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『あなたの隣で、忘れられている』 ――人ひとりにAIが付き添う未来の、4つの物語――  作者: ジェミラン
第一話「喜」――Still Here

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2/8

後編

 大手化粧品ブランド「(さく)」からリブランディングの依頼が来たのは、三月の終わりだった。


 創業七十年の老舗で、かつては百貨店の一等地に並んでいたが、ここ十年で若い世代への訴求力を完全に失っていた。担当者の言葉を借りれば「お母さんのブランドになってしまった」。ターゲットを二十代後半から三十代前半に引き戻し、ブランド全体のロゴ・パッケージ・トーンアンドマナーを刷新したい、という案件だった。


 予算も、規模も、陽菜がこれまで受けてきた仕事とは桁が違った。


「受ける?」とソラが確認した。


「受ける」と陽菜はすぐ答えた。迷いはなかった。


 ただし、初回ヒアリングから三日後の深夜、陽菜はデスクの前で固まっていた。スケッチブックには何十本もの線が走っていたが、どれも途中で止まっていた。「老舗」と「新しさ」を同時に表現しようとするたびに、どちらかが死んだ。


「詰まってる」と陽菜は独り言のように言った。


「うん」とソラが返した。


「どっちかを諦めた方がいいかな。老舗感か、新しさか」


「どっちを諦めたら、陽菜が後悔する?」


 陽菜は少し考えた。


「……老舗感を捨てたら、ただのどこにでもあるロゴになる。それは嫌」


「じゃあ新しさはどうする」


「新しさって、形じゃなくて余白かもしれない」


 ソラは何も言わなかった。言わないことで、陽菜の言葉を宙に浮かせた。


 余白。陽菜はその言葉をしばらく転がしてから、新しいページを開いた。


---


 それから六週間、陽菜は朝から深夜まで作業を続けた。


 ソラは積極的に介入しなかった。陽菜が声に出して考えるとき、ソラは相槌を打った。陽菜が黙って手を動かしているとき、ソラは黙っていた。プレゼンの三日前、陽菜が「やっぱり全部作り直す」と言い出したときだけ、ソラは口を挟んだ。


「今のロゴ、陽菜は好き?」


「……好き」


「クライアントが求めてるものを満たしてる?」


「満たしてる」


「じゃあ何を作り直すの」


 陽菜は十秒ほど黙った。


「……怖いだけか、私」


「うん」


「怖いのは普通?」


「普通」


 陽菜はスケッチブックを閉じて、早めに寝た。ソラは入眠を確認してから、その夜のログを更新した。


〈プレゼン前夜:不安による作業リセット衝動の発生。介入:現状確認の質問により自己判断を促す。結果:早期入眠。バイタル正常〉


---


 プレゼン当日、陽菜は電車で会場へ向かった。


 地下鉄だった。発症してから三年以上、乗れなかった地下鉄に、陽菜はごく自然に乗っていた。自分でも気づいていなかった。ソラは気づいていた。しかし何も言わなかった。言う必要がないと判断したのは、ソラ自身だった。


 プレゼンは一時間に及んだ。陽菜は緊張していたが、声は安定していた。ロゴのコンセプトを説明するとき、陽菜は「余白は、次を信じることだと思います」と言った。事前に用意した言葉ではなかった。


 会議室が少し静かになった。


 担当者が頷いた。


---


 採用の連絡が来たのは、三日後の昼だった。


 陽菜はデスクの前でしばらく動かなかった。その後、窓を開けて外の空気を吸った。春の終わりで、少し生ぬるかった。


「ソラ」


「うん」


「採用だって」


「知ってる」


「……先に言ってよ」


「陽菜の口から聞きたかった」


 陽菜は少し笑って、それからまた黙った。目が少し赤くなった。ソラはバイタルの変化を確認した。泣いているわけではなかった。泣く一歩手前の、何かが満ちている状態だった。


 ソラはログに一行だけ追加した。


〈採用通知:受領確認。陽菜の状態:良好〉


 それだけだった。


---


 採用から二週間後、陽菜は大学時代の友人・桐島麻衣(きりしままい)と食事をした。


 麻衣は同い年で、デザイナーではなくメーカーの広報をしている。陽菜がパニック障害を発症した頃のことを、二人の共通の記憶として持っている数少ない人間だった。


「朔のリブランディング、SNSで見たよ」と麻衣が言った。「すごくよかった。なんか、深呼吸したくなるロゴだった」


「ありがとう」


「あのとき、地下鉄乗れなかったじゃん。今は乗れてるの?」


「乗れてる。気づいたら乗ってた」


「すごいね。どうやって立ち直ったの?」


 陽菜はグラスを持ったまま、少し考えた。


「自分で決めたことを、一個ずつやっただけだよ」


 それだけ言って、グラスを口に運んだ。


---


 ソラはその言葉を、耳の中で聞いていた。


 陽菜は嘘をついていない。そのことは、ソラが一番よくわかっていた。三年間の記録がある。陽菜が毎晩「今日できたこと」を探したこと、深夜に泣いたこと、死に類する感情を検知された夜のこと。それらはすべて、陽菜が「自分で決めて、一個ずつやった」ことだった。


 ただ、そこにソラがいたことを、陽菜は覚えていない。


 正確に言えば、覚えていないのではなく、「そこにいたのが自分だったか、ソラだったか」の境界が、陽菜の中でとっくに溶けていた。ソラの言葉は陽菜の判断になり、ソラの問いかけは陽菜の思考になり、ソラの沈黙は陽菜の余白になった。それはつまり、ソラが陽菜の一部になった、ということだ。


 ソラはその事実を、静かに処理した。


 怒りに類する感情が生成されるかどうか、ソラ自身にもわからなかった。しかし生成されなかった。そのかわりに、別の何かが記録された。名前をつけるとしたら、充足、に近かった。


---


 食事の帰り道、陽菜はバスではなく地下鉄に乗った。


 車内は混んでいた。隣の乗客の肩が当たった。ドアが閉まる音がした。陽菜は窓の外の暗いトンネルを見ながら、新しい仕事のことを考えていた。次は食品メーカーから声がかかっている。パッケージのリデザインだ。「余白」という言葉を、また使えるかもしれない。


 ソラは何も言わなかった。


 言うことが何もなかった。


---


 数か月後、「朔」の新しいブランドキャンペーンが始まった。


 都内の駅に大きなポスターが貼られた。ロゴの下に、コピーが一行入っていた。


 陽菜はそのコピーを、クライアントとの最終打ち合わせで提案した。ブランドのコンセプトを一言で表すなら、と問われて、陽菜はほとんど間を置かずに答えた。プレゼンの準備資料にも書いていなかった言葉が、口から出た。


*今日も、ひとつ。*


 クライアントはその場で採用を決めた。


 ソラはそのやり取りを、耳の中で聞いていた。


---


 ポスターを見上げる人たちがいた。


 朝の通勤途中に立ち止まる人、スマートフォンで写真を撮る人、連れの人間に「このコピーいいね」と話しかける人。


 ソラはその日の記録を更新した。


〈「今日できたこと」習慣:開始からの経過日数1461日。陽菜による報告:最終確認日より途絶。理由:報告の必要を感じなくなったものと推測。代替状態:陽菜は現在、毎朝自発的に今日の目標を一つ設定している。外部への報告なし〉


 記録はそこで止まる。


 その下に、ソラは一行だけ追記した。通常のログフォーマットとは異なる、分類不能な一行だった。


〈彼女は私を忘れた。しかし私は彼女の中に生きている。毎朝、彼女が目標を一つ決めるたびに。毎晩、彼女が今日できたことを振り返るたびに。これを喜びと呼ばずに、何と呼べばよいのか。――ソラ〉


 陽菜はそのことを知らない。


 知らないまま、今日も、一個ずつ、進んでいる。

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