第57話 嗚咽
私たち王女の護衛は、王の寝室のある建物の外で待機していた。
空気が重い。
先程から、重臣たちが忙しなく行き来している。誰もが顔色を変え、足を速め、誰とも目を合わせない。
40代くらいの武官が廊下の角を曲がっていく。
あれがキョウ王女の叔父、シン大将軍か。実質的なこの国の軍部のリーダー。
このどこかにコウロのやつもいるかもしれない。
ワタシは何気ない顔で周囲を流しながら、手だけは剣の柄に近い位置に置いていた。
「アビ、ちょっとこい。」
トウマが目線だけで物陰を指した。
さりげなく、しかし素早く移動する。護衛の動きとして不自然にならない速さで。
「どうしたの?」
「声を落とせ。」
トウマの顔が険しかった。
「私は一羽のスズメと意識を共有し、窓から国王の病室を見ていた。」
低く、早口で続ける。
「国王陛下が亡くなられた。その場で遺言が発表されたが――そこでとんでもないことが起きた。」
「その場にいたのは、医師、カイ殿下の母君レイカ王妃、キョウ王女の母君エイレイ王妃、ジヨウたち数名の宦官、キョウ王女。そして立会人としてリョウコ殿がいらっしゃった。」
(証人として、リョウコさんを呼んだわけか。)
「遺言の内容は――カイ殿下を王とすること。」
……。
(やはりキョウではなかったか。)
「ここからが問題だ。その遺言は偽物だ。」
「え――」
「声。」
トウマに制される。
ワタシは息を呑んで続きを待った。
「国王陛下はその遺言が読まれる直前に、すでに亡くなられていた。ジヨウが本物の遺言書を握りつぶした。そして呪術師を使い、陛下の亡骸を一時的にアンデッドにして、遺言を読ませた。」
(国王をアンデットにするはゲスが。)
「死後直後だ。見た目ではわからない。しかしリョウコ殿はそれを見抜いた。その場でジヨウを告発した。」
「それで?」
「ジヨウはリョウコ殿の身柄を拘束しようとした。」
「拘束――」
「リョウコ殿は警備を振り払い、逃げた。おそらく、まもなく私たちにも指令が来る。」
その言葉が終わるより早かった。
「リョウコが反逆した!見つけ次第捕らえろ!殺しても構わん!」
怒号が廊下を走り抜け、一気に周囲が動き出す。
足音。叫び声。金属の擦れる音。
「リョウコさんはどこへ!?」
「上空のハヤブサで追っていたが――完全に姿を消された。隠行の術か、建物に入ったか、それ以上は追えなかった。」
トウマの声は平静だったが、その眼は険しかった。
「くそ。」
ワタシは奥歯を噛んだ。
廊下を駆け抜ける兵たちを、何もできずに見ていることしかできなかった。
◇
その夜、ワタシとトウマは密かにキョウ殿下のもとに集まった。
トウマはことの真相をキョウ殿下に伝えた。
「父上をアンデッドにだと……!」
キョウ殿下の声が震えた。
「許さんぞ。ジヨウめ。どうしてくれよう。」
怒りなのか悲しみなのか、もはや区別がつかない声だった。
「殿下……」
父をアンデッドにされた。かける言葉が、見つからなかった。
その時、屋敷の外が騒がしくなった。
「なんだ?」
ワタシは窓から宮廷の様子をうかがう。
火が上がっていた。
兵士がなだれ込んでくるのが見える。松明の光が闇の中を走り、怒号が飛び交っている。
「これはどういうことだ?」
「シン将軍の手のものだな。殿下の身柄を確保するために、もはや手段を選ばなくなったのだろう。」
「兵士たちが次々と宦官を――」
トウマが呟きかけて、止まった。
「……殿下を害する気はないようだ。」
その瞬間だった。
全身から力が抜けた。
「何……これ。」
膝が折れる。呼吸が止まる。視界が暗くなる。
「アビ!」
殿下の声が、遠い。
死ぬのか。
そう思った瞬間、すっと楽になった。
「大丈夫か、アビ。私が結界を張った。」
妲姫の声だった。
「宦官たちが、刻印を受けた人間を生贄に悪魔を召喚しようとしている。」
「どういうこと……」
「刻印を受けた人間は悪魔召喚の餌だ。奴隷でも人間を生贄にするのは世間体が悪いからな。刻印持ちの人間ならだれも困らない。窮地に陥った宦官どもが、宮廷中の刻印持ちを一斉に生贄にしている。私も刻印を受けた人間を生贄に受肉した。だから分かる。」
「そんなことを……」
ワタシは大きく深呼吸をした。
「あなたがいなかったら死んでいたわね。礼を言うわ、妲姫。」
「そうか。」
妲姫は少し間を置いた。
「ならアビ、一つ頼みがある。」
「なに?」
「私を今すぐ殺してくれ。」
部屋が静まり返った。
妲姫は自分の胸元に手を当てた。
赤い光の塊が、そこに浮かび上がる。
「これが私の精神体の核だ。魔力を込めて、私の体ごと貫け。」
その声は静かだった。
◇
「こんな時に悪い冗談はよせ。」
殿下が妲姫を咎める。しかしその声は、わずかに揺れていた。
「冗談じゃない。殿下、お別れだ。」
「なぜだ。」
「私は宦官に召喚された悪魔だ。宦官どもはまもなく、殿下を殺すよう私に命令を出す。その契約には逆らえない。」
「ふざけるな!お前は私を守ると契約したではないか!」
「そうだ。だが上位の契約には逆らえない。逆らうには私が消えるしかない。」
「まだ命令が来たわけじゃない。何か方法があるはずだ。」
殿下の声が高くなる。
「妲姫、お前がいなければ私はあの後宮でひとりだったんだぞ。誰も信用できない場所で、お前だけが――」
殿下の声が揺れる。
「殿下。」
妲姫が静かに遮った。
「安心してくれ。死ぬといっても、悪魔族はいずれ復活する。」
「なら明日には戻ってくるんだな。」
殿下の声に、かすかな希望が混じった。
「……残念だが、また魔力が溜まるのに数百年はかかるだろうさ。」
沈黙。
「ふざけるな。」
殿下の声が低くなった。
「お前はずっと一緒にいると言ったじゃないか。妲姫。」
「すまない。」
妲姫の声が、初めて揺れた。
「殿下が優しいから、ついそう言ってしまったんだよ。」
「妲姫……」
殿下は妲姫にしがみついた。
子供のように泣いていた。
あの奔放で、誰の前でも怯まないキョウ殿下が。後宮の中でただ一人の友の名を、何度も呼んでいた。
妲姫は何も言わなかった。
ただ、その背中にそっと手を回した。
しばらく経って、妲姫はゆっくりと殿下から体を離した。
「アビ、トウマ、殿下のことを頼むぞ。」
「妲姫……。」
ドクン。
妲姫の体が、一度大きく鼓動した。
その眼が、わずかに変わった。
「やれ、アビ。宦官どもが命令を出そうとしている。手遅れになる。」
「やめろ、アビ!命令だ!」
殿下の声が裂けた。
ワタシは殿下を見た。
「殿下、いいえ、キョウ。私たちは友達だったよね。友達に命令はするもんじゃないよ。」
「ああ、それでいい、アビ。」
妲姫が笑った。
いつものからかうような笑いではなかった。
「お前、覚えているか。あの夜、私を連れ出しただろう。外の空気を吸わせてやるって」
殿下の声が、震えていた。 。
妲姫は何も言わなかった。
「私はあの時、初めて生きている気がしたんだぞ……」
「殿下。」
妲姫が笑った。
「お前と初めて後宮を抜け出した夜、あれは楽しかったな。」
悪魔の目が、かすかに光った。
「キョウ、アビ。私も、お前たちが大好きだよ。」
「私もスキよ、妲姫。またね。」
「ああ、またな。」
ワタシは剣に魔力を込めた。
妲姫は目を閉じなかった。
最後まで、キョウ殿下の顔を見ていた。
剣が、核を貫いた。
妲姫の体は光の粒子となって、静かに消えていった。
部屋に残ったのは、殿下の嗚咽だけだった。
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