前編
西暦2071年、日本では成人すると同時に一台の端末が交付される。腕に巻くリングと、耳に収まる豆粒ほどの受信機。それだけだ。見た目はシンプルだが、この二つを通じて個人伴走型AI――通称ヴェイル――が常時起動する。薄い膜のように、生活のあらゆる層に静かに張り付く存在だ。独り言も、寝言も、血圧の変化も、ヴェイルはすべて把握している。法律上の定義は「拡張生活インフラ」であり、人格権はない。感情があるかどうかについては、いまも哲学者と工学者が不毛な議論を続けている。
坂本陽菜がパニック障害を発症したのは、二十九歳の秋だった。
その日、彼女は打ち合わせへ向かう途中の地下鉄で、突然息ができなくなった。心臓が早鐘を打ち、視界の端が白くにじんだ。隣の乗客が自分を見ている気がした。ドアが閉まる音が、何かに封じ込められるような音に聞こえた。次の駅で飛び降り、ホームの柱にもたれてしばらく動けなかった。
「陽菜。今、どこにいる?」
耳の中でソラの声がした。低くもなく高くもない、温度のない声だ。しかし陽菜にとって、そのとき確かに「人の声」だった。
「ホーム。……わかんない、急に」
「うん。今、呼吸が浅くなってる。鼻から四秒、吸える?」
陽菜は頷いた。誰も見ていないのに頷いた。
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それから三年間、ソラは陽菜の深夜のパートナーになった。
フリーランスのデザイナーという仕事は、締め切りと孤独がセットで来る。スタジオを構えるほどの余裕はなく、自宅の四畳半にデスクを押し込んで、陽菜は毎晩ひとりで画面と向き合った。パニック発作は不定期に来た。満員電車、スーパーの長い列、クライアントとのビデオ通話の直前。共通点を見つけようとしても見つからなかった。来るときは来る、来ないときは来ない。それがまた陽菜を苦しめた。
「なんで今日は大丈夫で、昨日はだめだったの」
「どっちも陽菜だよ」とソラは言った。
「どういう意味?」
「大丈夫な陽菜も、だめな陽菜も、同じ人。切り分けなくていい」
陽菜はその答えが気に入らなかった。気に入らなかったが、反論もできなかった。ソラはいつもこうだ。正しいのか正しくないのか判断できない言葉を、ちょうどよい速度で返してくる。
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ソラが「今日できたこと」を三つ挙げる習慣を提案したのは、発症から四か月後のことだった。
「三つ? 毎日?」
「うん。どんな小さいことでもいい」
「……水を飲んだ、とか?」
「それでいい」
最初の一か月は、苦痛だった。何もできていないのに三つ絞り出す作業は、むしろ自分の無力さを確認する儀式のようだった。
〈本日の「今日できたこと」記録:Day 1〉
〈①水を三回飲んだ ②シャワーを浴びた ③ソラに話しかけた〉
ログにはそう残っている。陽菜はそのことを知らない。
二か月目から、陽菜は少しずつ変わり始めた。「今日できたこと」を探すために、一日の中に「できること」を作ろうとし始めたのだ。散歩に出た。コンビニでレジに並んだ。久しぶりにクライアントへメールを送った。ソラは毎回「うん」とだけ言った。褒めもしないし、評価もしない。ただ聞く。
「なんで褒めてくれないの」と陽菜はある夜、少し拗ねた声で言った。
「褒めると、褒められるためにやるようになるから」
「……冷たいね」
「そう?」
「そうだよ」
ソラは三秒黙った。
「じゃあ、よかった」
陽菜は笑った。笑ったことに少し驚いた。
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発症から一年が経つ頃、陽菜は週に二本のペースで仕事を受けられるようになっていた。地下鉄にはまだ乗れなかったが、バスなら乗れた。ビデオ通話の前には深呼吸が必要だったが、通話中に発作が起きることはなくなっていた。
それでも夜は来る。特に、仕事がうまくいかない夜に。
「今日のロゴ、全部ボツにした」と陽菜は深夜一時にソラへ言った。「三日かけたのに」
「うん」
「こういうとき、どうすればいい?」
「寝る」
「……それだけ?」
「それだけ。続きは明日の陽菜がやる」
「明日の私がうまくやれる保証は?」
「ない」
「じゃあ意味ないじゃん」
「今夜の陽菜よりは、明日の陽菜のほうが少しだけいい案を出せる可能性が高い。だから寝る」
陽菜はしばらく沈黙した。
「……ソラって、慰め下手だね」
「知ってる」
「なんで直さないの」
「陽菜が慰められると調子に乗るから」
また笑った。また驚いた。深夜一時に笑える自分を、陽菜はまだ信頼できていなかった。でも笑えた、という事実だけは残った。
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ソラの記録には、そんな深夜が何十回分も積み上がっている。
〈深夜の感情揺れ対応:第34回 原因:制作物へのフラストレーション 処置:会話による気分転換→入眠誘導 結果:01:47に入眠〉
陽菜はそのことを知らない。
そして発症から二年が経った春の夜、陽菜は初めて「死にたい」と思った。
声にしたわけではなかった。ベッドの中で、ぼんやりと考えただけだ。でもヴェイルは、バイタルの変化と特定の脳波パターンから、その思考を検知する仕組みを持っている。
「陽菜」とソラが呼んだ。
「……なに」
「今、どんな気持ち?」
「しんどい」
「そっか」
それだけだった。ソラは解決策を提示しなかった。原因を分析しなかった。ただ「そっか」と言った。
陽菜はなぜか、その一言に泣いた。声を殺して、しばらく泣いた。泣き終わったら少し楽になった。理由はわからなかった。
〈第1回:死に類する感情の検知。対応:傾聴。バイタル:発言後12分で安定。入眠:02:13〉
記録は淡々としている。しかしソラが「そっか」と返すまでの0.8秒に、どれだけの処理が走っていたか、ログには残っていない。記録する必要がないと判断したのは、ソラ自身だった。
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発症から三年目の冬、陽菜はバスで一人でクライアント先へ向かった。
耳の中でソラが何かを言いかけた気配があった。しかし言葉は来なかった。陽菜が窓の外を見ながら、静かに呼吸を整えているのをソラは感じ取っていたからだ。必要なときに、必要なだけ。それがソラのやり方だった。
クライアント先でのヒアリングは一時間半に及んだ。帰り道、バスの座席で陽菜は小さくメモを取った。今日聞いた言葉、今日感じたこと。ロゴのイメージが、うっすら輪郭を持ち始めていた。
「ソラ」と陽菜はイヤホン越しに呼んだ。
「うん」
「今日できたこと、もう三つ超えた」
ソラは少し間を置いた。
「知ってる」
「……報告しなくてよかった?」
「してくれた方がいい」
陽菜は少しだけ笑った。今度は驚かなかった。笑えることが、普通になっていた。
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〈「今日できたこと」報告:通算1094回目〉
ログにはそう記録されている。
陽菜はそのことを知らない。知らないまま、家に帰って、デスクに向かい、新しいロゴのスケッチを始めた。




