第248話 濁流
数日前――。
大河・コウに背水の陣を敷いたアマン陣営の、遥か上流。
ショウはわずかな近衛のみを供として連れ、闇夜の川面に一艘の小舟を浮かべていた。
「よし、沈めろ」
ショウの命令を受け、鉄で固く厳重に封印された箱が、底知れぬ暗黒の水中へと静かに沈められていった。
(……これで良いのだ)
ショウは声に出すことなく、自らの胸に強く言い聞かせた。 姒鯀がもたらした狂気の産物『核兵器』と、その起動を司る一対の装置のうち一つを、大河の深底へと廃棄したのだ。
(このような災厄の力に頼らずとも、アマンごときに敗れる私ではない)
ショウは再び静かに舟を返し、決戦の地・本陣へと戻っていった。
◇
アマンは、見渡す限り至高の光で満たされた見知らぬ神殿の中に、ただ一人立ち尽くしていた。
(これは……夢か……?)
(私は確か、エイサイと……)
『――アマンよ』
(何者だ……!?)
声の聞こえた方向へ鋭い視線を向ける。
そこには眩いばかりの光が存在していた。
神聖にして雄々しい声が空間に響き渡るが、光彩があまりに強く、その姿を視認することはできない。
『真神はお前たち人間が“霊神”と尊称する存在だ』
「……何の用だ。このような場所へ私を招き入れて」
『そう邪見にするな。真神はお前たち人間の味方だ。間もなく、異世界の最悪の災厄「核兵器」により、お前も、お前の愛する部下も、あのショウすらも……濁流に飲まれ、大きなを払うことになる。真神はそれを回避させたいのだ』
「……それだけ解れば十分だ」
アマンは言葉を打切り、己の強靭な意志で意識を強引に現世へと引き戻した。
「……アマン様? どうされたのですか?」
目の前でエイサイが、心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「私は……どうしていた?」
「いえ、ほんの数秒ほど、何やら物思に耽っておられたようですが……」
(あの対話が、ほんの数秒の出来事だと……!?)
(……いや、今はそれを考えている場合ではない!)
アマンは驚愕を眉間に押し込め、即座に思考を戦時モードへ切り替えた。
そして、全軍に向けて電撃的な撤退命令を下す。
「全軍に伝達! 直ちに全軍撤退を開始せよ! ショウによる追撃は無い! 武器や食料はすべて捨て、全力でこの地から離脱し、なるべく高台にあがれッ!!」
◇
霊都――。
王女キョウは高いバルコニーの手すりに両手をかけ、遥か遠方の戦場の方角をじっと見つめていた。
「今この瞬間も、アマンやアビは命を削って戦っているというのに……私はここで何一つできずに指を咥えているだけとはな」
悔しさに耐えかね、手すりを握り締める指先にギチギチと強い力がこもる。
「そんなことはない。殿下がこの霊都に泰然と立っている……ただそれだけで、民の希望として役目を果たしているのだ。」
妲姫が、優しく寄り添うように声をかける。
少し離れた位置では、オウライ率いるアマン直属の親衛隊が、
羽虫一匹近づけまいと鋭い眼光で周囲を警護していた。
――その時である。 キョウの視界が、突如として眩遠な白光に包み込まれた。
(何だ……!? ここは……?)
キョウは瞬時に警戒し、周囲を見回す。
『――こちらへいらっしゃい、キョウ王女』
光の奥から、慈愛に満ちた朗らかな声が響いた。
「だれだ……ッ!?」
声の主を見極めようと目を凝らすが、あまりの光輝に思わず手で顔を覆い隠す。
『真神はあなたたち人間が“霊神”と呼ぶものよ』
その声には一切の敵意が含まれておらず、むしろ全身を包み込むような温もりに満ちていた。
「霊神……!?」
『真神の手をお取りなさい。あなたはこれから、この国を統べる美しき女王となるのでしょう? その歩みを、私がお手伝いして差し上げましょう』
「不必要だッ!!」
キョウは一蹴した。
『……なぜ拒むのです?』
「私は……人間たちと、そしてアビやアオと共に歩むと決めた! 神の威光など借りん!」
『……あの邪神は、人間ことなど何一つ考えてはいません。いずれあなたにも、それが理解できる日が来るでしょう……』
優しげな声は、潮が引くように遥か遠くへと消え去っていった。
「――殿下!? 殿下、大丈夫か!?」
隣で妲姫が、こちらを覗き込んでいた。 視界が揺れ、元のバルコニーの景色が戻ってくる。
「私は……どれほどの時間、意識を失っていた……?」
「え……? いえ、ほんの数秒ほど、ボーッと遠くを眺めていたようだが……」
「あれほどの刻が、たったの数秒……」
「何か……見たのか?」
「……なに、神と少々お茶会をしてきただけだ」
「か、神……? アオ様か究姫様が話を?」
「いや……“霊神”だ」
キョウは静かに呟き、アマンとショウが凌ぎを削る運命の方角を、再び強く睨みつけた。
◇
ショウもまた、己の意識が光あふれる不審な空間へ引きずり込まれたことを察知していた。
「こ、ここは……! 霊神様でおられますか……!?」
ショウは眩しさに片腕で顔を覆いながら、光の奔流に向かって声を張り上げた。
『ショウよ……今すぐ全軍を引き揚げるのだ。そして、一刻も早く可能な限り高い標高へ退避せよ。お前は誤ったのだ』
「な……ッ!? それは一体どういう意味でございますか!?」
『あれは邪悪なる存在が仕掛けた罠だ。まもなく異世界の破滅兵器が起動する』
「愚かな……! 起爆に必要な二つの鍵のうち、一つは大河の深底に沈め、もう一つはこの私が肌身離さず所持しております! 起動など不可能です!」
『それこそがあの者の欺瞞。あの災厄を受け取ってしまったこと自体が、最大の誤りなのだ。あれは初めから邪悪の罠だったのだ……お前は誤ったのだ、ショウよ』
「そ、そんな……まさか……ッ!?」
意識が急速に覚醒し、現実に引き戻される。
「――閣下! 閣下、いかがされましたか!?」
そこは緊迫した気配が満ちる、軍議の天幕内であった。
「全軍、直ちに撤退を開始する!! 陣地も糧食もすべて捨て置け! 一刻も早くこの場を離れ、高台へ退避するのだッ!!」
「は……!? 閣下、突然何を……!?」
重臣たちは、ショウのあまりに脈絡のない乱心ぶりに言葉を失った。
「神の啓示が下りたのだ! あれが……あの災厄が発動するッ! 全軍撤退だ!! アマンの軍勢など放置しておけッ!!」
ショウは滝のような冷や汗を全身から噴き出させながら、悲痛な叫びを天幕内に響かせた。
◇
一方、クロは転移の術式を用いてショウ陣営の上空数百メートルへ瞬時に現れていた。
(さて……)
即座に広域魔力感知を展開。
超高速で20万に及ぶ大軍勢の全粒子を走査し、ショウの個体反応を特定しようと試みる。
通常であれば、クロの膨大な霊力ならば一瞬で見つけ出せるはずだった。
(……ん? 反応が無い……いないのか?)
いや、違った。
四霊の神器『美静弓・魔姫』の放つ特殊な霊波が、クロの高度な魔力探知を巧妙に妨害していたのだ。
(やれやれ、面倒だな。目視で探すか……)
流石に20万の群集から特定の男一人を目視で捜索するのは至難の業だ。
(仕方ない、適当な将校を捕まえて問いただすか)
クロがショウの本陣に向けて舞い降りようとした――まさにその瞬間。
――――――ドガァァァァァンッッッ!!!!
地平の果てから、天を突く凄まじい爆音が爆発的に轟いた。
(……火山か……!?)
クロは思わず爆煙の上がる方角へ顔を向けた。
驚いたのはクロだけではない。20万のショウの兵たちも一斉に足を止め、遥か遠方の異常事態に目を奪われた。
「な、なんだ今の音は……!?」
「アマンの新兵器か!? 奇襲か!?」
動揺と困惑が兵たちの間に急速に広がる。
しかし、ショウだけは直感的に理解していた。
(来た。あの兵器が起動したのだ!)
ショウは狂気じみた怒声を全軍に叩きつけた!
「全軍撤退だぁッ! 武器も甲冑もすべて投げ捨てろ! 一秒でも早く高い場所へ登るのだ! 間もなく未曾有の土砂と大水が押し寄せてくるぞッ!」
「か、閣下……一体何が起きているのですか……!?」
「聞こえなかったのかッ! 全軍撤退だ! 走れッ! 高台へ逃げろォッ!!」
ショウの凄絶な狂叫に呑まれ、兵たちはパニックを起こしながら、我先にと高台を目指して雪崩を打って逃げ始めた。
クロは爆風の発生源に向けて、光速の魔力探知の波動を放った。
瞬時に届いた解析結果に、クロの眉が不快そうに跳ね上がる。
遥か上流の決壊した大河から、山をも呑み込むすさまじい濁流と津波が、凄まじい速度でこちらへ一直線に迫っていた。
(……核だね。間違いない)
(姒鯀のやつか。……やりやがったな)
(だが……なぜあんな河の上流で爆発させたんだ……?)
流石のクロにとっても、ショウが核兵器を大河の底に廃棄していたなどという事実までは知り得るはずもなかった。
(どうする?)
(このままショウの軍勢を見捨てて見殺しにするか?)
(……しかし、それをやったら後でシンに泣きつかれ、『見捨てた』と一生恨まれる羽目になるなあ。)
(でも、ここで私が直接介入して手を出せば、『四霊側の戦争に介入しない』というあの不文律を破ったと、あいつらから何を言われるか判ったもんじゃない……)
(おまけに究姫や凍子の奴らから、延々と嫌味を言われ続けるのも目に見えている……)
――しかし、脳裏に浮かんできたのは、自分を慕うシンの愛くるしい笑顔だった。
(……ハァ、しかたない。)
クロは溜息混じりに、大空へ向けて静かに掌をかざした。
次の瞬間――ショウの20万の軍勢を丸ごと包み込むように、極大半球状結界が天を覆い尽くすように展開された!
(ああ……これは後で絶対、いろんな奴らかいろいろいわれるな……)
直後、押し寄せた巨万の濁流が結界の表面に激突!
咆哮を上げる津波は結界によって完璧に阻まれたものの、行き場を失った破壊のエネルギーは、結界の外側の世界を残酷に削り取り、飲み込んでいった。
◇
「閣下ッ! ご覧ください! 巨大な光の結界が我が軍全体を護るように展開されています!」
高台へ駆け登ったショウは、その報告を受けて己の目を疑った。
(霊神様は……このような直接的な助力を与えてくださる風ではなかったはずだが……)
だが、ショウは直ちに思考を切り替えた。
「――神の奇跡だ! 神が我らを見放さなかったのだ! 助かっている内に、一刻も早く高台の奥へ逃げ込めッ!」
「「「オオオォォォッ!!」」」
「見ろ、濁流が我が軍を避けて流れていくぞ!」
「ショウ様の威徳が神に通じたのだ! ショウ様万歳!!」
歓喜の声を上げる兵たち。 彼らはこれが、上空に佇むクロの気まぐれな力による庇護だとは、知る由もなかった。
◇
「ヤバいッ! こっちにまで来るぞッ!?」
ヨクトが悲鳴を上げた。 まず空気を切り裂く強烈な爆風が襲いかかり、続いて地平線の彼方から、すべてを呑み込む真っ黒な濁流が津波となって迫ってくる。
「……これは思った以上に酷い有様だね。私はともかく、あんた達は全滅するんじゃない?」
凍子は他人事のように冷ややかに呟いた。
「凍子様ぁぁッ! お願いです何とかしてくださいッ! 私とヨクト様の輝かしい未来が消えちゃいますぅッ!」
華侯姫が泣き叫びながら、凍子の身体をガクガクと激しく揺さぶる。
「君もたぶん死なないから大丈夫だと思うよ?」
凍子はニッコリと可憐に微笑む。
「ヨクト様が死んだら私が生きている意味が無いんですッッ!」
「はぁ……後で誰かに怒られても、私は知らないからね?」
揺さぶられるがまま、凍子は溜息をつき、迫り来る壊滅の濁流へ向けてスッと細い掌をかざした。
【最終氷結地獄】――ッ!!
――――――ズン……ッ!!
瞬間、周囲の空間が一瞬で絶対零度の極寒へと落ち込んだ! 見上げるような大津波も、暴虐の濁流も、地平線の彼方に至るまで大地ごと一瞬で氷漬けの銀世界へと変貌した。
「す……ごすぎる……」
その理外の絶大な力の前に、ヨクトは開いた口が塞がらなかった。
「し、しかし凍子様……これはこれで、別の問題が発生するのでは……?」
ビゼンが、一面白銀と化した異常な大地を見渡しながら青ざめた顔で問う。
「まあ……今年の気候がちょっと狂うくらいかな? どのみち時間をかけて溶けるけれどね。とりあえず、君たちを助けろっていうアビからの頼みは果たしたよ」
凍子は可愛らしく肩をすくめて見せた。
◇
アマンは高台の縁から、先ほどまで自軍が陣を敷いていた場所を見下ろしていた。
『ショウの軍勢を完全に無視し、何もかも捨てて即座に高台へ避難せよ』 その異様な指示に戸惑いながらも従った全軍だったが、眼下の惨状を目にして全員が言葉を失っていた。
「……流石はアマン様。あそこに留まっていたら、我が軍は一瞬で全滅していましたね」
遠くで崩落し、濁流に呑まれる大地を見つめながら、エイサイが深く安堵の息を漏らした。
「我が軍の損害も甚大だが……ショウの方は、さらにひどい被害を受けているはずだ」
アマンは遠くの空を見据えた。
(……奴もまた、あの“真神”の啓示を聞いたか)
「……撤退ですね、閣下」
「当然だ。兵器も糧食もすべて失われた。それは向こうも同じこと。我らは一度、霊都へ戻る。……だが、まずは近くの都市で体制を立て直し、補給を行わねばならん」
こうして、アマンとショウによる激闘の初戦は、双方が未曾有の災害に巻き込まれるという異例の形で、痛烈な痛み分けとなって幕を閉じたのだった。
◇
――いずこかの高次元に存在する、神秘の神殿。 そこには三つの至高の存在が対峙していた。
「アマンとキョウの説得には失敗したようだな」
赤い髪の男――霊鳳が、冷徹に告げた。
「ふふ……私は近々、地上へ降りようと思っているよ」
「何だと……!? それは聞き捨てならんぞ、麟!」
巨漢の男――霊亀が、女の言葉に威圧的な声を張り上げた。 女と言っても、全身が神聖な光に包まれており、その肉体的な実体は未だ存在しない。
「私は完全な肉体を得た上で、あの四神や四凶たち……そして何より、あの愛おしき“霊長”たちと直接言葉を交わしてみたいのだよ」
麟と呼ばれた女神は、二人を優しく見つめた。
「神使どもに地上を任せていたから、このような醜態を晒すことになったのだ。まさか異世界の凶悪な核兵器などという代物が、この世界で起動するなど思いもしなかった。……少なくともアレは二度と使えないよう滅却し、アレを持ち込んだ姒鯀という邪悪だけは、確実にこの手で消し去らねばならない」
光の隙間から、黄金に輝く美しい髪がかすかに覗く。
「……それにね! 私は地上の男たちや、あの玄武竜たちと肌を重ねて交わってみたいのだよ!」
麟は可憐に玉座から立ち上がった。
「「はあああああ!?!?」」
霊鳳と霊亀の声が同時に重なった。
「それこそが、肉体を得た者の至高の特権ではないか! なんでも地上では、長く生きておきながら異性と交わったことがない者は、酷く馬鹿にされるそうじゃないか!」
「……いや、神たる我々にそのような俗世の戯れは不要だと思うが……」
赤い髪の霊鳳は、思わず額を押さえて頭を抱えた。
「あら、霊鳳。なら何故私たちにすら、こうして『男女』の性別が存在しているのよ?」
「それは……この世界を満たすナノマターの影響だ。あれは精神体にすら干渉を及ぼす。だからこそ我々はこの世界へ降り立ったわけだが……」
霊鳳が眉をひそめて答える。
「だが……あの姒鯀という危険分子を排除する点については同意しよう。……貴様の受肉の件については、絶対に認めんがな」
腕を組んだ大柄な霊亀が、念を押すように言い放った。
「ふふ、霊亀。別にあなたの許可なんていらないわよ? 今の魔王は霊鳳……あなたでしょう? あなたが許可してくれればそれで良いし、それが駄目でも、次に私が魔王となった時に私が受肉すれば同じことよ」
麟は妖しく微笑み、霊鳳へ視線を送った。
「……まずは姒鯀、そしてアビだ。玄武竜と青竜、更には究姫と凍子までもが味方につくなど、前代未聞の異常事態だ。野放しにすれば朱雀竜すら取り込み、人間を滅ぼしかねん。……あの二人については、必ず“勇者”を育成して排除する」
霊鳳は麟の戯言を無視し、霊亀に向き直った。 次の瞬間、強い光の収束と共に、霊鳳と霊亀の姿は消え去った。
「ふん、頭の硬い奴ら。」
麟は鼻を鳴らすと、足元に透明な水面を生成し、そこから核の爆発によって崩壊した凄惨な地表を、悲しそうに、けれど深く愛おしむようにじっと見つめ続けるのだった。
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