第256話 霊教国
数日前-
ジョカエル、カイ王、リジュエルの三人は、リジュエルの御す簡素な馬車に揺られ、どこまでも続く街道を進んでいた。
街道の左右には穏やかな田園が広がり、魔獣の気配すらない。
「……このあたりは、ずいぶん穏やかなんだな」
カイは、向かいに座るジョカエルに目をやった。
「もうすぐ霊教国の国境です。ここは国の東の端ですが、聖域の結界がありますから、魔物はまず出ません。ご安心ください」
ジョカエルは柔らかく微笑んだ。
しかし、その微笑みが慈愛だけでできているわけではないことを、カイはこの旅で十分に学ばされていた。
「迎えの部隊を出すよう、前もって伝えてあるのだけど……リジュエル、見えるかしら?」
リジュエルは小さな遠見鏡を取り出し、前方の地平をのぞきこんだ。
「……はい。国境の関所に、迎えの部隊が並んでお待ちです」
「そうか……ようやく、着いたんだな」
カイの険しかった表情が、わずかにゆるんだ。
王宮で着ていた豪奢な服は、旅のあいだに路銀に変わるか、風雨にさらされてすり切れていた。
今のカイの身なりは、庶民の旅人と何も変わらない。
◇
馬車が関所に近づくにつれ、整列した千人ほどの聖騎士団の姿がはっきりしてきた。
千の兵は誰一人私語を交わさず、静寂の中、身じろぎもせずに並んでいる。
馬車が止まると、先頭に立つ神官が片膝をついた。
「――ようこそお越しくださいました。偉大なる東の央国、第二十三代国王、カイ大王陛下。霊教国一同、陛下のご来臨を心より歓迎申し上げます」
「久しぶりね、フギエル。あなたが自分で国境まで来るなんて」
ジョカエルが薄く笑った。
フギエルと呼ばれた二十代半ばの精悍な男は、姿勢を正したまま、穏やかに笑みを返した。
「ジョカエル大司教。無事のご帰還、何よりです。……さすがと言うべきでしょうか。あなたが一人で異国へ赴き、その国の王をお連れすると言った時、教団の中では誰も本気にせず、戯言だと笑う者さえいました。今、彼らの驚く顔が目に浮かびますよ」
「私を信じて送り出してくれたのは、あなたを含めて、ほんの何人かだけだったものね」
「そうはおっしゃいますが、本当にカイ陛下をお連れになったと聞いた時は、私でさえ耳を疑いました。……積もる話は、また後ほど。陛下、まずは長旅の汚れを落とされ、お召し替えを。我が部隊の宿舎で、しばしお休みください」
フギエルは一礼して、言葉を継いだ。
「この後、聖都にて、教皇猊下との謁見がございます。猊下も、カイ陛下にお会いできる時を、首を長くしてお待ちです」
◇
後日――カイは盛大な歓迎を受けて聖都に迎え入れられ、その中心にそびえる真都大聖堂で、教皇との謁見に臨むことになった。
大聖堂の中は、静けさと神聖な空気に満ちていた。
高い窓から色とりどりの光が注ぐなか、両脇には重装の聖騎士と白衣の神官たちが整然と並び、新しい王の歩みを見守っている。
広間の奥、数段の階段の上には、二つの豪奢な玉座が据えられていた。
その傍らに立つのが、霊教国の頂点、教皇ノエルだった。
ノエルは八十を超える高齢でありながら、背筋はまっすぐに伸び、衰えをまったく感じさせない威厳をまとっていた。
なお、二つの玉座よりさらに一段高い最上段には、もう一つの玉座がある。
そこには肉体を持たぬ霊神の御霊だけが座すと伝えられ、空のままのその席は、見る者に言いようのない圧迫感を与えていた。
正装に身を包んだカイは、背筋を伸ばし、厚い絨毯を一歩ずつ踏みしめて、ノエルのもとへ進んだ。
「――余が央国、第二十三代国王、カイである」
カイは、王家の古式に則って名乗った。
「我が名は教皇ノエル。……央国の幼き王、カイ殿。遠路はるばる、よくぞ参られた」
ノエルは、孫を見るような温かい目でカイを見つめ、玉座に座るよう促した。
カイは礼を保ったまま、示された席に腰を下ろした。
続く会談では、国境に至るまでの旅のこと、央国の行く末、そして霊教国が掲げる理想の世について、言葉が交わされた。
ノエルはカイの一言一言に深く頷き、時に微笑み、時に涙を浮かべながら、若い王の話を聞いた。
「カイ殿よ……その手を見ればわかります。この聖地へ辿り着くまでに、どれほどの苦労をされてきたか」
言われて、カイは自分の両手を見つめた。
かつて白く滑らかだった手は、荒れて、小さな傷がいくつも残っていた。
城を出たころの、守られるばかりの少年の手では、もうなかった。
「……それに引き換え、ジョカエルは少しも変わっておらんな」
ノエルは、傍らに控えるジョカエルにいたずらっぽい目を向けた。
彼女の姿は、どれほど風雨にさらされようと変わらず、白く透き通った肌には、傷ひとつなかった。
「猊下、公の場で女性の容姿を軽々しく口にされるのは、セクハラというものではありませんか?」
ジョカエルの涼しい返しに、ノエルは愉快そうに笑った。張りつめていた大聖堂の空気が、ふっとゆるんだ。
「カイ王よ、まずは焦らず、我が国の暮らしを存分に見ていかれるがよい。我らは、貴国との揺るぎない親交を、心より望んでおる」
謁見はそうして終わり、カイはノエルの言葉を、じっと胸に刻んだ。
◇
翌日――カイはジョカエルとフギエルの案内で、聖都『真都』の街をめぐり、同行した外交官や学者から、国の仕組みについて詳しい説明を受けた。
「……この国には、生まれによる『身分』というものが、基本的にないんだな」
カイは感心したように呟いた。
「そのとおりです。組織上の階級はありますが、央国のように、血筋で貴族や王族が決まることはありません。市井の民でも、信仰と研鑽次第で大司教にも、教皇にさえなれます。異国の出のこの私が大司教でいることが、何よりの証拠です」
ジョカエルは、どこか誇らしげだった。
「それに……僕の見落としでなければ、この街のどこを見ても、飢えている子どもがいない」
カイは馬車の窓から、笑いながら走り回る子どもたちを見つめた。
「ええ。人目の届かないところで助けを求める者が、まったくいないとは申しませんが、この国では、そうした子どもが放っておかれることはありません」
「ノエル様は……本当に偉大な指導者なんだな」
「ええ、心から。外交の面目もあって、昨日は盛大にお迎えしましたが、猊下の暮らしぶりは驚くほど質素です。……私自身も、ノエル様に救われた一人なんです」
「ジョカエル、お前が……?」
「はい。私は異国の生まれで、そのうえ、異世界の記憶を持つ者です。教団の中には、私を忌み嫌う者も少なくありませんでした。ノエル様は、そんな私をずっと庇い続けてくださったんです」
馬車は、迎賓館の前で止まった。
用意された部屋に入っても、カイは窓の外の街並みをじっと見つめていた。
やがて、意を決したように口を開いた。
「……よし、決めたぞ。ジョカエル、僕は当分この霊教国に留まって、政治と信仰のあり方を学ぶことにする」
「……本気ですか? 国の政治はどうなさるおつもりです?」
ジョカエルは足を止め、カイの目をまっすぐに見返した。
「もともと、僕は王の器じゃなかったんだ。王位は、姉上――キョウ姉上に譲る。正式な儀式はいずれやるとして、すぐに央国へ書状を書いて、使いを出してくれ」
「……わかりました。ですが陛下、使いを出す必要はありません」
ジョカエルは微笑むと、部屋の壁にかけられた大きな姿見の前に立った。
【水鏡】――。
ジョカエルが鏡に手をかざすと、硬いガラスの表面が、水面のように揺らぎはじめた。
「さあ、陛下。この鏡に手を当てて、キョウ王女殿下のお名前を強く呼んでください」
カイは戸惑いながらも鏡に歩み寄り、揺れる鏡面に手のひらを重ねた。
そして、言われたとおり、姉の名を呼んだ。
「姉上……! キョウ姉上……ッ!」
――次の瞬間、鏡面が大きく波打ち、水の向こうに、キョウの姿がくっきりと浮かびあがった。
◇
同じころ――霊都の王宮。キョウは鏡台の前に座り、侍女に化粧を施されていた。
「きゃああああっ!?」
突然、後ろに控えていた侍女が悲鳴をあげて腰を抜かした。
驚いたキョウが鏡をのぞきこむと――そこには、行方知れずになっていた弟、カイの姿が映っていた。
「カ、カイ……!? 本当に……本当にカイなのかッ!?」
キョウは鏡台に身を乗り出して叫んだ。
しかし、鏡の向こうのカイも、目を見開いて何かを叫んでいるのに、声はまったく聞こえてこない。
◇
「姉上ッ! 姉上ぇッ!」
カイは鏡に向かって声を張りあげた。
しかし、向こうの声も届かない。
「この術は、姿だけを遠くへつなぐものですからね。……陛下、こちらをお使いください」
ジョカエルは、カイの手元に紙とペンを差し出した。
◇
鏡の向こうで、カイがペンを取ろうとしているのを見て、キョウはすぐに状況を察した。
「紙とペンを、すぐに持ってまいれ! 妲姫、この術がどこから来ているか探れ! カギとアマンを、今すぐここへ呼べッ!」
キョウの怒号に、廊下に控えていた近衛隊長オウライが部屋へ飛びこんできた。
「失礼いたします、殿下! ご無事で――なッ!? へ、陛下……!? いや、これは一体何事ですかッ!?」
行方知れずの国王が、鏡の中に現れた。
その光景に、王宮はたちまち大騒ぎになった。
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