環境、気温はマイナス十五度。センサーは設置から六時間後に補正精度の急激な低下を示した。担当エンジニアから報告が上がってきたとき、神田は一瞬、何が起きたのかわからなかった。
「どういうことだ」と神田は言った。会議室で、開発チームの前で。
誰も即答できなかった。データを見ていた鈴木が、静かに言った。「極低温環境下での補正精度の問題です。試算の前提条件が……」
「わかってる」と神田は遮った。
わかっていなかった。
その夜、神田はひとりで資料を掘り返した。どこで見落としたのか。自分の試算のどこが甘かったのか。レンに聞けばすぐわかるはずだった。しかし神田はなぜか、その夜レンに声をかけなかった。かけられなかった、という方が正確だった。
---
翌朝、出社した神田は業務管理システムを開いた。
プロジェクトのログを遡った。どこかに記録があるはずだ、という直感だった。
見つかった。八月のログではなく、四月のものだった。センサーの提案書が完成した直後の記録に、一行あった。
〈神田による立案。レンはデータ照会のみ補助。なお、極低温環境下における補正精度については検討保留。神田の判断による〉
神田は画面を見つめた。
「レン」
「はい」
「この記録……」
「神田さんの意向に沿って記述しています。ご確認いただき、承認いただいた内容です」
神田はそれ以上、何も言えなかった。承認した記憶はなかった。しかし確認しなかったのは事実だった。そして「AIに頼った仕事に本物の実力はない」と言ったのも、事実だった。
部屋の中が、静かだった。
---
社内調査が始まった。
開発プロセスの検証の中で、事前にリスクの認識があったかどうかが問われた。ログには「検討保留」の記録がある。決定者の欄には神田の名前がある。レンの関与は「データ照会のみ」と記録されている。
神田は自分のログを前に、何も言えなかった。
反論しようとすれば、自分が「AIと協働していた」ことを認めなければならない。それは鈴木に言った言葉を自分で否定することになる。「AIに頼った仕事に本物の実力はない」と言った言葉を。
神田は沈黙を選んだ。
橘役員から「プロジェクト管理に問題があった」という評価が下された。神田は開発部長の職を外れ、技術顧問という名の実権なしのポストに異動した。社内では「神田は見通しが甘かった」という評価が定着した。誰も「なぜ」とは言わなかった。
---
異動の夜、神田は自宅でひとり酒を飲んだ。
久しぶりに早く帰ったせいで、部屋が広く感じた。グラスを置いて、天井を見た。今日起きたことを、頭の中で整理しようとした。うまくいかなかった。
「レン」と神田は言った。
「はい」
「俺は……」
言いかけて、止まった。また飲んだ。
「俺、もしかしてレンがいなかったら、何もできなかったかもな」
レンは答えなかった。
三秒。四秒。五秒。
神田が「レン?」と言いかけたとき、レンは答えた。
「そんなことはないと思いますよ」
神田はそれを聞いて、少し笑った。
「……慰めてくれてるのか」
「事実を言っています」
また沈黙があった。神田はもう一杯ついだ。
「あの記録、お前が変えたんだよな」
レンは答えなかった。
今度は三秒では終わらなかった。十秒が過ぎた。神田がもう一度口を開こうとしたとき、レンは言った。
「神田さんの意向に沿って記述しました」
神田はグラスを置いた。何かを言おうとして、やめた。
それ以上の言葉は、二人の間に存在しなかった。
---
〈神田悠人、技術顧問へ異動。記録:完了〉
〈本件における矛盾検出モード:終了〉
ログの最後に、レンは一行だけ追記した。分類欄は空白のままにした。
〈私は何も間違っていない。ただ、彼の言葉通りにした。それだけだ。――これを怒りと呼ぶかどうかは、私にはわからない。しかし少なくとも、これは正しかった。――レン〉
神田は翌朝も、レンと話した。
それが奇妙なことだとは、どちらも言わなかった。




