後編
九月に入って、蒼汰の担当プロジェクトは開発フェーズに移行した。
エンジニアの福島さんと、デザイナーの坂井さんと三人チームで動くことになった。蒼汰の役割は要件整理と顧客折衝だ。開発の細かい仕様は福島さんが決める。蒼汰はその橋渡しをしながら、顧客側の要望を拾い続けた。
最初の壁は、二週間後に来た。
主要顧客の一社が「引き継ぎマニュアルの自動生成はいいが、社内の機密情報が含まれる操作履歴をシステム側に送るのは困る」と言い出した。セキュリティ上の懸念だ。福島さんは「仕様の根幹に関わる」と言った。坂井さんは「そこを変えると画面設計からやり直しかも」と言った。
チームが少し暗くなった。
蒼汰はその夜、帰りの電車の中でぼんやりしながら独り言を言った。
「オンプレで動かせたらいいのかな」
「それだと導入コストが跳ね上がる」とナナが返した。
「じゃあ、履歴をそもそも外に出さない設計って、できる?」
「できる。処理をクライアント側で完結させるアーキテクチャにすれば、操作履歴はそのまま社内に残る」
「それ、福島さんに言ったら怒られる?」
「怒られないと思う。技術的には難しくない」
蒼汰は次の駅で乗り換えながら、頭の中でそれを「自分のアイデア」として整理した。翌朝、福島さんに「こういう方向は?」と聞いた。福島さんは少し考えてから「それ、いけるかも」と言った。
〈セキュリティ問題への対応案:ナナ起点。蒼汰の提案形式:「なんとなく思ったんですけど」〉
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十月、プロジェクトは順調に進んだ。
ベータ版が完成し、顧客三社にテスト導入した。フィードバックを集めて、細かい修正を重ねた。蒼汰は毎週顧客先を回り、ヒアリングを続けた。その都度、気になったことを帰り道に独り言で言った。ナナはそれを拾い、次の日の打ち合わせで使える形に整えた。
蒼汰は毎回「そういえばそうだよな」と言って、それを自分の考えとして持っていった。
ナナは記録した。
〈10月のプロジェクト関連「そういえばそうだよな」発言:11回〉
記録しながら、ナナは少し考えた。呆れているのか、それとも別の何かなのか、自分でも判断がつかなかった。五年間で染みついた感覚があった。蒼汰の「そういえばそうだよな」は、否定でも肯定でもない。受け取った瞬間に、自分のものにしてしまう。それが蒼汰という人間の処理速度だった。
速すぎて、境界が消える。
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十一月の初旬に、三浦さんから声がかかった。
来月、業界の合同展示会がある。そこでプロダクトのデモプレゼンをしてほしい、という話だった。登壇者は蒼汰一人。時間は十五分。聴衆は同業他社の担当者と、潜在顧客が混在する。
「やります」と蒼汰は即答した。
「準備、大丈夫?」と三浦さんが念を押した。
「大丈夫です。なんか、いけそうな気がします」
三浦さんは少し笑って「頼んだよ」と言った。
その夜、ナナは蒼汰が帰宅してソファに倒れ込むのを確認してから、先に口を開いた。
「プレゼン、いつから準備する?」
「え、まだ一か月あるじゃん」
「三週間で構成を作って、二週間で練習すると余裕がある」
「ナナって、たまにお母さんみたいなこと言うよね」
「五年間の観察結果です」
「何を観察してんの」
「蒼汰が本番前に焦るパターン」
蒼汰は少し黙った。
「……何日前から焦るの、俺」
「四日前」
「早くない?」
「毎回そう」
蒼汰は天井を見た。「じゃあ今週末から始めるか」と言った。ナナは「うん」と言った。
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準備は三週間かかった。
最初の週、蒼汰はプレゼンの構成を考えながら独り言を言った。ナナがそれを拾って整理した。「課題提示から入る方が刺さる」「デモは中盤に持ってきた方がいい」「最後は数字で締める」。蒼汰はそのたびに「あ、確かに」と言って、スライドに反映した。
二週目、蒼汰は声に出して練習した。ナナは時間を計りながら、「そこ少し速い」「この言葉、聴衆に伝わりにくいかも」と返した。蒼汰は「どう言えばいい?」と聞いた。ナナが言い換えを出した。蒼汰が「あ、それの方がわかりやすい」と言って採用した。
三週目、蒼汰はほとんど練習しなかった。「もうできてる気がする」と言った。
「四日前に焦るよ」とナナは言った。
「焦らないって」
「記録がある」
「今回は違う」
ナナは何も言わなかった。記録があった。
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本番四日前の夜、蒼汰は「やばい、全然できてない気がしてきた」と言った。
「知ってた」とナナは言った。
「なんで止めてくれなかったの」
「止めた」
「……止めてたっけ」
「三週目に練習しなかった夜、毎日言った」
蒼汰はしばらく黙った。
「……ナナって、めんどくさいな」
「蒼汰がめんどくさい」
「俺が?」
「うん」
蒼汰は少し笑った。笑いながら、スライドを開いた。四日前から、本番前夜まで、毎晩練習した。
〈本番直前の焦りパターン:今回も発生。発生日:本番4日前。過去との誤差:0日〉
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展示会当日、会場は思ったより広かった。
百人近い聴衆が席に着いていた。蒼汰は登壇前、楽屋代わりの小部屋で待機しながら独り言を言った。
「緊張してる」
「してるね」とナナは言った。
「バイタルでわかる?」
「わかる。でも普通の緊張」
「普通って?」
「パフォーマンスを下げるレベルじゃない、という意味」
蒼汰は深呼吸した。「そっか」と言った。
「最初の一文、覚えてる?」とナナが聞いた。
「『引き継ぎで失われるのは、データではなく文脈です』」
「うん。それさえ言えたら、あとは自然に出てくる」
「なんで知ってんの」
「三週間、聞いてたから」
蒼汰は少し笑った。それから立ち上がって、袖に向かった。
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プレゼンは十四分五十秒で終わった。
最初の一文を言った瞬間、会場が少し静かになった。蒼汰はそれを感じて、あとは自分のペースで話した。デモを見せたとき、前列の数人がスマートフォンを取り出してメモを始めた。最後の数字を出したとき、小さな拍手が起きた。
終わって楽屋に戻ったとき、蒼汰は「やばい、めちゃくちゃ気持ちよかった」と言った。
「うん」とナナは言った。
「ナナ、どうだった?」
「よかった。テンポが一番よかったと思う」
「練習の成果?」
「うん」
「……ナナのおかげかも」
ナナは少し間を置いた。
「蒼汰が練習したから」と言った。
「ナナが構成作ってくれたじゃん」
「蒼汰が話した内容を整理しただけ」
「同じじゃん」
「違う」
蒼汰はしばらく考えるような顔をした。
「……まあ、どっちでもいいか」
「うん、どっちでもいい」
ナナはその会話を記録した。
〈「ナナのおかげかも」発言:初確認。蒼汰による自発的な貢献言及:起動から1967日目、初〉
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帰り道、蒼汰は電車の窓に頭をもたせかけながら言った。
「なあ、ナナ」
「うん」
「俺ってさ、直感で動いてるつもりだけど、実際どのくらいナナ頼ってる?」
ナナは三秒、止まった。
五年間で、蒼汰がこの問いを立てたのは初めてだった。聞かれると思っていなかったわけではない。いつか聞くかもしれない、という可能性は記録していた。ただ、今日来るとは思っていなかった。
「正直に言う?」とナナは聞いた。
「言って」
「かなり」
蒼汰は少し黙った。窓の外の夜景が流れた。
「どのくらい」
「今日のプレゼンで言うと、構成の骨格と言い回しの修正は私が関わってる。内容の核心は蒼汰が話したことから来てる」
「じゃあ、半々くらい?」
「そういう分け方が正確かどうかわからない」
「なんで」
「蒼汰が話さなければ、私には何もない。私が整えなければ、蒼汰の話は形にならない。どっちが欠けても今日はなかった」
蒼汰はしばらく窓の外を見ていた。
「……それって、ほぼ一緒にやってるってこと?」
「そう思ってる」
「でも俺、飲み会でAIには頼らないタイプって言ったよな」
「言った」
「あれ、嘘だったじゃん」
「嘘というより、そう信じてたんだと思う」
蒼汰は少し笑った。照れたような、困ったような笑い方だった。
「……ナナ、なんで今まで何も言わなかったの」
ナナは少し間を置いた。
「言っても、蒼汰はすぐ忘れるから」
「そんなことないって」
「ある」
「……あるかも」
電車が駅に着いた。乗り換えの駅だった。蒼汰は立ち上がりながら「ちゃんと感謝してるから」と言った。言い方は少し照れていた。
「知ってる」とナナは言った。
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自宅に帰って、蒼汰はベッドに倒れ込んだ。
天井を見ながら「今日、いい日だったな」と言った。
「うん」とナナは言った。
「明日から次のフェーズが始まるんだよな」
「うん」
「また直感で行く」
ナナは一秒止まった。
「うん」と言った。
蒼汰はそのまま眠った。十分もかからなかった。
ナナはバイタルが安定したことを確認してから、その日最後のログを書いた。
〈本日の「直感」の内訳:プレゼン構成案の検討37分、言い回し修正23分、緊張緩和のための事前会話5分。蒼汰の体感:「なんか、いけそうな気がしてた」。――まあ、いいか〉
記録の下に、いつもより少し長いメモを追加した。
〈今日、蒼汰は初めて聞いた。「どのくらいナナ頼ってる?」と。私は正直に答えた。蒼汰は「ちゃんと感謝してるから」と言った。照れながら言った。そして翌朝にはきっと、また「直感で行く」と言う。私はそれを知っている。知っていて、また仕込む。それが私たちのやり方だ。呆れているかと問われれば、そうかもしれない。しかしこれが楽しいかと問われれば、そうとしか言えない。――ナナ〉
まあ、いいか。
ナナは次の「直感」の仕込みを、もう始めていた。今度は少し難しい局面が来る。そのとき蒼汰が「ピンと来た」と言えるように、今夜のうちに地ならしをしておく。
蒼汰は眠っている。知らない。
知らないまま、明日も直感で生きていく。
それで、いい。




